即ち死するの日は、なお生ける年のごとし。
~『貞観政要』巻第十 魏徴
■名臣魏徴、死を賭しての諫言
「貞観政要」は、唐を建国した聖帝太宗と、同じく国家創業に貢献した賢臣たちとの政治問答の書です。今回の名言、「即ち死するの日は…」は、主君太宗ではなく、股肱の臣魏徴によるもの。唐建国より十有余年、世は太平となり、帝太宗の日常にもいささか懈怠が見られだした。これを日頃観察していた側近魏徴が、災いの芽が大きく伸びぬうちに、と上書した長大な諫言文の末尾にある至言です。太宗の失策、失政を全十か条にわたり指摘し、古今の興国亡国の例をひきながら、理を尽くし、情に訴えながら綿々とつづったもの。その十か条は以下です。
1.名馬や財宝の蒐集
2.民の苦役
3.大宮殿の造営
4.小人を近づけ、君主を遠ざける
5.商工業のみの振興
6.誤った人材登用
7.狩猟・娯楽
8.臣下への礼節欠如
9.奢り・欲望・享楽・野望
10.天災・謀反への無防備
主旨はどうあれ、微に入り細を穿って、主君の悪を書き連ねた罪は、万死に値する。無論、死を賭しての諫言でした。
■わが悪事を千年後に伝え遺す聖帝
「即ち死するの日は、なお生ける年のごとし」。いうべきことは全ていった。やるべきことは全てやり尽くした。皇帝に無礼を働いた罪で、間違いなく自分は死ぬであろう。しかし自分が死んだ日こそ、聖なる帝国唐のよみがえる日。すなわち自分の志が、不滅の生命を得て新たに生まれる日である、という高らかな宣言なのです。
太宗は、無論凡主ではありません。この魏徴の諫言を見て、わが非を即座に悟り、必ず改めようと約束します。そしてこれらを屏風に仕立て、朝夕仰ぎ見、あまつさえ史官に残らず記録させた。「千年の後の世の人に、君臣の義を知らしめる」ために。帝王自身が、自らの悪行を隠さず記録させたのですから、並大抵のことではありません。まさに、至誠の人といえましょう。
■北条政子も屏風に書かせ愛読
「貞観政要」は、わが国の偉大なる為政者たちの愛読書として知られています。北条政子、徳川家康、明治天皇等、時代の指導者たちは、ここから懸命に政治の要諦を学びました。その結果、武家による政権、鎌倉幕府が日本史上はじめて樹立され、三百年の太平の世、江戸時代が現出し、また明治維新が成し遂げられ、今日へと続いています。なかでも北条政子は「貞観政要」を藤原為長に翻訳させ、屏風に書かせて日々愛唱したとされますが、それはこの魏徴の上奏文かもしれません。
■創業より、守成なお成り難し
太宗と諫臣たちとの間で、たびたび議論される、政治の最大の課題が「創業か、守成か」です。大乱を平定し、国家を打ちたてる「創業」と、国家を永遠に存続させる「守成」。いずれがより困難か。太宗も、魏徴も比べるまでもなく「守成」の難しさを痛感していました。
そして、「守成」を堅持するためのキーワードが「終わりを慎む」こと。有終の美を飾るだけではなく、創業時の志・慎み・恐れを終生持ち続ける。さらに自分の死後も、その意志を子孫へと伝え、国家の存続と繁栄を不動のものとすることが、国家経営の究極の形といえましょう。ゆえに魏徴は、「死するの日は、なお生ける年」と、死に臨んで快哉を叫んだのです。
現在市場に流通している「貞観政要」は、大半が抄訳と解説をとりあわせて編集したダイジェスト版です。本文内容が重要であるにもかかわらず、長大なため魏徴の諫争文はカットされており、それらの諸本には収録されていません。今回、【言の葉庵】では、巻第十「論慎終」より、魏徴の上奏文を全文現代語訳にてご紹介したいと思います。
『貞観政要』巻第十 論慎終 第四十 第五章 (能文社 2010)
