門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

『現代語訳 申楽談儀』発刊!

2015-10-19 21:09:06 | 読書
言の葉庵の翻訳作品、3年ぶりに新刊がリリースされました。

『現代語訳 申楽談儀』世阿弥からのメッセージ

世阿弥の相伝書の全文現代語訳です。
創業350年余、能狂言の専門出版社、檜書店さんより刊行されました。
水野聡現代語訳シリーズとしては11作品目。能狂言分野では前作『現代語訳 風姿花伝』から10年目、満を持して能の古典名著翻訳リリースです。

今回は能楽研究の第一人者である、国士舘大学教授表きよし氏に訳文全般について緻密な考証とアドバイスをいただきました。
世阿弥の肉声と舞台姿がイキイキとよみがえる、能狂言古典作品の白眉。
能の初心者の方もすらすら読める、わかりやすくシンプルな現代語訳に、詳細な訳注・世阿弥略年譜も付しました。

新刊の内容と詳細は【言の葉庵】HPの推奨名著ページをご覧ください。
また、ご注文・ご購入はお近くの書店、または出版元の檜書店さん商品ページにてお願いいたします。

●【言の葉庵】HP『申楽談儀』のページ
http://nobunsha.jp/book/post_182.html

●檜書店『申楽談儀』商品ページ
http://www.hinoki-shoten.co.jp/p/現代語訳 申楽談儀/482790999

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【おすすめブック】アン パチェット『ベル・カント』

2015-05-31 08:39:25 | 読書
1996年ペルー日本大使公邸占拠事件が素材の小説。4か月にもおよぶ人質生活の中、世界最高のオペラ歌手を中心に歌と愛の力で、テロリストと人質たちが心の交流を深めていく。虚構のお手本となるストーリーテリングの巧みさ。文章・言葉の一つ一つから神の声をもつディーバ、ロクサーヌの歌が立ち上る。すべての音楽ファン必読!

http://u999u.info/loQB
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『風姿花伝』に学ぶ、老いの美学

2014-10-14 11:33:14 | 読書
五十有余

 このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。



 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。

(『風姿花伝』第一年来稽古條々)


「せぬならでは、手だてあるまじ」
「初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせし」

名役者も老いたるのちは、何もしないという以外やるべきことはない、と老観阿弥は、舞台の非情の論理を世阿弥に伝えました。

舞台の見せ場はすべて若手にゆずり、自分は「少な少な」と手をこまねき、ほんの少し色を添える程度に舞うばかり。

しかし、控えれば控えるほど、裏にまわればまわるほど、
匂やかな花の美が老いた父の舞姿からにじみでてくるのである。
天才ともてはやされた子世阿弥もかぶとを脱がざるを得ませんでした。

人間老いたのち、いかにふるまうべきか。
あるいは、ふるまわざるべきか。
650年の叡智に学びたいものです。

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スタインベック『怒りの葡萄』が描く〔粋〕のかたち

2014-09-05 19:37:07 | 読書
■〔粋〕とは何か?

 〔いき〕は、〔粋〕あるいは〔意気〕と表記し、〔粋〕はまた〔すい〕とも読む。
いずれも、江戸庶民文化の確立を背景とした、近世日本文化のキーワードのひとつです。

 〔わび、さび〕が仏教的な概念をもつ抽象度の高いことばであるのに対し、〔いき〕は誰にもわかりやすく、現代でも日常的に使われていることばではないでしょうか。

「あの人いきだね」
「いきなはからい」
「こいきなつくりの建物」
 …などなど。

 〔いき〕は江戸、〔すい〕は上方由来のことばとされ、それぞれ微妙に定義が異なっていますが、辞書の定義よりも明快に説明しているブログがありましたので、以下をご参照ください。

※HP「粋だね~の意味」について考える(団塊オヤジの短編小説)
http://doraemonn.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/02/post_670b.html


■世界共通〔粋〕の文化

 さて、言の葉庵では〔美的概念〕〔男女の綾〕というよりも、〔いき〕には場を読み、円滑なコミュニケーションをはかりつつ、決して表に立たない「かっこいい行為」「胸のすくようなはからい」という定義が成り立つのではないかと考えています。

 陰徳といえば、何かじめじめした印象をもってしまいますが、「いきなはからい」にはすかっと突き抜けたなんともいえない爽快感がただようもの。
このような〔いき〕は近世日本だけではなく、世界中で庶民共通のモラル、美意識として実践され、また様々な創作作品に描かれています。

