門前の小僧

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能面・能装束入門 第一回

2010-10-29 20:30:32 | 能狂言
今回より、「能面・能装束」についての基礎知識を学んでいきたいと思います。
画像は、能の女面の最高傑作とされる、金剛流孫次郎作の重要文化財能面「孫次郎」。
初回は能面の定義と歴史についてざっと見ていきましょう。


・能面とは

能面は能において、主人公であるシテや助演者であるツレが使用する仮面である。面と書き、(おもて)と発音する。古くは神や鬼神・怨霊など、霊的な存在を表現するために使用されていた。のちに、演劇の素材として実在する人間や歴史的な人物をかたどった面も作成されるようになる。
能面は大別すると、翁・老人系・鬼神系・女面系・男面系・怨霊系に分類できる。小面(こおもて)や般若(はんにゃ)と言うように名称で分類すると、基本形は70種類程度。さらに白般若や赤般若・黒般若等、同一種を細分化すると、200種類以上あるといわれている。

・能面の歴史

能面は能と同様、室町時代に今日の形に発展・大成された。能面の起源とされる鬼神面が発生した鎌倉時代、猿楽(能)の劇内容もさほど複雑ではなかったため、面の種類も多くはなかった。鎌倉・南北朝時代の初期能面は、鬼神面・老人の面・男面・女面程度のシンプルな分類であったとされる。この時代の能面と能面作者について、世阿弥の『申楽談義』に以下のような記述がある。

「面の事。翁は日光打。弥勒、打手也。この座の翁は弥勒打也。(中略)近江には赤鶴(サルガク也)、鬼の面の上手也。近比、愛智(えち)打とて(中略)女の面上手也。越前には石王兵衛、其後竜右衛門、其後夜叉、其後文蔵、其後小牛、其後徳若也文蔵打の本打也。この座に年寄りたる尉、竜右衛門。恋の重荷の面とて名誉せし笑尉は、夜叉が作也。老松の後などに着るは、小牛也。男面、近比よき面と沙汰有し、千種打也。若き男面は竜右衛門也。出会いの飛出、この座の天神の面、大べし見、小べし見、皆赤鶴也」

時代的にいえば、これらの面打師は南北朝時代から室町時代の初期に活躍したと考えられる。能面の面打には、古く聖徳太子・弘法大師・春日など極めて実在性の薄い、神聖化された説話的な名も挙げられるが弘安年間(1278~1289)活躍した赤鶴がその最初とされている。面打師についての記録はこれ以降、室町時代をつうじてほとんどない。が、ようやく室町末期から桃山時代にかけて世襲面打家が輩出してくる。それをまとめて編纂されたのが、寛政七年(1795)喜多古能によっての「仮面譜」である。古能は面打師を次のように分類している。

一.神作 聖徳太子・淡海公・弘法
大師・春日
二. 十作 日光・弥勒・夜叉・文蔵・
龍右衛門・赤鶴・永見(氷見)・越智・
小牛・徳若 
三. 六作 増阿弥・福来・春若・宝来・
千種・三光坊
四. 古作 般若坊・真角・東江・千代
若・ヒコイシ・虎明・等月
五. 中作 愛若・慈雲院・宮野・財蓮・
吉常院・智恩坊・大光坊
六. 中作以後 角ノ坊・ダンマツマ・
山田嘉右衛門・野田新助・棒屋孫十郎
七. 世襲面打家 井関家・大野出目家・
越前出目家・児玉家・弟子出目家

なお現在では、作者の年代別に、第一
期(飛鳥~奈良時代)、第二期(鎌倉~室
町時代)、第三期(戦国時代)、第四期
(安土桃山~江戸時代)の四つに区分され
ている。