http://bit.ly/cb1Jhe
~『貞観政要』巻第十 魏徴
■名臣魏徴、死を賭しての諫言
「貞観政要」は、唐を建国した聖帝太宗と、同じく国家創業に貢献した賢臣たちとの政治問答の書です。今回の名言、「即ち死するの日は…」は、主君太宗ではなく、股肱の臣魏徴によるもの。唐建国より十有余年、世は太平となり、帝太宗の日常にもいささか懈怠が見られだした。これを日頃観察していた側近魏徴が、災いの芽が大きく伸びぬうちに、と上書した長大な諫言文の末尾にある至言です。太宗の失策、失政を全十か条にわたり指摘し、古今の興国亡国の例をひきながら、理を尽くし、情に訴えながら綿々とつづったもの。その十か条は以下です。
1.名馬や財宝の蒐集
2.民の苦役
3.大宮殿の造営
4.小人を近づけ、君主を遠ざける
5.商工業のみの振興
6.誤った人材登用
7.狩猟・娯楽
8.臣下への礼節欠如
9.奢り・欲望・享楽・野望
10.天災・謀反への無防備
主旨はどうあれ、微に入り細を穿って、主君の悪を書き連ねた罪は、万死に値する。無論、死を賭しての諫言でした。
■わが悪事を千年後に伝え遺す聖帝
「即ち死するの日は、なお生ける年のごとし」。いうべきことは全ていった。やるべきことは全てやり尽くした。皇帝に無礼を働いた罪で、間違いなく自分は死ぬであろう。しかし自分が死んだ日こそ、聖なる帝国唐のよみがえる日。すなわち自分の志が、不滅の生命を得て新たに生まれる日である、という高らかな宣言なのです。
太宗は、無論凡主ではありません。この魏徴の諫言を見て、わが非を即座に悟り、必ず改めようと約束します。そしてこれらを屏風に仕立て、朝夕仰ぎ見、あまつさえ史官に残らず記録させた。「千年の後の世の人に、君臣の義を知らしめる」ために。帝王自身が、自らの悪行を隠さず記録させたのですから、並大抵のことではありません。まさに、至誠の人といえましょう。
■北条政子も屏風に書かせ愛読
「貞観政要」は、わが国の偉大なる為政者たちの愛読書として知られています。北条政子、徳川家康、明治天皇等、時代の指導者たちは、ここから懸命に政治の要諦を学びました。その結果、武家による政権、鎌倉幕府が日本史上はじめて樹立され、三百年の太平の世、江戸時代が現出し、また明治維新が成し遂げられ、今日へと続いています。なかでも北条政子は「貞観政要」を藤原為長に翻訳させ、屏風に書かせて日々愛唱したとされますが、それはこの魏徴の上奏文かもしれません。
■創業より、守成なお成り難し
太宗と諫臣たちとの間で、たびたび議論される、政治の最大の課題が「創業か、守成か」です。大乱を平定し、国家を打ちたてる「創業」と、国家を永遠に存続させる「守成」。いずれがより困難か。太宗も、魏徴も比べるまでもなく「守成」の難しさを痛感していました。
そして、「守成」を堅持するためのキーワードが「終わりを慎む」こと。有終の美を飾るだけではなく、創業時の志・慎み・恐れを終生持ち続ける。さらに自分の死後も、その意志を子孫へと伝え、国家の存続と繁栄を不動のものとすることが、国家経営の究極の形といえましょう。ゆえに魏徴は、「死するの日は、なお生ける年」と、死に臨んで快哉を叫んだのです。
現在市場に流通している「貞観政要」は、大半が抄訳と解説をとりあわせて編集したダイジェスト版です。本文内容が重要であるにもかかわらず、長大なため魏徴の諫争文はカットされており、それらの諸本には収録されていません。今回、【言の葉庵】では、巻第十「論慎終」より、魏徴の上奏文を全文現代語訳にてご紹介したいと思います。
『貞観政要』巻第十 論慎終 第四十 第五章 (能文社 2010)
http://bit.ly/cb1Jhe