 スタインベックの古典的名作『怒りの葡萄』。天災と資本主義により故郷を追われた貧農の一家が夢の新天地を求めて、カリフォルニアを目指す苦難の旅の長編小説です。
 本作には、主要プロットとは別に様々なサブストーリー、エピソードが挿入されています。主人公一家とどこか似通った庶民たちの悲喜こもごもの物語が暖かなまなざしでつづられる。
 無一文で互いに身を寄せ合うしか生き抜くすべのない、弱い人々。ほとほと困窮した人には、それより少しましな人から救いの手がのべられます。しかし貧乏であればあるほど、切迫していればいるほど、他人の施しはありがたく、同時に辛いもの。
 恩着せがましくなく、相手に恥を与えず、さらりと自然に助けてやることが、この小説に登場する貧しい人たちの誇りであり、その行為こそ〔いき〕の原点なのではないでしょうか。

 『怒りの葡萄』があざやかに描く〔いき〕を、貧しい旅人たちのエピソードから要約してお届けしてみましょう。



■スタインベック『怒りの葡萄』要約

 66号線沿いにある、ハンバーガー・スタンド。
中年のウエイトレス、メエと、その夫無口なアルがキッチンをとりしきっている。どこにでもある小さなドライバーの店だ。

 かれらにとって上客は、長距離トラックの運転手たち。うまいコーヒーをいれ、愛想よく送り出せばまた来てくる良い客である。その他、西へと向かうオンボロ車に家財一式を山と積み上げた移民の集団は、金をもたず、すきさえあれば水や備品をくすねる連中。メエに「クソッタレ」と呼ばれている招かれざる客たちであった。

 一台の輸送トラックが店の前に止まった。カーキ色の乗馬ズボンと短い上着、ぴかぴかのひさしのついた軍隊帽の男。そしてもうひとり、運転助手がトラックから降りてくる。
「ハイ!メエ」
「あらまあ。ねずみのビッグ・ビルじゃない。いつ戻ったのよ」
「一週間前さ」
 二人の男は店に入り、ジュークボックスに五セント玉を放り込んだ。
<―ありがとう。おぼえていてくれて、浜辺の日焼けした肌を―君は悩みの種(ヘッドエイク)だったにしても、退屈(ボア)では決してなかった>
 ビング・クロスビーの黄金の声が店内にしみわたる。
 助手はスロットマシンに五セントを入れ、四個せしめたがたちまち全部スッてしまう。

 熱いコーヒーと焼きたてのバナナクリームパイをほおばるビルは、ハイウエイをそれ、こちらにやってくる1926年型のナッシュのセダンに目をとめた。後部席に袋や寝具、鍋釜をぎっしりと積み上げ、その上に男の子ふたりが乗っている。
「メエ、テーブルの上のものは隠しといた方がいいぜ」。

 メエはカウンターをまわり、店の入り口に立った。
 車から降りてきた男は、グレーのウールのズボンに青いシャツ。髪は黒く、あごはとがり、シャツの背中と脇には濃く汗がにじんでいた。子どもたちは裸で、つぎはぎだらけのオーバーオールを身に着けたきり。髪は短くハリネズミのように一面に突っ立ち、顔には埃の縞模様ができていた。

 男は聞く。
「水を少しもらえませんか。おくさん」
「いいわよ。使いなさい」
 メエはしかし、肩ごしに小声で、
「大丈夫。ホースから目を離さないから」
 と奥に伝える。

 男はラジエーターにホースを突っ込み給水すると、子どもにホースを渡した。子供たちはホースを上に向け渇いた馬のように水をむさぼり飲んだ。
「わしらにパンを一山わけていただけませんか?おくさん」
「うちは食料品店じゃないから。パンはサンドイッチにするんだよ」
「わかっていますよ。でもわしらはパンがいるんです。腹ペコなんです。この先長い間なんにもないっていうもんで」
「サンドイッチを買ったら?おいしいハンバーガーだってあるのよ」
「そうしたいのは山々なんだが、ムリなんです。十セント玉一個で家族みんな食べなきゃならないんで」
「十セントじゃ買えないわね。うちには十五セントのしかないから」
 メエの背後から亭主の太い声が響いた。
「しょうがねえや。メエ、パンをやりな」
 亭主は作りかけのポテトサラダに目を落としている。メエは肩をすくめ、夫とトラック運転手たちをちらっ見た。

 メエが入り口のドアを押さえていてやると、その男は汗臭い身体で店に入ってきた。
 男の後をおずおずと追ってきたふたりの子ども。店に入るとキャンディー・ケースの前で釘付けとなる。ふつうの子どものようにそれをせびろうとするわけでもなく、この世にこんなものがあるのか、とただただ驚きじっと見つめているのである。

