2012年10/2(火) より、東京二子玉川〔東急セミナーBE〕にて白洲正子と能の美を探求する新講座がはじまります。
◆講座名:白洲正子が愛した能。
~能の目利きに学ぶ、永遠の古典の美~
http://www.tokyu-be.jp/seminar/2012100005AH66601.html
曜日・時間第1火曜日13:00~14:30
回数: 全6回
受講料: 16,800円(会員) 途中受講可
お問い合せ・お申し込み
【東急セミナーBE】TEL:03-5797-5053(二子玉川校)
日本文化の“語り部”として、今なお多くの文化人・芸術家に影響を与え続ける、白洲正子。先入観にとらわれない独自のみずみずしい感性により、能・骨董・古美術・着物・仏像・古典など、日本美を名文により紹介し続けました。これらの分野の中で生涯を通じ、もっとも愛したのが能。6歳で能の稽古をはじめ、50歳で免許皆伝。能の史上はじめて女性として舞台で能を舞いました。処女出版『お能』をはじめ、能面・世阿弥・梅若実など、能関連の
著作は質量ともに正子の作品の中心をなすもの。当講座では、正子の代表作をたどりつつ、能の名曲・名人のビデオもあわせて鑑賞し日本美を再発見したいと思います。
・白洲正子と能
白洲正子と能の出会いは4歳の時の靖国神社であったと伝えています。観能中、偶然事故で明かりが消え、その後灯された松明に浮かび上がった『猩々』。正子はこの世のものならぬ美しさ、不思議さに強い衝撃をうけたと「正子自伝」で回想しています。
この頃より両親にならい、梅若で能の稽古をはじめました。梅若実(二世)を師として稽古に励み、14歳で女性として初めて能舞台に上がります。『土蜘蛛』の袴能であったらしい。(第三回「正子と能土蜘蛛」で詳細)
今でこそ女性能楽師もいるが、当時、女性が能舞台に立つことは異例で、周囲より奇異な目で見られたとも。そのことを正子は後日、「為すまじきを為すは難きと知りながら 女の身にて能を舞ふなり」と詠んでいるのです。
正子はとりわけ勇ましい男の舞を得意としたといいます。当時を知る梅若玄祥師(二世実の孫)は「外側をきちっと学ばれ、内を充実させていた」と振り返る。正子の舞台写真を見ても隙のない姿がこの言葉を裏付けているのです。
こうして能にのめりこみ、生涯百番もの能を舞いました。五十代なかばで梅若家より免許皆伝を受けるまでになりますが、その直後になぜか能をやめてしまいます。「女性には能は表現できない」からと。
後日、正子は自著の中で、
「女にお能が舞えないということが、私、五十年やってよくわかりました。あれは男色のもので、男が女にならなくっちゃだめだ」
と振り返っています。
能を捨てた正子はこの後本格的に文筆活動を開始。エッセイストとしての「白洲正子」へと繋がっていくことのきっかけとなりました。しかしその著作の背景となる日本文化・古典文学などへの姿勢には、間違いなく能への深い理解が下敷きとなっているのです。
晩年正子は友枝喜久夫師(人間国宝友枝昭世の父)の能に触れ、再び能を見るようになります。友枝師は当時、白内障を患いほとんど失明状態に。視力を失いながらも、魂で舞う至芸に心を奪われ、友枝師の演能だけは欠かさず見に通ったと伝えています。
(第二回「正子と名人友枝喜久夫」に詳細)
◆講座名:白洲正子が愛した能。
~能の目利きに学ぶ、永遠の古典の美~
http://www.tokyu-be.jp/seminar/2012100005AH66601.html
曜日・時間第1火曜日13:00~14:30
回数: 全6回
受講料: 16,800円(会員) 途中受講可
お問い合せ・お申し込み
【東急セミナーBE】TEL:03-5797-5053(二子玉川校)
日本文化の“語り部”として、今なお多くの文化人・芸術家に影響を与え続ける、白洲正子。先入観にとらわれない独自のみずみずしい感性により、能・骨董・古美術・着物・仏像・古典など、日本美を名文により紹介し続けました。これらの分野の中で生涯を通じ、もっとも愛したのが能。6歳で能の稽古をはじめ、50歳で免許皆伝。能の史上はじめて女性として舞台で能を舞いました。処女出版『お能』をはじめ、能面・世阿弥・梅若実など、能関連の
著作は質量ともに正子の作品の中心をなすもの。当講座では、正子の代表作をたどりつつ、能の名曲・名人のビデオもあわせて鑑賞し日本美を再発見したいと思います。
・白洲正子と能
白洲正子と能の出会いは4歳の時の靖国神社であったと伝えています。観能中、偶然事故で明かりが消え、その後灯された松明に浮かび上がった『猩々』。正子はこの世のものならぬ美しさ、不思議さに強い衝撃をうけたと「正子自伝」で回想しています。
この頃より両親にならい、梅若で能の稽古をはじめました。梅若実(二世)を師として稽古に励み、14歳で女性として初めて能舞台に上がります。『土蜘蛛』の袴能であったらしい。(第三回「正子と能土蜘蛛」で詳細)
今でこそ女性能楽師もいるが、当時、女性が能舞台に立つことは異例で、周囲より奇異な目で見られたとも。そのことを正子は後日、「為すまじきを為すは難きと知りながら 女の身にて能を舞ふなり」と詠んでいるのです。
正子はとりわけ勇ましい男の舞を得意としたといいます。当時を知る梅若玄祥師(二世実の孫)は「外側をきちっと学ばれ、内を充実させていた」と振り返る。正子の舞台写真を見ても隙のない姿がこの言葉を裏付けているのです。
こうして能にのめりこみ、生涯百番もの能を舞いました。五十代なかばで梅若家より免許皆伝を受けるまでになりますが、その直後になぜか能をやめてしまいます。「女性には能は表現できない」からと。
後日、正子は自著の中で、
「女にお能が舞えないということが、私、五十年やってよくわかりました。あれは男色のもので、男が女にならなくっちゃだめだ」
と振り返っています。
能を捨てた正子はこの後本格的に文筆活動を開始。エッセイストとしての「白洲正子」へと繋がっていくことのきっかけとなりました。しかしその著作の背景となる日本文化・古典文学などへの姿勢には、間違いなく能への深い理解が下敷きとなっているのです。
晩年正子は友枝喜久夫師(人間国宝友枝昭世の父)の能に触れ、再び能を見るようになります。友枝師は当時、白内障を患いほとんど失明状態に。視力を失いながらも、魂で舞う至芸に心を奪われ、友枝師の演能だけは欠かさず見に通ったと伝えています。
(第二回「正子と名人友枝喜久夫」に詳細)