オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

登山には、運転と道の知識も要る

2018-11-02 11:13:18 | 地球と生きる

 

 海洋生物の生態を調べるために船から色んな信号音を出し電波を海に放つ、これが原因で生態系が変わってる。

 漁船から出す魚群探知機の電波によって、魚たちは逃げ出して行く、なんのことはない、人類の敗北の一場面。

 自分たちがそこにいることで本当は海洋生物の生態の邪魔をしておるくせに、それを環境の変化や地球の変化のせいにして、恥の上塗りのように次の手を打つ、どう協力的に眺めて居っても、笑うしかない話だろう。

 これが現代人の普通に行ってる、あらゆる惨状に言える。

 一度でも良いから高い山の上から、狭いと言ってる日本の原風景を眺めおろしてみると良い、広いぞ。

 人類の身勝手な屁理屈・自作自演なんてのは、ミジンコほどにも値しないと、肝から痛感させられるだろう。

 

 生きて居って、上手く行かず、ヘマをして、みなに迷惑をかける、壁にあたり、絶望し、どうにもならんと天を見上げ・・・その繰り返しが俺の前半生なら、そこで必ず遊んでしまってた自分はなんだったのか? 誰に教えられたわけでもないのに、せっかくだからなんか愉しもう・・・そう想っていた自分がいた。

 それが今の俺の原点でもある。

 

 子供らをいろいろ育てて来て言えることは、幼稚園や学校に預けるのは自分が働かなければいけないから悪いのであって、本当ならいつも一緒にいていろいろと教えてやりたい、このことだった。

 だから学校へ通い始めたなら、そのスケジュールを調整してでも、俺がなるべく一緒に遊んでいろんなことを見せてやり、教えてやり、社会とはそういうものだが、本当はこうなんだということを叩き込んでやって来た。

 今の人間の世界では、幼児期の子育てはメスが必要だが、10歳前後になったなら、オスが必要になる。

 現代社会という、愚かな人間の大人社会を教えてやるには、いつも高いところに登って見下ろしてる、仙人のようなオスが必要になる。

 ところが今の親や爺婆を見てると金だけだして、あとは学校や他人にすべてを委ねている。

 なにかが起これば金出してるからと叫んで責任を追及するだけ。

 ダメだと思えばまた違う学校や他人を探してる。

 なんか違うんじゃ~ないのか?

 そう想って眺めてると、その親や爺婆は金だして自分の健康を買いに走ってる。

 もう、どうしようもないね。

 

 グループ登山する連中は、その日の行程については事前に聞いておるのが当たり前だけんども、俺が単独や数人と出掛けるときは、一応の目安は話すけんども、あとは行き当たりばったりで俺が決める。

 縦走する場合でも、東にむかう予定が西になることもある。

 それらぜんぶをオツムに入れておいて、その時々にそこで決める。

 春に植えた食物が、秋に獲れる時に価格が上下してしまってては安心できないからと、春にその値段を決めてしまうような、先物取引では自然相手には遊べない。

 山は一緒でも、登り下りのコースを変えるなんてザラだ。

 俺はそういう自由さで、半世紀以上も生きて来てるから、最初に聞いた話と違う! なんて苦情も無い。

 風まかせ、気分まかせ、山まかせ、地球まかせで、その時々の状況にまかせて、のんびり生きて居る。

 登山口までの運転もおなじで、一応のコースは考えておっても、いつもなにかしら違う道になっている。

 なにか必ず愉しい出会いがあり、なにか必ずアクシデントがあり、それによって変化する。

 柔らかく生きてると言っても、良い。

 屁理屈や固いことばかり言って、セオリーや安全と保障ばかり気にして、変わらないことがさも良いことのように考えてる人たちよりも、そういう意味では筋が通っている。

 

 この週末は13万キロくらいしか走ってない山用の車を息子のひとりにとられてしまったから、25万キロ近く走ってるボロ車で出掛けるしかなく、混まないで、なおかつ道のある程度はしっかりした山、そうなってくると山梨か・・・。

 山道ばかり走ってると、それぞれの県の道路行政の性癖みたいなもんがあることが解ってきて、乗る車に合わせた道を選ぶことも可能になる、これは相当に年季が入ってないと無理だろうな。

 そろそろ、冬季閉鎖になる山道が出始めてる。


銀座の人は山へ、田舎人は都会へ

2018-11-01 10:23:36 | 銀座

 