 メエは、蝋紙で包んだパンをカウンターに置く。
「一本、十五セントよ」
 男は帽子をかぶり直し、
「あの。十セント分だけ切ってもらうわけにはいきませんか」
 という。亭主のアルがどなる。
「メエ、一本丸ごとやっちまいな」
 男ははじめて亭主の方を見た。
「いや。十セント分だけ売ってもらえばいいんで。わしらはカリフォルニアに着くまで細かく計算しているんですよ。だんな」
 メエはあきらめ顔で十セントでいいというが、男はそれではパンを盗むことになる、と反論した。
「かまわないわ。アルがもってけっていうんだもの」
 パンがカウンターの上で男の方に押しやられる。男は尻ポケットから財布を出すと、ひもをゆるめ口をあけた。中にはコインとしわくちゃの札がぎっしり。
「こんなにつつましくするのも変だと思うかもしれませんが」
 男は弁解した。
「わしらはこの先千マイルも行かなきゃならん。はたしてたどり着けるかどうかもあやしいもんですから」

 財布の中から十セント玉をつまみ出そうとすると、はずみで一セント銅貨がくっついてきてカウンターに落ちる。一セント銅貨を追った男の目が、キャンディー・ケースの前の子どもの姿をとらえた。
 男はのろのろとそっちの方へ歩いていき、だんだら模様がついた長いペパーミントキャンディーを指していった。
「こいつは一セントの飴ですか。おくさん」
「どの飴?」
「ほら、あの縞模様のやつですよ」
 子どもたちはメエの顔を見つめ、緊張で身体を固くした。
「ああ―あれ。ええっと、あれは違う。―あれは二本で一セントよ」
「そうですかい。じゃあ二本ください」
 男は一セント銅貨をいとおしむようにそっとカウンターへ置きなおした。
子どもたちは止めていた息をふっとついた。二人はメエからおずおずと飴を受け取ると、そのまま手にぶら下げて、互いにぎこちない笑いをうかべ顔を見合わせる。

「ありがとうよ。おくさん」
 男はパンを取り上げると、店から出ていき車に戻った。子ども二人はシマリスのようにすばしっこく荷物の上に飛び乗り、中にもぐりこんで見えなくなった。
 おんぼろのナッシュはエンジンをかけ、けたたましい音と青く油臭い煙を残し、ハイウエイへとよじのぼっていく。
 店の夫婦とトラック運転手は、ものもいわずじっと見送っている。
 ビッグ・ビルがくるりと振り向くと、
「ありゃあ二本一セントのキャンディーじゃなかったぜ」
「それが、あんたと何の関係があるのよ」
 メエがかみつく。ビルはぼそりという。
「あれは一本五セントだ」

 助手は、
「ぼちぼち行こうとするかね」
 と椅子から腰をうかす。
 二人はポケットに手を突っ込み、ビルが銀貨をカウンターに置く。それを見た助手はもう一方のポケットから同じ銀貨を一枚出し、わきにならべた。
「あばよ」
 メエがあわてて叫ぶ。
「ちょっと!待って、お釣り、お釣り」
「何いってやがる」
 ビルはドアをバタンと閉めた。

 巨体をゆるがしながら、走り去るトラックを見送っていたメエは小声で亭主によびかけた。
「ねえ」
 アルはハンバーグをこねる手を止め顔をあげる。
「何だ」
「あれ見てよ」
 メエはカウンターを指さし、アルは近くまで歩いていってしばしながめた。

 半ドル銀貨が二枚。

 亭主は仕事に戻り、メエはつぶやく。
「やっぱりトラックの運ちゃんだわ」
「…あとはみんなクソッタレだ」


(スタインベック『怒りの葡萄』 要約 水野聡2014年9月)
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光源氏の老い。『源氏物語』若菜 下

2014-08-16 10:55:05 | 読書
さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れられぬわざなり~『源氏物語』若菜 下


源氏物語後半〔若菜 下〕にある、光源氏のことばです。
このことば自体、普遍の真実を含むもののとりたてて際立った文飾はありません。

しかし、このことばを口にした人と向けられた人との関係、そしてそれが発せられた場面。そのことばの真意を知る時、光源氏の未知の人格と深い心の闇が垣間見え、慄然とするに違いありません。
以下に、当句を含む〔若菜 下〕の主要段落を現代語訳でご紹介しましょう。

