村を代表するような人物と言えば、何と言っても楠公さんであろう。14世紀中頃に活躍した人物で、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に活躍した武将でもある。出自については諸説あるようだが、当地では村の生まれと広く信じられている。生まれ在所が現在の「道の駅ちはやあかさか」付近と伝承されており、発掘作業の結果、掘を巡らした武家屋敷跡が出現したとか何とか。現地には楠木正成公生誕地と記した記念碑も存在する。村にとっては唯一といっても良い偉人なのであろう。
誕生地と伝承される現場を訪ねてみた。屋敷跡とも目される現場は神社風の構成となっており、石造の立派な記念碑が建立されている。周囲には道の駅の建物や構築物それに村の資料館やホールなどが存在する。特筆すべきは村立の資料館であろう。楠公さんにまつわる各種の資料が収集・展示されている。入館料は確か200円だったかと思うが、来訪者も少ないのでジックリと見学可能だ。但し写真撮影は禁止なので必要とあらばメモの実施を。無論、各種のパンフレット類は揃えてはあるのだが。
楠公さんの夫人は久子女史といって、近傍の甘南備村生まれの方だそうな。車で10分~15分程度、楠公さんの通学先でもあった観心寺への道中にある。何度か訪ねたが、サクラの綺麗な丘の上に屋敷跡が残っていた。通学の途中で夫人を見初めたのかどうかは存じないが、そんな推測も生まれるような景観でもあった。夫人との間には3人の息子が生まれたようだが、長男の正行は四條畷の合戦で討ち死にしたのはご存じかと。
湊川の合戦で楠公さんが討ち死にし、その後長男も討ち死にし、悲嘆に暮れた久子女史は近くの楠妣庵観音寺に隠棲し祈りの日々を過ごされたとか。最も異説もあって飛騨国まで落ち延びられたとかの見解もあるそうな。