 どんな山でも、いつも担ぐザックを重くしてるのは、上半身を引き締めて、肺を含めた内臓と筋に緊張感を与える意味があり、これは健常だった頃からずっとそうだ。

 だからどんな山でも、ぜ~ゼ~言って歩いてる。

 軽いザックだと息苦しいのが残って、下山してきてあんまり気分がスッキリしない。

 ドスン・ガツンというザックの方が、肩に食い込んで歩きごたえがあるし、片手だと持っていかれそうな重さのほうが、歩きが安定する。

 姿勢が良くなる効果もある。

 銀座に居るといつも猫背になって、あれやこれや良くないことばかり考えて仕事してるから、余計そうなんだろう。

 同行する者の荷物まで担いでやってるのは、そういう意味がある。

 

 一年中、仕事が暇になった夕暮れ時、とっとと海水パンツとスイム帽子とタオルを抱えて出掛けて行く。

 温水プールで泳ぐためだが、柔軟体操をしながら1時間以上もただただひたすら歩いていることもある。

 俺は障害者手帳を持ってるから、駐車料金も入場料もすべてが公費負担のタダ、皆さん悪いね。

 激しく動いた翌日から、全身筋肉痛でもキチンと動く、休息や安静なんてもんは死んでからでエエんやで。

 来年の6月になれば、いつものように東京湾や太平洋の海で泳ぎ始めるから、その為でもある。

 登る筋肉と、泳ぐ筋肉は、いつも柔軟でなければいけない。

 

 俺がコツコツ地上げした銀座の土地を、最初に手を出したデベロッパーは上場して破綻し、最後にリーマン・ブラザーズが買った途端にまたまた破綻して、いわゆるファンドのバブルは一段落した。

 と思ってたら大間違いで、手を変え品を変えして、怪しい投資商品は続々とその後も出回っているが、俺には興味のないゼニカネ紙芝居、あれ以来、当社の口座に7桁8桁の金がぽ~んぽ~んと放り込まれることもなくなった。

 あんな阿呆みたいな話は、30数年前の不動産バブル以来のことで、この国の優秀だと言ってる役人はナニをやっておるのか? 相変わらず想うことは同じだな。

 日本と言う国家をどうするか? そんなスタンスでモノを考えることがない。

 小さな小さなドブネズミ、井の中の蛙に島国の土人。

 銀座で高級品を買って、銀座で高い料理を喰って、銀座で??? みなヨダレカケ下げた幼稚園児やんか。

 やってることが30数年前の不動産バブル時よりもみみっち~し、惨めったらしいし、だから俺は山や海で遊び呆けてる。

 銀座に住む人は新聞・テレビなど興味なく、自由に田舎の自然へといつも出掛け、田舎の人は新聞・テレビに染められて、歪んだ煽動に乗せられる・・・ずっと昔からのことやで。

 銀座に棲んでおりながら都会をウロウロしてるのは、心貧しい見栄っ張りばかり、これ常識でもある。

 

 山カメラというのがあって、いつもガラケーの携帯と一緒に持ち歩いてるタブレットには入ってる。

 これをザックに入れて、360度の展望がある高い山に登り、山頂で使ってみると、遠くの山々まで表示が出る訳だが、日当たりの抜群な山頂では、明るすぎて、酷い老眼ではまったく画面が見えなくなってる。

 なんのこっちゃ。

 俺には豚に小判。

 

 たま~の、たま~に、山小屋があるような山に登ることがあるが、渋滞するメインのコースではなく、歩荷が使う道を歩くことが多い。

 自分の背丈よりも高く荷物を積み上げた背負い子を担いで、ドス・ドス・とゆっくり登る歩荷を見かけると、すげ~なといつも感心する。

 都会にウジャウジャいる筋肉馬鹿とは違って、痩せて締まってる体つきは、人間は筋で生きてることを教える。

 強靭な筋は、生れたときから鍛えておかなければ、上っ面の肉なんざ、手遅れの見てくれで終わる。

 この頃の子供たちは、すぐに骨折し、すぐに筋を傷めるのを見て居るから、その大事さを痛感するよ。

 自分の足で歩けなくなってる高齢者もそう、そんな状態で生きて居って、ナニが愉しいの? そう想う。

 歩荷の姿を見ると、これが直立歩行するようになった人類の常にやらなければいけないことではないかと、俺は痛感させられるね。