門前の小僧

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奥の細道行脚。第十七回「敦賀」

2010-07-27 09:36:18 | 日記
【おくのほそ道】

 ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
 その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
 というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
 と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
 と亭主が語った。


 月清し遊行のもてる砂の上


鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)


 十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。

 名月や北国日和定めなき


鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)

【曾良旅日記】

一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。

【奥細道菅菰抄】

ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き

白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。

玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。

鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。

 燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。

明くる夜の陰晴測りがたし

孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。

気比の明神へ夜参する

 気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。

社殿は神寂びて

寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。

遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します

遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。

遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。

奥の細道行脚。第十六回「等栽」

2010-07-23 08:19:33 | 日記
【おくのほそ道】

等栽(とうさい)

 福井 まで三里ほどというので、夕飯をしたためて宿を出たものの黄昏の路
に足元はおぼつかぬ。ここに等栽 という古なじみの隠士がいる。いつの年で
あったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。かれこれ十年以上も前のこと。い
かに老いさらばえて しまったものか、はたまた亡くなってしまったのでは、
と人に尋ねれば、まだ生きており、どこそこにいると教える。市中ひそかに
引き込んで、みすぼらしい小家に、夕顔、へちまが茂ってかかり、鶏頭、箒
木が戸口を覆い隠す。さてはこの家にこそと門を叩くと、わびしげな女が出
てきて、
「どちらからいらっしゃった道心のお坊さんでしょうか 。あるじは近所のな
にがしというもののところに出かけています。ご用がございましたら直接お訪
ねになってください」
 という。等栽の妻とわかる。まるでいにしえの物語のような風情かな、とす
ぐに訪ねあてる。その家に二晩泊まって、名月 は敦賀の湊に、と旅立った。
等栽、ごいっしょにお送りしましょう、と着物の裾奇妙にからげ、これぞ旅路
の枝折とうかれ立つ。


【奥細道菅菰抄】

福井まで三里ほどというので(中略)黄昏の路に足元はおぼつかぬ

福井は、越前の城下で都会の地である。
黄昏は日の暮れかかる時をいう。和訓の意味は、日の暮れかかる時、物の影確
かに見えず、人を見ても「たれか」、「かれか」、とわからぬおぼろげなさま
をいう。

ここに等栽という古なじみの隠士がいる(中略)いかに老いさらばえてしまった
ものか

 等栽は、もと連歌師。福井の桜井元輔という者の弟子で、等栽は連歌名であ
る。俳名は、茄景というとか。元輔は宗祇の門人で、「さてはあの月が啼たか
ほととぎす」という句を詠んだ者と言い伝える。
隠士は隠者というのと同じ。士は『玉篇』に、「古今に通じ、然らざるを弁ず
る。これを士という。数は一に始まり、十に終わる。孔子のいわく。一を推し
て十に合わするを士という」とある。つまり、才芸などのある者を、あまねく
士といったものと思う。(日本で俗に、士の字をさぶらひと訓じて、武士に限る
ように見なすのは、和訓の偏った読み方による誤りである)

老いさらばえては、『徒然草』に、「むく犬の老さらぼひて」とある。註に荘
子を引用し、髐の字を「さらぼひ」と読ませている。痩せて縮んだ様子である、
という。俊成の歌に、「山陰に老さらぼえる犬ざくら追はなたれてとふ人もな
し」と詠む。

道心のお坊さんでしょうか

道心は、元は心に道徳のあることをいった。出家には限らぬ。後世には、ただ
賤しい僧をさす名のみとされた。むろん、これも仏道執心の意味では、根拠の
ない話ではない。

坊は、防と同じ。つつみ、と訓ず。(土手のこと)ゆえに、これを借りて、長く
続いた家居の名とする。(長屋などの類)僧の坊号は、衆寮より来ている。(こ
れもまた、長く建ち並んだ家のことで、一の坊二の坊などという)中国で市井
を坊と呼ぶのも、また店が長く建て続いているためである。○現在、隠者など
の別号に、坊の字を用いるのは、ひどい誤りである。せめて房の字を使っても
らいたい。房は、閨房と連用して、閨(ねや)などの形態なので、庵号の意味に
用いてもあながち間違いとはいえぬ。坊号は、何町、何長屋というようなもの。
独居一屋の称には使えない。

名月は敦賀の湊に、と旅立った(中略)旅路の枝折とうかれ立つ

名月は、林道春徒然草の註に、「八月十五夜の月を賞玩すること、おおよそ李
氏唐朝より盛んとなった。古楽府の孀娥怨曲は、漢人が中秋の月が出ぬゆえ作
る、とあるので、漢の世にも楽しんだのであろうか」という。また、欧陽?、
翫月詩の序文に、「八月十五夜のことをいう」とある。(長文ゆえここに記さ
ず)古今、月を愛でる詩歌は枚挙にいとまがない。