能面作者一覧表↓
http://bit.ly/9ETI93

名言名句 第三十回 葬は蔵なり。『旧唐書』長孫皇后

2010-10-24 21:08:21 | 名言名句
長孫皇后は、中国唐二代皇帝太宗の皇后です。太宗の偉大な治世「貞観の治」を内助の功により支えた、中国史上もっともすぐれた皇后と目されています。
 隋大乱後の困難な皇業を内から支え続けた人生。貞観八年、三十四歳にて病を得、二年後三十六歳で亡くなりました。「葬は蔵(かくす)なり」は、臨終の床にあって、皇帝太宗に託した遺言の中のことば。『礼記』壇弓上篇からの引用です。「くれぐれも私の葬式は質素に」、これが長孫皇后人生最後の願いでした。またこの時、唐建国の功臣、房玄齢が太宗の怒りに触れ、自宅に謹慎していました。皇后はまずこのことから、太宗に後事を託そう、と次第に細くなる息で語り始めました。

「玄齢は、陛下にもっとも古くから仕え、細心で慎み深く、国家の秘策は一言も漏らしたことがありません。国に災いをもたらすということがなければ、玄齢を見捨ててはなりません。
また私の一族は幸いにも陛下の姻戚となりました。この関係は、よほど徳を積まねば危機を避けることがかなわないもの。姻戚として永く関係を保つには権勢の地位につけず、ただ外戚として儀式に参列するだけにしていただけましたらさいわいです。
私はもう生きてお役に立つことができません。しかし死んでも手厚い弔いはどうかご無用に。葬とは隠すこと(葬は蔵なり)。人に屍を見られなければ、それで良いのです。いにしえより聖人賢人はみな葬儀を簡略にしていますね。ただ道のない世でのみ、大きな山陵を作り、無駄な労力と費用を尽くして、世間の物笑いとなっているのです。私をただ、山に葬ってください。土盛りした墳など必要ありません。何重ものお棺もいりません。葬具はみな、白木と素焼にしてください。質素なお葬式、これが私の思い出となりましょう」
(『旧唐書』長孫皇后伝 長孫皇后)

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http://bit.ly/9iyb90

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第六回

2010-10-21 17:09:39 | ばさら
佐々木道誉篇、今回最終回です。


■道誉逸話3「道誉都落ち楠正儀への馳走」
「太平記」巻第三十七

康安元年十二月、南朝方と連合した細川清氏は幕府軍を破り入京。将軍義詮は後光厳天皇を擁しつつ近江へ逃れた。導誉はこの時、自邸を敵方の大将が占領するであろうと考えたが、邸宅を焼き払うことなく、逆に飾り立てたのである。まず美しく清掃した上で、六間の客殿に紋付の大畳を並べ、中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆に至るまで整えた。

ここに佐渡判官入道々誉都を落ちける時、
「我宿所へは定めてさもとある大将を入れ替んずらん」
とて、尋常に取りしたゝめて、六間の会所には大文の畳を敷きならべ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで、一様に皆置き調へて、書院には義之(ぎし・王羲之は書道史上最も優れた書家で書聖)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ・文学者。唐宋八大家の一人)が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取り副へて置く。
十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸けならべ、三石入りばかりなる大筒に酒を湛たへ、遁世者二人留め置きて、
「誰にても此宿所へ来たらん人に一献を進めよ」
と、巨細(こさい)を申し置きにけり。
楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向きて、
「定めてこの弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申し置かれて候」
と、色代してぞ出で迎へける。道誉は相摸守の当敵なれば、この宿所をば定めて毀ち焼くべしと憤られけれども、楠この情を感じて、その儀を止めしかば、泉水の木一本をも損はず、客殿の畳の一帖をも失はず。あまつさへ遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置きて、郎等二人止め置きて、道誉に交替して、又都をぞ落たりける。

道誉が今度の振舞ひ、なさけ深く風情有りと、感ぜぬ人も無かりけり。例の古博奕(古だぬき)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。


導誉の当意即妙で粋な計らいが彼の屋敷を結果として守ったと言える。一方で「太平記」は正儀が古狸に図られて鎧と太刀を取られたと笑いものにしているが、こちらも粋に対して粋で返した見事な振る舞いというべきであろう。そもそも導誉と正儀はそれぞれの陣営において南北和平派の重鎮であり、敵味方を越えた交流があったとしても不思議ではない。導誉の振る舞いも相手を謀るというより、撤退においてもあさましい姿は見せまいというバサラの心意気によるものであったろう。
 京攻撃失敗後、清氏は四国に逃れ、従兄弟・頼之と戦い討ち死に。一時は天下に権勢を誇った男のあっけない最後であった。

