神と宗教を生み出したのは「無」であり、「無」をゼロと置き換えることで科学は産声を上げたのです。
美術評論家 沢山遼氏のコラム「モダンアートの無十選」が、本年ゴールデンウィーク期間中に日本経済新聞で連載されました。
代表的な現代美術作品から「無」を読み取っていく意欲的な文化コラムです。連休をはさんだ断続的な掲載であったため、興味はあったものの見逃した方もいらっしゃるのではないでしょうか。
言の葉庵では、4月29日の第一回より、5月19日の第十回まで、全十回のコラム要約を以下にご紹介してみます。
画像を参照できるURLをリンクしましたので、該当作品はそちらでご確認ください。
◇モダンアートの無十選/沢山遼
(日本経済新聞朝刊 2016/4/29~5/19掲載)
「一般的に芸術作品をつくることは、形あるものを造形することだと考えられている。しかし、モダンアートの歴史には、実体のない「無」がつくられるという奇妙で矛盾した事態がそこかしこに見られる。その実例を、10の作品から振り返ってみよう」
(同コラム 2016/4/29より)
●第一回 マルセル・デュシャン「パリの空気50cc」(4/29掲載)
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-76.html
デュシャンがパリ土産として、アメリカの友人に送ったガラスの瓶です。薬局でアンプル(薬瓶)を購入し、蓋を一度あけて再び閉じ、「パリの空気」をとじこめたという。見ることも触れることもできない空気、すなわち「無」を作品とすることで、モノと金の権化となった芸術を痛烈に否定したものでしょうか。(1919 フィラデルフィア美術館蔵)
●第二回 アンディ・ウォーホル「赤の惨事」(5/2掲載)
https://jp.pinterest.com/pin/79235274673358280/
絵の右半分には、12個の電気椅子が並ぶ。左半分はただ赤く塗りつぶされた何もない空間が広がります。これは処刑用の電気椅子と隣り合う死を暗示したもので、究極の「無」が描き出されたものです。(1963・1985 ボストン美術館蔵)
●第三回 ポール・セザンヌ「麦藁帽子をかぶった子供」(5/3掲載)
https://jp.pinterest.com/explore/ポール・セザンヌ-919898039381/
人物の背景に何も描かれていない余白があり、作家は晩年多くの作品に余白を残したことで知られています。風景画の余白についてセザンヌは、「自然の背景に何があるのか、何もないかもしれないし、すべてがあるのかもしれない」という。この余白は「無」であり、そこにはすべてがあるのです。(1896-1902頃 メナード美術館蔵)
●第四回 アルベルト・ジャコメッティ「見えないオブジェ」(5/5掲載)
http://blogs.yahoo.co.jp/art_nippon/22347104.html
本作は「空虚を抱く手」の別タイトルでも知られています。細長い人物が、胸の前で何かを包み込むように出した手には、見えないオブジェが抱えられているのでしょうか。形のあるものが、形のないものを創りだす。「無」を彫刻した作品。(1934 ニューヨーク近代美術館蔵)
●第五回 バーネット・ニューマン「十字架の道行き:第1留」(5/9掲載)
http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/43091/
14の連作の内、最初の作品。画面右、黒い絵の具で縁取られた垂直線が白く発光します。これはカンバスの地色ですが、縁取りによるコントラストの強調のせいで、他よりも強く光って見えるのです。何も描かれていない「無」から光があふれだした作品です。(1958 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
●第六回 香月泰男「ホロンバイル」(5/10掲載)
http://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/b86e2428e9a8671b953491ccdb85ae01
自らのシベリヤ抑留体験をもとに描いた「シベリヤシリーズ」の一作。この作品は土の中に埋まった動物とも人体ともつかない骨を描いたものです。何もない場所、無そのものであるシベリヤの大地で、死と隣り合わせた作家の凄惨な過去を伝えています。(1960 山口県立美術館蔵)
●第七回 ジャクソン・ポロック「カット・アウト」(5/13掲載)
http://musey.net/1146
画面全体を絵具で覆った、完全に抽象化されたポロックの作品。
本作に人型をイメージできる部分がありますが、これは描かれたものではなく、切り取られたもの。削除された無=ネガこそが、イメージを表出します。また本作は、作家が事故死したため、妻が当人の別の作品を裏張りすることで完成したものです。(1948-1958 大原美術館蔵)
●第八回 イサム・ノグチ「エナジーヴォイド」(5/16掲載)
http://www.geocities.jp/amiko2jp/isamunoguti.htm
円環の構造を持つ当作は、虚空(ヴォイド)を内包します。またその造形は複雑な曲線をもち、左右に視点を移すと、三角形から長方形へと形を変えるのです。視点により勢力(エナジー)を得たかのように、生き生きと動き始める彫刻作品。(1972 イサム・ノグチ庭園美術館蔵)
●第九回 イヴ・クライン「人体測定ANT66」(5/17掲載)
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-121.html
カンバスにいくつもの女性の影が浮かんでいます。「無」に取りつかれたクラインは、裸の女性をカンバスに押し付け、その周囲に青い塗料を吹きかけ、人体のネガ=無を白く型抜きしたのです。彼は何も展示しない前代未聞の「空虚展」を1958年に開催。広場に「空気の建築」をつくるという計画も構想したと伝えます。
(1960 いわき市美術館蔵)
●第十回 高松次郎「アイデンティフィケーション」(5/19掲載)
https://www.pinterest.com/pin/79235274673474625/
人物や物の影をシリーズで描いた作家。本作は、人の形をカンバスではなく、画廊の壁と床一面に描いたものです。影のモデルは、岡本太郎など実在する美術関係者。会場には、だれもいないのに影だけがある。不在=無がその展示の本体ともいえましょう。(1966 東京画廊展示風景)