つるがは、元角鹿(つぬか)と書いた。以下、言い伝え。「崇神天皇六十五年、
任那(みまな)の人来る。その人、額に角あり。越前笥飯の浦にいたって居るこ
と三年。ゆえにその処を角鹿と名づく」という。今は、敦賀と書く。笥飯も今
気比とする。海を気比の海と呼ぶ。(敦賀はすなわち敦賀郡の浦で、けいは、
つるがの古名である。古歌が多い)越前の大湊で、若州小浜侯の領地である。
『方角抄』、「我をのみ思ひつるがの浦ならば帰る野山はまどはざらまし」。
『万葉集』、「気比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
舟」。(気比の名のことは下にくわしい)

枝折は、刊・栞等の文字を用いる。『尚書』の益稷に、「山に随って木を刮
す。禹貢、山に随って木を栞す。周伯温がいわく、行うところの材木に、そ
の枝を斫り、道の識しと為すという也」と。これは、迷いそうな道の傍らの
木を押し削り、あるいは枝を折って、地面に立てるなどして、後から来た人
の道しるべとすることで、日本では普通、これをしをりとも(しをりは枝折り
)、たつきともいい(たつきは立木)、歌に、たつきもしらぬ、と詠んでいるも
のである。現在、通行人の迷いそうな道の傍らの木の枝に、紙などを結び付
けておくのが、この遺風。しをりの歌は、前段むやむやの関の解説にある。
また、「みよしのの去年のしをりの道かえてまだ見ぬかたの花をたづねん」
西行。

奥の細道行脚。第十五回「金沢」

2010-07-20 18:45:00 | 日記
【おくのほそ道】

 卯の花山 ・くりからが谷 をこえて、金沢に七月十五日につく。ここに大坂より通う商人、何処というものがいる。これと旅宿をともにする。一笑というもの、この道に打ち込み名が折々に聞こえ、世に知られた人であったが、去年の冬早世してしまったゆえ、その兄が追善句会を催した。


 塚も動け我泣声は秋の風


鑑賞(早世を悼み私の慟哭する声が秋風となり粛々と吹きすさぶ。亡者の魂へと届いて、塚をもゆり動かすことであろう)


ある草庵に招かれて
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子


鑑賞(秋風の涼しい季節となった。句を詠む口をしばしとめて、秋茄子・秋瓜をめいめいの手でむいていただこうではないか。一笑に「手向け」の意もあり)


途中吟
 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風


鑑賞(残暑の陽は容赦なく照りつけるが、長い夏にあきあきしたものか、夕風はそ知らぬ風に涼しくふいてくるものだ)

【曾良旅日記】

一 十五日。快晴。高岡を発つ。埴生八幡を拝す。源氏山 ・卯の花山がある。
倶利伽羅峠を見て、未の中刻、金沢に着。
京屋吉兵衛に宿を借りて、竹雀・一笑に連絡をとる。即座に竹雀・牧童 が連れ立って参り事情を話す。一笑が去る十二月六日死去したという。

一 十六日。快晴。巳の刻。竹雀より籠にて迎えを寄越す。川原町、宮竹屋喜左衛門方へ移る。徐々に門弟が集まり、一堂に会す。

一 十七日。快晴。翁ひとり源意庵へ遊ぶ。私は病気ゆえしたがわず。今夜、丑のころより雨が強く降り、暁には止む。

一 十八日。快晴。

一 十九日。快晴。みなが来る。

一 二十日。快晴。松幻庵にて一泉がもてなす。俳諧、一折あって、夕方野端山に遊ぶ。帰って夜食をしたため散会。子の刻となった。

一 二十一日。快晴。医師の高徹 に会い、薬をもらった。翁は北枝・一水と同道し寺に遊ぶ。十徳二枚、十六四 。

一 二十二日。快晴。高徹が見舞う。また薬をもらう。この日は、一笑の追善句会。□□寺 にて興行する。参加者は朝飯の後より集まった。私は病気のため、未の刻より参会。暮れ過ぎ、みなに先立って帰る。亭主は丿松。

一 二十三日。快晴。翁は雲口 に連れられ宮の越 に遊ぶ。私は病気のため参らず。江戸へ便りをしたためていた。鯉市・田平・川源 などへ出す。高徹より薬が届く。以上六枚である。今宵、牧童・紅爾等が引き止めに来た。

