門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

『ものの見方が変わる。千利休の名言』本日発刊!

2011-07-15 10:24:33 | 茶道
【言の葉庵】初の書き下ろし作品、『ものの見方が変わる。千利休の名言』。7月15日、いよいよ全国発売開始となりました。【言の葉庵】ホームページ、茶の湯コンテンツの集大成となりました。インターネット環境のない方にも、書籍にて“利休の茶の湯の心”を身近にお伝えできれば、と思います。

『ものの見方が変わる。千利休の名言』水野聡 著
http://nobunsha.jp/book/post_116.html
形式:オンデマンド・ブック版
本体価格:2,200円(税込価格2,310円)
判型:A5版 全114ページ
発売日:2011年7月15日
出版社:能文社
ISBN978-4-9904058-4-7


「本著は、千利休の名言集に、「利休の目がみつめたもの」、「千利休由緒書 現代語訳」の二篇をあわせた、利休茶の美学入門書です。

 筆者は平成十七年より、日本文化の偉人の名言・名句を、【言の葉庵】ホームページ、メールマガジンにて世に発信を続けてきました。それらのコンテンツをもとに、このたび改めて全文書き下ろしにて、利休が現代日本に遺した美のメッセージをご紹介しようと思います。
 世にいう名言・金言とは、時代や世相の移り変わりに淘汰されず、永く人々に深い知恵と、生き抜く勇気を与え続けてくれるもの。千年後の人にも、「人とは何か」「生きることの意味」を鋭く問いかけてくる、かけがえのない言葉の遺産なのです。

 一介の町人にして、信長、秀吉等時代の英傑とともにしばしばその名が取り上げられる、千利休。茶の湯の祖、茶聖などという祭り上げられた肩書きよりも、今日の日本文化全体に根本的な価値の大転回をもたらした「美の改革者」という呼び名こそ、もっともふさわしいように思えてなりません。
 長谷川等伯が描く、利休壮年の画。そのまなざしは、剣のように鋭く容赦がない。この目が選んだ茶道具は、一代の名物としてとてつもない価値を与えられました。時には一城にも匹敵する価をもって、諸大名・分限者が争って入手しようとしたと伝えます。そして、「選ぶ」という行為の裏には、その何百倍、何千倍もの「捨てる」がある。利休の「選ぶ」「捨てる」の美の基準は、どこから生まれてきたものでしょうか」
(本作品 まえがきより)


・購入ご希望の方は、最寄り書店にてご注文ください。または、【言の葉庵】ホームページでも直接ご注文いただけます。
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『千利休由緒書』 第二回

2011-07-01 21:28:41 | 茶道
今回は「由緒書」から、利休の祖父、田中千阿弥と師、武野紹鴎に関するくだりをご紹介しましょう。

 利休の祖先は代々足利将軍家に同朋衆として仕えたという。祖先は姓を「田中氏」と名乗り、利休の祖父は田中千阿弥(せんあみ)と名乗った(初めは専阿弥と号していた)。東山公方慈照院(じしょういん)義政公の同朋衆である。

 応仁元年五月、山名持豊入道宗全と細川右京大夫勝元が反目しあい、それがもとで天下の大乱を招いてしまった。この時、公方の御所内に山名方と内通し、将軍へ謀反を企てる近習十二名がいると、細川勝元が言上。これにより、同年八月二十三日、その近習どもは御所を立ち退くこととなった。一行は、一色式部少輔、佐々木右京太夫、上野刑部宮下野守、結城下野守、伊勢備中守、荒尾、三上、斎藤等十二名で、利休の祖父田中千阿弥の名もその中に含まれたという。

 千阿弥は堺へ立ち退き、名字を変えて潜伏した。文明五年、山名宗全、細川勝元がともに病没。その年、東山公方義政公は隠居し、その子義尚公が将軍家の家督を継ぐ。この方が常徳院殿である。田中千阿弥は帰洛を果たし、義尚公に仕えることとなった。
 長享元年、公方常徳院義尚公が近江の陣中にて亡くなられる。田中千阿弥は出家し、泉州堺へ隠居。千阿弥の子、与兵衛は田中姓を改め、父の千を姓として千与兵衛と名乗ることとなる。そして堺今市町で商家を営んだ。その子、与四郎も今市町で父の商売を継いだが、茶道を好むようになり、後には武野紹鴎に弟子入りし、剃髪して千宗易と名乗った。

(質問)
宗易の師、紹鴎とは何者か。

 宗左の返答は以下であった。紹鴎の祖父は、元若狭の国の国主、武田大膳大夫元信。その二男伊豆守仲清は応仁の乱にて討ち死にした。その子、五郎信久は幼少にて牢人となり、泉州へ落ち延びたという。信久の子、武田因幡守仲村が紹鴎である。
 永正八年、船岡山合戦の際、細川右馬頭政賢に従い戦功をあげるが、政賢が討ち死にを遂げ落人となってしまう。再び堺へ戻り、武田姓を「武野」と改め、南ノ端に住居する。茶の湯は珠光・宗珠に習った。後、京へ上り四条夷堂の隣に居を構える。「大黒庵紹鴎一閑と号して茶道一流を開いた。当時堺の津では、北向道陳がまた茶道一流の大祖であったが、紹鴎と友であったという。紹鴎は、弘治元年十一月、京都にて病没した。


「千利休由緒書」全文現代語訳は、『ものの見方が変わる。千利休の名言』能文社 2011年7月に所収
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