必要な場合、物語の背景とあらすじは下記リンクをご参照ください。

●3分で読む源氏物語 若菜 下
http://genji.choice8989.info/main/wakanage.html


〔現代語訳〕

●若菜 下

 衛門督をこうした機会に参加させなければ、催しも引き立たず物足りない。その上人々も不審に思うといけないので参上するよういってやったが、病が重いと称して参らない。とはいうもののそれほど病状も悪くなさそうである。遠慮しているのでは、と気の毒に思い、殿は丁重な招待状をお送りした。父の大臣も、
「なにゆえ辞退なさるのか。すねてでもいるように院の殿にとられかねない。たいした病気でもないのだからがまんして参りなさい」
 とすすめられるところに、重ねて招待がきたので衛門督は辛い辛いと思いつつ参上した。

 上達部たちもいまだ集まっていない時分。殿はいつも通り衛門督を側近く御簾の内に招きいれ、ご自身は母屋の御簾を下し、その中にいらっしゃる。
 衛門督を見ると、確かにひどくやつれ、青い顔である。常々弟の君たちとくらべても誇らしく派手な振る舞いは見られないのだが、今日はことさら行き届き物静かな様子が人とは違って見えた。皇女たちの婿君として側にならべても、まったく遜色のない有様ではあるが、ただ例の件では二人ともまるで無分別であったことは許し難い。と、じっと目を注ぐのだけれども、さりげなくやさしく、
「さしたる用事もなかったので、ずいぶんとお久しぶりのことです。この頃は病人たちの介抱のため、心の余裕もないところに、院の御賀のためこちらの女宮が法事をしようとしても何かとさしさわりが重なり、このように年も押し詰まってしまいました。なかなか充分とは申せませんが、形だけでも精進のお料理をさしあげようと思います。
 御賀といえば仰々しく聞こえましょうが、わが家の子供たちも増えてきたので、お目にかけようと舞など習わせはじめました。せめてその催しなりとも果たしたいもの、その拍子をどなたにお願いしたものか、と思い悩んだ末、ごぶさたの恨みも捨ててお呼びしたのですよ」
 と仰る気色は、なんのこだわりも感じられない。衛門督はいよいよ恐懼し、顔色が変わってしまうのでは、とにわかに返事もできなかった。

「この頃、こちらで心配なことが起こっているとお聞きし、案じておりましたが、私も春より持病の脚気がますますひどくなり、しっかり立って歩くこともかないません。日ごとに弱り、宮中へも参内せず、世間とも縁を切ったように引きこもるばかり。
 今年は院が五十になられる年。心を込めてお祝いしなければ、と致仕の大臣が思いついたのですが、
『もはや冠も挂け、車もきっぱりと捨ててしまった身。自ら進んでお仕えしたくとも、その場所はもうない。そなたは卑官の身ながら、お祝いする気持ちの深さは私と同じであろう。その志をご覧に入れよ』
 とせきたてられまして、重い病をおしてここに参りました。
 朱雀院はこの頃ますます静かな境地に精進され、仰々しい御賀など期待してはおられますまい。せめて儀式は簡略にすませ、ただご息女(女三の宮)とのご対面をかなえてさしあげるが何よりと存じております」

 と衛門督はいう。殿は、女二の宮主催の盛大な御賀をも夫である自分が仕切ったといわない、衛門督をなるほど行き届いたものだと思う。

「いやもう、この通りです。簡略なお祝いに世間は気持ちがこもっていない、と見るかもしれませんが、あなたはちゃんとわかってくださっている。さればこそ、と私も意を強くすることができました。夕霧は公務の方ではようやく一人前になりましたが、こうした風流の催しはそもそも気にかけないものか。
 朱雀院は、すべての方面にもれなく通じていらっしゃるお方。とりわけ音楽にはご熱心で、精通していらっしゃいます。出家しすべてを捨てられたとはいえ、静かな境地で鑑賞できる今こそ、私たちもいっそうの心遣いが必要なのでしょう。かの夕霧といっしょにしっかりと舞の童たちにたしなみや心構えを教えてあげてください。芸事の師匠は自分の芸はともかく、人に教えることにはまるで役に立たないものですから」

 などと親しげに頼まれるため、うれしさの反面、心苦しく気詰まりに思う衛門督。返す言葉もなく、一刻も早く御前を逃れたいばかりで、まともな会話もできず、ようやくのこと座をすべりでた。
 その後、衛門督は東の御殿に行き、夕霧が用意した楽人・舞人の装束に、さらに助言する。これらは考えうる限りの工夫・趣向を凝らしたもの。にもかかわらず、衛門督の手によりさらに精妙さを加え、完成されていく。なるほどこの道に深い造詣をもった人には違いない。