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第五回

2010-10-19 20:11:50 | 茶道
■道誉逸話2「大原野花見の宴」
「太平記」巻第三十九

バサラ大名佐々木道誉が、晩年に催した芸能尽くしの一節を太平記が伝えている。今をときめく管領斯波高経が大宴会を御所にて計画したのに対抗して、高経の日頃の専横に泡を吹かせてやろうと、その向うを張って同日に大宴会を催すくだりである。

道誉かねては参るべき由領状したりけるが、わざと引き違へて、京中の道々の物の上手ども、ひとりも残らず皆引き具して、大原野の花の本に宴を設け席を敷きて、世に無類遊をぞしたりける。

すでにその日に成りしかば、輕裘・肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山へぞ趣きける。麓に車を駐め、手をとつて碧蘿を攀づれば、曲径幽処に通じ、禅房に花木滋し。寺門に当つて湾溪の水を渉れば、路羊腸をめぐりて、橋雁歯(がんし・橋のきざはし)の危ふきをなせり。高欄をば金襴を以てつつみ、ぎぼうしには銀薄を押し、橋板には大唐の氈、蜀都の錦、色々に敷きのべたれば、落花上に積つて朝陽の溪陰に到らざる処、横橋一枝の雪を留め得るに相似たり。踏むに足冷じく、歩むに沓かんばしくして、遙かに風磴(ふうとう)を登れば、竹筧(ちくひ)泉を分けて、石鼎(せきてい)に茶の湯をぞ立てたりける。松籟(しょうらい)声を散じて芳甘春濃やかなれば、一碗の中にたちまちに天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝ごとに、平江帯を以て青磁の香炉を釣り、金糸の卓を立て鷄舌の沈水(けいぜつのじんすい・丁字の香料)を焼き上げたれば、春風匂ひ暖かにして、覚えず栴檀(せんだん・白檀)の林に入るかとぞ覚えたる。瞳を千里に供じ首を四山に回らすに、烟霞重疊として山川まじはり、そばだちたれば、筆を丹青に仮らずして、十日一水の精神を云にあつめ、足寸歩を移さずして、四海五湖の風景を立ちどころにぞ得たりける。

一歩三嘆して遙かにのぼれば、本堂の大庭に十囲の花木四本あり。その本に各一丈余の鍮石(ちゅうせき・真鍮)の花瓶を鋳懸けて、一双の立花に作り成し、その際に両囲の香炉を両机に置きて、名香一斤を一度に焼きたれば、香風四方に散つて、皆人の浮香世界の中に在るが如し。その陰に幔幕を引き、曲彔(きょくろく・椅子)を立て並べ、百味の珍膳を調え、百服の本非を呑みて、懸物山の如くに積み上げたり。

舞工(ぶこう・猿楽師)一度回鸞の翅を翻し、楽家濃やかに春鴬の舌を暢ぶれば、座中の人々色々様々に、小袖・直垂・大口を解いて投げ与ふ。興闌け酔ひに和して、帰路に月無ければ、松明天に耀き、鈿車軸轟き、細馬轡を鳴らして馳せ散り、叫喚たる有様は、ただ能く三巳・百鬼の夜深けて巷を過ぐるに異ならず。花開き花落つる二十日、一城に人皆狂せるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、誠にかくこそありつらめと思ひ知らるるばかりにて、見聞の諸人皆耳目をぞ驚かしける。


道誉の反骨躍如もさることながら、花木の周りを真鍮の花瓶で囲んで、生きた桜の木をさながら立花のように演出したり、その間に巨大な香炉を並べて香りを楽しむところ、また猿楽師や白拍子に芸能三昧を尽くさせるところなどは、まさにバサラの美学がたどりついた幽玄の境地というべきだろうか。