文字のみです。
ウルトラ長い、面白く無いチラシの裏の独り言が書いてあります。
飛ばしたほうがいいですw
さきほど、12月16日AM2時を持ちまして。
鉄道模型工作記録帳
1周年を迎えました!
おお、よく続いたなぁ。
ということで振り返ることなんてしてみます。
昨年12月まで、「なんちゃってモデラー」を約10年。
10年でまともに記憶にあるので制作したモデルは、リトルジャパンのクモハ40半流程度。
ほかには、GMの京成3700型くらいでした。
しかも京成はいまだに完成していません。
鉄道模型と最初に触れ合ったのは、1976年の事と記録に残っておりまして。
当時亡祖父が何を思ったか、「HOゲージ」を買ってくるという3歳児に何を贅沢な賜り物をしてきまして。
カツミのパワーパック、遠藤の金属道床レール、カツミのB20、ブリキ貨車のレム?トム?ワフ?の組み合わせでした。
ものすごい贅沢な事だと思います。
当時のものは今は何も無いのですが、B20とブリキ貨車だけは最近中古で入手しました。
初の男孫だったので、期待も大きかったのかな?
ゴメンね爺さん。
孫はとんでもない道楽男になってしまいました。
その後、近所の個人経営スーパー(まだ今のように大型流通スーパーなどありませんでした)のおもちゃ棚からプラレールを買ってもらい、
鉄道模型考古学でも謎扱いされた「バンダイミニミニレール」、また年長向けの「トミースーパーレール」などを順当に経由。
コロタン文庫でオタ醸成酵母菌を培養し、
幼稚園年長の1979年になり、
当時の札幌三越デパート模型コーナーで「TOMIX キユ25」を親父から買ってもらってNゲージがスタートしました。
でも、動力車を購入してもらったのは小学校1年だったかと。
前述のカツミのパワーパック、何故かここでもエンドウの金属道床Nゲージトラックからスタートしています。
悉く、当時のものはありませんが、パワーパックを除き、全て当時のロットのモデルを買いなおしています。
初めてキットを目にしたのは、1982年です。
松坂屋改め、ヨークマツザカヤに、グリーンマックスのキットが並んでいたんです。
旧型国電など、コロタン文庫の中の世界でしたが、立体を手に出来るとあって、ねだり込み、クモハ51のキットを買ってもらいます。
色はクリーム色一色だけ買ってもらったので、それ一色でも幸せでした。
セメダインで組み立てたクモハ51は、もちろんパンタも台車も別売りなどわかりませんでしたし、また親が理解するとも思えません。
当時持っていたキハ20の台車を嵌めて遊び始めたと思います。
クリーム色一色のプラモデルは、頭の中でスカ色に変換されて走り出したんです。
考えてみれば、小学2年生で、少なくとも箱にして、スプレー吹いているんだからませたガキです。
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さて、そこからは工作に目覚めたこむめ君。
完成品の分解に走り出します。
まぁ、
結果は
想像通り。
今は何も無いということはそういうことです。
1987年3月31日、国鉄が消えた日。
実は一緒に鉄道を遊んでいた弟を亡くしまして。
それ以前1年くらい親も入院介護で居ない生活を過ごすうち、
こむめは一旦グレます。
(以来、JRの鉄道ではなくJTのハイライトとお友達になります)
はい、
いきなり18歳まで飛びます。
東京に学生生活を過ごすこととなり、
東西線沿線西葛西のガード付近に住むことになります。
「東京ってすげー」
田舎もん。
鉄道模型をまたはじめたくなり、模型店を回るともうそれはパラダイスでして。
なんせ、憧れの「グリーンマックス田端店(なぜ田端だったのだろう?)」に行ったり、大山本店、鶴見店にコソコソ出入りします。
まだ陸の孤島だった麻布十番の麻布ホビーにも良く行き、そこで真鍮キットのワールド電気機関車シリーズに出会います。
そこからですね。
まともな工作を始めたのは。
本をきちんと収集したり、仲間が少しづつ出来たのもその頃です。
(鉄道が話せるのは、今でも友人の、185系供出や先日の平成元年写真の友人Hm位だった)
学生時代、模型については某模型店に一時期入り浸らせていただき、カルチャーショック受けます。
まるで見た事も無いような精度、組み立て方を目の当たりにして、目から鱗、何もかもが神業に見えました。
金が無いなりにそこそこ作っても、全く技術が追いつけるわけもなく、卒業。
就職で模型など出来る状態ではなくなり、「全力疾走社会人・24時間働けますか」状態に入ります。
パソコン通信などで、通信上の友人も増えましたが、ほとんど模型制作をやる事がありませんでした。
この頃にいろいろと鉄道には関わりがあるようになりました。
写真が始まったのはこの頃です。
それまで写真に興味はありませんでした。
その後結婚、住宅ローン抱え、転職、子供の誕生で金が回らなくなり。