(中略)

 日も暮れていく。殿は御簾を上げさせて興にのられる。御孫の君たちのなんとも美しい姿、かたち。見たこともない舞の妙技を尽くして、師伝の奥儀をも越えさらに各々の才能を発揮して舞う姿は、みなみな限りなくいとおしく感じさせる。老いた上達部たちはみな涙なくしてこれを見ることができない。式部卿宮も孫の舞姿に鼻が赤くなるまで泣いていらっしゃるのである。

「寄る年波には勝てず、酔い泣きというものは止められないようですね。衛門督はこれを目ざとく見て笑っておられるが、なんともきまりの悪いこと。なに、それも今だけのことです。年月はさかさまには進まない。老いというものは誰しも逃れられないものですから」

 といって主の院は衛門督をじっと見据えた。誰よりも緊張の中で気が滅入り、実際気分もすぐれず楽しいはずの宴の様子も目に入らない人に、酔ったふりをして名指しでこのようなことをいうとは。戯れをよそおった言葉にひどく胸をえぐられ、回り来る盃にも頭痛を覚え、飲んだふりをする衛門督であった。殿はこれを見咎め、盃を取らせたびたび無理強いする。中途半端に盃をもてあましている衛門督は、宴席で一人だけ浮き上がってみえるのであった。

 心も乱れ、耐え難く、宴のさなかに中座する衛門督。自宅に戻るとひどく苦しくて、
「いつも通りの酒で深酔いしたわけでもないのに、どうしたというのだろう。やましさから血が頭にのぼったか。それほどの意気地なしとも思わなかったが、なんと不甲斐ないこと」
 と、われながら思い知らされるのであった。しかしこれは、一時の悪酔いなどではなかった。ほどなく衛門督は重い病の床に伏してしまうのである。

(『源氏物語』若菜 下 現代語 水野聡訳 2013年4月)


〔解説〕

文中の殿・主の院は光源氏、衛門督(えもんのかみ)は柏木です。
この物語中、各人物の年齢は、源氏44-5歳、女三宮18-9歳、柏木28-9歳と推定されます。
現代でいえば、源氏と女三宮は年の差婚です。四十五の中年男と娘盛りの新妻。この若妻がこともあろうに輿入れ直後、若い男と通じてしまうのです。

中年とはいえ「光る君」として宮中すべての女性の憧れの的であり、身分も知性も教養も並ぶもののない圧倒的な存在だったのです。
完全無欠、神にも等しい主人公が妻を盗んだ男に投げつける、ことばの剣。

「寄る年波には勝てず、酔い泣きというものは止められないようですね。衛門督はこれを目ざとく見て笑っておられるが、なんともきまりの悪いこと。なに、それも今だけのことです。年月はさかさまには進まない。老いというものは誰しも逃れられないものですから」

この刀は、罪の恐れにひどく弱り、今にも絶えなんとする柏木の心を過たず貫き通しました。
病をおして参内した柏木、これにはたまらず宴を中座。帰宅後ますます弱り、ついに他界してしまいます。
完全無欠の人格として描かれる光源氏の容赦ない仕打ち、報復は一体どのように受け取るべきでしょうか。
神ならぬ生身の人に忍び入った「老いの影」は、中国の偉大な聖帝、太宗晩年の事跡にもたどれます。無謀な高麗への度重なる征討と、皇太子選定の過ちがそれです。
聖賢凡愚に関わらず、老いは等しく人の目をおおい隠すものなのでしょうか。

後日女三宮は懐妊し、出産します。それは夫源氏ではなく、柏木の子。
毛ほども愛情を覚えぬ赤子を膝に乗せ、憮然たる源氏の胸中を去来したのは、因果応報の想いでした。
思えば若かった自分も、義母藤壺と密通した。父桐壺帝はこれを知りながらも生涯色に表すことをしなかったのではないか。その報いの罪が今、自分にあらためて下されたものか。

「さかさまに行かぬ年月」

時間は決して逆行することはないが、人は世代を越えて同じ行い、同じ過ちを繰り返し犯すものである。因果応報のわだちからはとうてい逃れられぬ、と源氏の心を凍りつかせるのです。

すなわち、「え逃れぬわざ」は、老いではなく因果の報いではなかったでしょうか。


実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
(ダンマパダ 第一章 ひと組みずつ)

◆ブッダの名言(能文社)
http://dp20101654.lolipop.jp/img/ブッダの名言(能文社).pdf


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