美術評論家 沢山遼氏のコラム「モダンアートの無十選」が、本年ゴールデンウィーク期間中に日本経済新聞で連載されました。
代表的な現代美術作品から「無」を読み取っていく意欲的な文化コラムです。連休をはさんだ断続的な掲載であったため、興味はあったものの見逃した方もいらっしゃるのではないでしょうか。
言の葉庵では、4月29日の第一回より、5月19日の第十回まで、全十回のコラム要約を以下にご紹介してみます。
画像を参照できるURLをリンクしましたので、該当作品はそちらでご確認ください。
◇モダンアートの無十選/沢山遼
(日本経済新聞朝刊 2016/4/29~5/19掲載)
「一般的に芸術作品をつくることは、形あるものを造形することだと考えられている。しかし、モダンアートの歴史には、実体のない「無」がつくられるという奇妙で矛盾した事態がそこかしこに見られる。その実例を、10の作品から振り返ってみよう」
(同コラム 2016/4/29より)
●第一回 マルセル・デュシャン「パリの空気50cc」(4/29掲載)
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-76.html
デュシャンがパリ土産として、アメリカの友人に送ったガラスの瓶です。薬局でアンプル(薬瓶)を購入し、蓋を一度あけて再び閉じ、「パリの空気」をとじこめたという。見ることも触れることもできない空気、すなわち「無」を作品とすることで、モノと金の権化となった芸術を痛烈に否定したものでしょうか。(1919 フィラデルフィア美術館蔵)
●第二回 アンディ・ウォーホル「赤の惨事」(5/2掲載)
https://jp.pinterest.com/pin/79235274673358280/
絵の右半分には、12個の電気椅子が並ぶ。左半分はただ赤く塗りつぶされた何もない空間が広がります。これは処刑用の電気椅子と隣り合う死を暗示したもので、究極の「無」が描き出されたものです。(1963・1985 ボストン美術館蔵)
●第三回 ポール・セザンヌ「麦藁帽子をかぶった子供」(5/3掲載)
https://jp.pinterest.com/explore/ポール・セザンヌ-919898039381/
人物の背景に何も描かれていない余白があり、作家は晩年多くの作品に余白を残したことで知られています。風景画の余白についてセザンヌは、「自然の背景に何があるのか、何もないかもしれないし、すべてがあるのかもしれない」という。この余白は「無」であり、そこにはすべてがあるのです。(1896-1902頃 メナード美術館蔵)
●第四回 アルベルト・ジャコメッティ「見えないオブジェ」(5/5掲載)
http://blogs.yahoo.co.jp/art_nippon/22347104.html
本作は「空虚を抱く手」の別タイトルでも知られています。細長い人物が、胸の前で何かを包み込むように出した手には、見えないオブジェが抱えられているのでしょうか。形のあるものが、形のないものを創りだす。「無」を彫刻した作品。(1934 ニューヨーク近代美術館蔵)
●第五回 バーネット・ニューマン「十字架の道行き:第1留」(5/9掲載)
http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/43091/
14の連作の内、最初の作品。画面右、黒い絵の具で縁取られた垂直線が白く発光します。これはカンバスの地色ですが、縁取りによるコントラストの強調のせいで、他よりも強く光って見えるのです。何も描かれていない「無」から光があふれだした作品です。(1958 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
●第六回 香月泰男「ホロンバイル」(5/10掲載)
http://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/b86e2428e9a8671b953491ccdb85ae01
自らのシベリヤ抑留体験をもとに描いた「シベリヤシリーズ」の一作。この作品は土の中に埋まった動物とも人体ともつかない骨を描いたものです。何もない場所、無そのものであるシベリヤの大地で、死と隣り合わせた作家の凄惨な過去を伝えています。(1960 山口県立美術館蔵)
●第七回 ジャクソン・ポロック「カット・アウト」(5/13掲載)
http://musey.net/1146
画面全体を絵具で覆った、完全に抽象化されたポロックの作品。
本作に人型をイメージできる部分がありますが、これは描かれたものではなく、切り取られたもの。削除された無=ネガこそが、イメージを表出します。また本作は、作家が事故死したため、妻が当人の別の作品を裏張りすることで完成したものです。(1948-1958 大原美術館蔵)
●第八回 イサム・ノグチ「エナジーヴォイド」(5/16掲載)
http://www.geocities.jp/amiko2jp/isamunoguti.htm
円環の構造を持つ当作は、虚空(ヴォイド)を内包します。またその造形は複雑な曲線をもち、左右に視点を移すと、三角形から長方形へと形を変えるのです。視点により勢力(エナジー)を得たかのように、生き生きと動き始める彫刻作品。(1972 イサム・ノグチ庭園美術館蔵)
●第九回 イヴ・クライン「人体測定ANT66」(5/17掲載)
http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-121.html
カンバスにいくつもの女性の影が浮かんでいます。「無」に取りつかれたクラインは、裸の女性をカンバスに押し付け、その周囲に青い塗料を吹きかけ、人体のネガ=無を白く型抜きしたのです。彼は何も展示しない前代未聞の「空虚展」を1958年に開催。広場に「空気の建築」をつくるという計画も構想したと伝えます。
(1960 いわき市美術館蔵)
●第十回 高松次郎「アイデンティフィケーション」(5/19掲載)
https://www.pinterest.com/pin/79235274673474625/
人物や物の影をシリーズで描いた作家。本作は、人の形をカンバスではなく、画廊の壁と床一面に描いたものです。影のモデルは、岡本太郎など実在する美術関係者。会場には、だれもいないのに影だけがある。不在=無がその展示の本体ともいえましょう。(1966 東京画廊展示風景)