久しぶりに娘から電話があり嬉しかった。ピアノの練習ばかりさせてお手伝いを余りさせていない。だから一緒に料理をした思い出がない。結婚前に少しくらい料理を教えておけばよかったのにそれも出来ないままに行ってしまった。しかし、自分なりに一生懸命やってくれているので安心だ。私の料理も手抜きでいい加減である。毎日のこと頑張り過ぎると疲れてくるよね。ほどほどが丁度いい。
今日の夕食は、
◆ぶりの柚子味噌焼 ◆鮭のれんこん蒸し ◆野菜の炊き合せ ◆さつま芋きんぴら ◆ご飯
~ぶりに下味がついていないのでモサモサした感じでもう一度やり直しが必要~
送り先だけ印刷され、表面は白紙である葉書が届いた。これは郵便屋さんの所為ではないが、もう暗い夕方5時半過ぎに配達に来る。これを褒めるべきか貶すべきか迷う。早く届けててあげようとしているのか、郵便会社の都合なのか分からないから。暗いので誤配達や郵便受けの悪戯の可能性を考えれば、明朝の方が問題は無いように思う。このように何事も行う側、それを受ける側の考え方に差が出るものだ。
海岸で瓶を拾うと中から一通の便りが出てきた。拾った方は連絡くださいと書いてあった。拾った少年(小学5年生)は手紙を書いたが宛先不明で戻ってきた。そこからテレビ・レポーターがその少年を応援することになり、少年の住む豊後水道の小さな島に行く。少年は小学校でただ一人の在校生で、純朴で言葉も丁寧で岩の多い海岸では「足下に注意して下さい」なんて言う。結局グアムに瓶を流した人に会いに行くのですがノートに話をする英会話を書きつけ、何回も練習し、その人に会えた時片言の会話をする。そんな冒険(チャレンジ)にテレビ局でそのビデオを見るサポーターのタレント達は涙ぐみ拍手を贈る。⇒いつかそんなテレビ内容のものを見た。本当にその少年は偉いと思う。しかし、周りはすべて大人の世界の中で少年らしい遊びや幼稚さを経験せずに大人の社会に入ってしまっていることに何か一抹の不安を覚える。子どもが小さな大人になっている。子どもは子どものままの方がよい。
子どもが騒いだり、泣き叫んだり、言うことを聞かないと殴りつけたりする児童虐待がまだまだ多い。そんなことをする大人は勘違いをして、子どもを「小さな大人」だと思っている。いやいや直情的でそんなことも考えてもいない。逆に大人の方が「大きな子ども」のままで成長できていないのでは…。子どもは子ども、大人は大人であらねばならない。なかなか大人に成り切れていないので後戻りをして正しい成長過程の道を歩みたいと思っている。