鳥鳴きて山更に幽なり。 ~王籍『入若耶渓』
茶席の禅語として古くから親しまれる漢詩の一文です。
この一句のみ書かれることが多いのですが、もとの形は、漢詩の中の次の対句。
(原文)
蝉噪林逾静
鳥鳴山更幽
(読み)
蝉噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに
鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり
作者は中国、梁の詩人、王籍。「若耶渓(じゃくやけい)」とは、浙江省にある風光明媚な渓流の名です。
初夏の一日。公務を離れ、一人渓流沿いの林道を歩く詩人の小さなシルエット。
人が近づくことで、騒がしく鳴いていた蝉の声が一斉に止み、林は静寂に包まれる。
深山へと深く分け入っていくと、一声鋭く野鳥がさえずる。その声が消えると、山は深く黒々とした沈黙に飲み込まれてしまうのです。
鳥の一声によって、あたかもこの世界に自分ただ一人が取り残されてしまったかのような、絶対的な山の静寂にはじめて気が付きます。
松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」や「古池や蛙とびこむ水の音」も、時空を超えた同じ禅境をあらわしているのかもしれません。
人は静かな場所に長くいると、その本当の静かさに気が付かくなくなってしまうもの。
鳥がそのしじまを破ることにより、静かさがいっそう深く感じられるのです。
仏修行者はこの意味を転じ、人には平穏で楽しい日常ばかりではなく、辛さや悲しみもまた必要である、と説きます。
人は辛いことに直面すると、こんなことは起こらなければよかったのに、と考えがちですが、まさにその一事により、自分にとってかけがえのないものに、はじめて気づかされるのだ、と。
― 鳥鳴きて山更に幽なり
今、コロナ禍によって、人と世界の仕組みが大きく変わろうとしています。
人類と地球にとって、いままで当たり前にあり、すでに忘れてしまったもの、しかし本当に大切なものは何だったのかを悟る時が到ったのかもしれません。
『入若耶渓』 王籍
艅艎何泛泛 艅艎(よこう) 何ぞ泛泛(はんはん)たる
空水共悠悠 空水 共に悠悠
陰霞生遠岫 陰霞(いんか)遠岫(えんしゅう)に生じ
陽景逐廻流 陽景(ようけい)廻流(かいりゅう)を逐(お)ふ
蝉噪林逾静 蝉(せみ)噪(さわ)ぎて林逾(いよいよ)静かに
鳥鳴山更幽 鳥鳴きて山更に幽(ゆう)なり
此地動歸念 此の地、歸念(きねん)を動かし
長年悲倦遊 長年 倦遊(けんゆう)を悲しむ
【解釈】
この舟はなんと軽やかに浮かび進んでいるのだろう。
天と川面は、はるか遠くへ広がっていく。
朝焼け夕焼けの霞が遠山の洞穴から湧き出て
日差しは渦巻く川の流れを追う。
蝉が騒々しく鳴けば林はいよいよ静まって
鳥が一声鳴けば山は一層深くほの暗い。
この地は帰郷の思いをつのらせるが
長年遠地での勤めに倦み、悲しむばかりである。