写真にだけ使う程度。
一時期ほとんどの模型を売却。
昨年に至ります。
昨年の秋、
会社のストレスもピークになり、ある意味で何かやらないとしんどい状況になりました。
常に仕事が家まで追いかけてくるような中間管理職になり、逃げる時間の必要に駆られました。
かといって、
ネットをやるのも、いい加減不健康である事はわかっており、
部屋は、実は仕事の本が一部以外、全て鉄道関係のもので埋め尽くされており、
いつでも鉄道模型制作する環境があるといえばありました。
キットだけはそれなりに在庫しており・・・
秋からうだうだと考えた挙句
このキットから手をつけることにしたのです。
今までほとんどまともにキットを完成させた例も少ないくせに、薀蓄だけがある。
技法を口では言えるけど、手ではろくに出来ない。
そんな状態でしたから、失敗が怖かったのです。
このキットは、著名なモデラーがバックについて進行されたキットですから、組については良いと評判でした。
一方で、
著名なモデラーらしからぬデッサンの狂いも見られ、時間の関係で修正が打ち切られたのではないかなと見ました。
で、このまま組んでも、どうせ飽きて放り出す事が予想できました。
仕事を通じて、自分の癖を見つけたとすると
「目一杯見栄を張って、自分を追い込むと何とかできるときが多い」
ということ。
飽きっぽく、がさつで、面倒くさがりの神経質。
自分でやるより人のを見たりやってもらう。
そういう性格でしたし、
そういう性格にぴったりの仕事に最初から就いてしまい・・・。
ぶっちゃけ
自 分 で 手 を 動 か す 事 が 非 常 識 に なっていたんです。
あ、その逆こそ非日常かな。
非日常なら、仕事から一瞬だけ逃げられるかな?
と思ったのが思いつき。
追い込むためにブログを書きながら作ってみよう。
と、思ったわけです。
但し
切り継ぎも、配管も、もちろんやった事ありませんでした。
多彩な電車を作ったこともありませんでした。
動力ユニットなんて、両面テープで止めればいいと思っていました。
インレタなんか面倒だから殆ど貼りませんでした。
窓ガラスすら適当に入れるか、あまり入れた事すらありませんでした。
塗り分け?20歳くらい以来なら、103系のサッシくらいですよ。やった事あるの。
そう、そういう状況から始まりました。
つまり、頭ではわかっていますが、技術なし。
やった事の無い技法が頭の中でパレードしており、
偉そうな事言っても、ほとんど実績なし・・・・・から始まりました。
だからたまに 「腕があっていいですね」 とコメントいただくことがある様になりましたが。
とんでもない。
顔面から火を噴くように恥ずかしい気持ちになります。
で、今の1周年です。
思えばよく続いたものです。
ご静聴ありがとうございました。
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楽しみだもん、趣味だもん。
なるべく実生活に役立たないことを、大のオトナが真剣にやるのがいいんです。
此れからも楽しみに拝見しますね。
雷鳥と一緒に写っているのが弟さんなのでしょうか。
今でも心の中で一緒に生きておられるのでしょうね。
本格的製作はブログ開始されてからですか、
私にもとてもそんな風には…
一周年おめでとうございます。
これからもどんな作品が生みだされるのか楽しみにしています♪
しかし、ブログで人目に晒すという効果は絶大ですよね。
多分私が今進めている二つもそれがなかったら、
きっと企画倒れと永遠の仕掛り品となっていたことでしょう。(笑)
1執念w
1周年オメ!
これからもしっかりと泥沼に浸り込んでおくれwww
い・・・いい話か?・・・w
思い切り「チラシの裏に書いていろ、な?」と言うような事を書いただけなんだけど・・・。w
>>東カノさん
半生記というか反省記w
そうで。小さいほうが弟です。
まぁ、正直今でも思い出すと泣けます。
女々しいですが、そう平気で居られるようなものではないです。
娘が弟より年齢大きくなりまして、それは一つの区切りでしたけれども。
それまでは娘が居なくなる夢ばかり見ていました。
>>ひだぞう
さらっと素組がモットーですwwww
いや、そういう逃げ道作らないと行き場失うんで、さらっと完成を楽しむ事をそろそろ並行しようかなと。
常磐線の流れは長丁場ですわ。
自分でも早いなぁと思います。
何でだろうと。
友人には月40台という怪人が居ますが、それは別として、毎日工作机に無心で向かうのが日課になっていますね。
すっかり引籠りお父さんですw
>>ブログを始めてみては?と僭越ながらご進言申し上げたのは何を隠そうこのワタクシ
あれれれれwww
いやぁ、いい切っ掛けを頂きました。
まさかこんなに書くとは思いませんでした。
それ以外の学生時代の日常もね。ありがと。
しかしモデラーのレベル上がってるなぁ。凄いよ。