一 二十四日。快晴。金沢を発った。

【奥細道菅菰抄】

卯の花山・くりからが谷をこえて

卯の花山は、くりから山と続いており、越中礪波郡、となみ山の東にある。源氏が峰という人もいる。木曾義仲の陣所があったところ。義仲の妾、巴と葵(山吹女)、二人の塚もこのあたりにある。(由緒は長くなるので略す)卯の花山は名所である。『夫木抄』、「日かげさすうのはな山の小忌衣たれぬぎかけて神まつりてん」、小侍従。(この他古歌が多い)

くりからが谷は、くりから山の谷である。くりから山は、越中今石動の駅と加賀竹の橋の宿との境にあって、峰に倶利伽羅不動の堂あり。これによって山の名とした。現在は、またの名、栗柄山とも書いている。平家・義仲の合戦の地。「一騎打ち」と呼ぶ、岩間のいたって狭い道がある。この山の麓、越中に羽生村の八幡宮がある。木曾義仲が大夫房覚明に平家追討の願書を書かせ奉納した神社で、これは現存している。

『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳 』 松尾芭蕉他著 水野聡訳 能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

奥の細道行脚。第十四回「一振」

2010-07-17 22:47:19 | 日記
 六月、象潟を発ち日本海沿いを下向する芭蕉一行の足取りはにわかに速度を増 します。序破急の位でいえば、旅も終わりに近づき、「急」の位を予感させる。
今回の行路は、いままでのような名所・旧跡にとぼしいためか、人と人との関 わりが大きくクローズアップされます。二人の俳友との再会。ひとりはすでに 黄泉の国の住人ですが。また、越後から伊勢詣へと下る遊女との相宿。悲しくも、胸騒ぐ旅の風情がそこかしこと翁の発句に立ち上ります。
 終着点大垣では、門人たちが大集合し旅人を迎え無事を喜び合う。しかし伊勢遷宮を拝まんと、これら門人たちとも袖を分かち、長島にてふたたび舟に棹差し、『おくのほそ道』は幕を閉じるのです。



●一振

【おくのほそ道】

一振(いちぶり)

 今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返し などという北国一の難所を越 えた。疲れ果て、枕を引き寄せ寝ていると、一間隔てた表の方から、若い女の 声二人ばかりが聞こえてくる。年老いた男の声もまじり、その話を聞くと、越後の国新潟というところの遊女 らしい。伊勢参宮 に行くという。この関まで男が送り、明日戻るというのでふるさとに届ける文をしたためて、はかない言伝をしているようだ。白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世を わびしく落ち下るように、定めなき契りを結ぶこと。日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう、と物語るのを聞くともなく眠りに落ちた。翌朝、旅立つわれわれに、
「行方も知れぬ旅路の辛さ、あまりに心細く悲しく思われます。見えつ隠れつ、お坊さま方のお跡をおしたいさせていただけませんでしょうか。仏のお情けに、大慈悲の恵をたまわり、仏道へ結縁させていただきとうございます」
 と涙を流す。不憫には思ったが、
「私どもは、所々立ち寄る先が多いのです。ただ、伊勢詣での人々の流れにまかせ、ついていきなされ。神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう 」
 と言い捨てて発ったものの、不憫な心はしばらく止むものではなかった。


 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月


鑑賞(ひとつ屋根の下奇しくも遊女と泊まり合わせる。庭の萩の花もおりから の十五夜の月に冴え冴えと照らされている。仏縁に導かれ全く境涯の違う二人が出遭い、また別れゆく運命の不思議さよ)

【曾良旅日記】

○十二日。天気快晴。能生を発つ。早川 で翁がつまずき、衣服が濡れてしまった。河原でしばし干す。午の刻、糸魚川 に着く。新屋町、左五左衛門方で休む。大聖寺のソセツ師より伝言あり。母親は無事に到着。当地は安全だとのこと。申の中刻、市振(いちぶり)に着。泊まる。

○十三日。市振発。虹が立つ。玉木村 まで市振から十四、五丁ある。


【奥細道菅菰抄】

今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えた

 親知らず・子知らずは、越後の国、歌という宿より一振までの街道で、山の下という。一方は険山であり、その下の波打ち際を行き来する。そのため、波が来る時は岩陰に隠れ、引く時に出て走る。つまり波の引く間、わずかの内に走るため、「親をも顧みず、子をも思わず」という心でこの名がついた。
 犬戻りは中屋敷というところより、長浜の宿までの間にあり、岩石の間を渡る。
 駒返しは、遠海と歌との間、いずれも越中への街道にある海辺である。

