【おくのほそ道】
ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
と亭主が語った。
月清し遊行のもてる砂の上
鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)
十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。
名月や北国日和定めなき
鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)
【曾良旅日記】
一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。
【奥細道菅菰抄】
ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き
白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。
玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。
鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。
燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。
明くる夜の陰晴測りがたし
孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。
気比の明神へ夜参する
気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。
社殿は神寂びて
寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。
遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します
遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。
遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。
ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
と亭主が語った。
月清し遊行のもてる砂の上
鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)
十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。
名月や北国日和定めなき
鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)
【曾良旅日記】
一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。
【奥細道菅菰抄】
ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き
白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。
玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。
鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。
燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。
明くる夜の陰晴測りがたし
孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。
気比の明神へ夜参する
気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。
社殿は神寂びて
寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。
遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します
遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。
遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。