越後の国新潟というところの遊女らしい。伊勢参宮に行くという

 新潟は、越後の国、蒲原郡、海辺の町であり、信濃川(信州では筑摩川と呼ぶ)、奥州会津の大河が合流し、運送の便よく、当国第一の大湊、繁華の地である。

 遊女を中国では、妓という。(日本で、清盛の時、妓王、妓女といった。白拍子の名は、これによる通称である)『書言故事』に、「いにしえ未だ妓有らず。
漢武はじめて官妓を置き、軍士のこれ妻無き者に侍らす」という。遊女の名は、『詩経』に、「漢に遊女あり」の詞より出たのであろうか。しかし、詩経の意は、ただ漢水の辺を遊行する女である。芸妓のことではない。日本では、播州室津の遊女を初めとする、と聞く。あるいは、周防(すおう)の国、室積の妓が起こりとも。また、『朝野群載』には、「江口ではすなわち観音を祖と為し、蜑島ではすなわち宮城を宗と為し、神埼ではすなわち河菰姫を長者と為す」とある。しかしこれらは、どの時代のことか不明。また、ある書では「わが朝の妓は、いつの時代起こったものか知られていない。おおよそ鳥羽の院の御宇に始まった」というが、『後拾遺和歌集』に、遊女宮城の歌を載せ、『源氏物語』、関屋の巻では、光源氏が住吉へ詣でる装いを、江口・神埼の遊女が船を浮かべ見物したと記す。ということは、後一条院の頃、すでに遊女がいたものか。
 また『万葉集』に、遊行の婦女というものがあり、遊女のようにも思えるので、孝謙の御宇にもあったのであろうか。また、「鳥羽院の御宇、永久三年、洛陽に島の千歳・和歌の前という二人の女、盛んに教坊舞をなし、遊女の舞はこれより始まる」と『年代広記』に記す。『前太平記』には、藤原正澄の妓女、松世というものを、兄澄友が奪ったことを記す。また一説では、鳥羽院の御宇、通憲入道が、妾の磯禅師に、烏帽子水干を着せ、太刀を帯させ舞わせた。これを男舞と称する。すなわち遊女の舞のはじめである、と『源平盛衰記』にあるという。案ずるに、『新古今集』には、遊女、奥州という者の歌を載せていたと覚える。いずれにしろ、その始まりは、ずいぶん古いことであろう。

 また、傾城の号は、『前漢書』、外戚伝にいう。「李延年の妹は絶世の美女。延年はこれを皇帝に侍らす。酒宴たけなわなる時、歌っていわく。北方に佳人有り、絶世にして独り立す。ひとたびかえり見れば、人の城を傾け、ふたたびかえりみれば、人の国を傾く。城と国とを惜しまざらん。佳人はふたたび得難し、と。この歌より、美人を傾城・傾国といい、後ついに妓の通称となる」。

 伊勢参宮は、太神へ参詣することをいう。内宮は、天照皇太神にて、宇治の郡御裳濯川の上にまします。外宮は、豊受皇太神にて、度会の郡、山田原にまします。いずれも鎮座は、垂仁天皇二十六年冬十月という。

白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世をわびしく落ち下るように(中略) 日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう

 白浪の寄せる汀とは、『新古今集』、「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」、読み人知らず。この歌を取って、うかれ女の名に寄せて書いたものであろう。
 海人がこの世は、すなわち「あまが子」との掛詞である。業因は、前世でなした業を、今の世へ持ち来ることをいう。

神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう

 加護は、「まもりをくわえる」と訓ずる。『法苑珠林』に、「この加護方便を為すことを得る」とある。つつがなく、の解説は前述。

名言名句マガジン【言の葉庵】No.24発行しました。

2010-07-16 12:08:15 | 日記
寺子屋8月新講座「山上宗二記」開始!【言の葉庵】No.24
http://bit.ly/dd7PHE

世渡るはしとなるぞ哀しき。2010.7/16

 けがさじと思ふ御法のともすれば 世渡るはしとなるぞ哀しき。「山上宗二記」の奥書に引かれる慈円の歌。利休も常にくちずさんだという歌に、二年後この世を去ることになる、山上宗二の純粋な茶の湯への思いが凝縮されているかのようです。寺子屋新講座「山上宗二記」。8月より開講します。
日本語ジャングルは2回連続でお届けする、天下人の能狂い。ひとさし舞って死地に赴いた戦国武将の戦と能三昧の日々をレポートします。
花の武士道は、いくつも死を乗り越えていく葉隠侍の物語。「武士道といふは死ぬことと見つけたり」の段落を読みます。