門前の小僧

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【日本文化のキーワード】第十回 鬼

2023-11-05 10:24:38 | 日本文化バンザイ


「鬼」とはいったい何者か。日本文化を読み解くキーワード、今回は「鬼」にスポットライトをあてて、日本人の心の中に深く分け入ってみましょう。


[第一章] 鬼とは何か


■鬼の誕生

日本文化における鬼のイメージは、多種多様、かつ複雑です。 鬼は、恐ろしいもの、強いもの、人に敵対するものの象徴とされる一方、人を助けたり幸せをもたらしたりする神としても捉えられることがあります。
このような鬼の多面性は、鬼の語源や由来、仏教や陰陽思想の影響、民俗学や文学・芸能などの表現によって形成されてきたと考えられるのです。

まず、鬼という言葉や、漢字の語源、由来について見てみましょう。

源順(みなもとのしたがう)のわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』には、
「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」
とあります。

「おに」という言葉は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「隠(おぬ)」が転じた、あるいは「陰(おん)」が転じた、などの説があるというのです(「陰」については鬼と陰陽思想として後述)。
「鬼」(おに/キ)という漢字は死体の象形文字で、人は死んだら鬼になると考えられ、大きな頭の形(『新漢語林』)が、この世の人とは異なることを示していると考えられます。



中国では、鬼とは死者の霊魂そのものであり、姿形のないものとされてきました。 それが日本に伝わると、死に対する恐怖から鬼は恐ろしくて怖いものと捉えられていったようです。


■古代の鬼は、神でもあった

折口信夫は、「恐るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測しました。実際、鬼と書いて「カミ」と読む場合があるのです。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けています。

馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、
「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」
と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されていると推論したのです。また『民俗学事典』には、
「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」
とあります。
 文献上に「鬼」の文字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』。大原郡阿用郷縁起として、

「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」
とあり、ここに日本ではじめて鬼があらわれるのです。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事も見られます。

■鬼を形づくった思想

鬼は誕生から、長い年月を経るうちに、仏教や中国古代思想(陰陽思想)、また民間説話・伝承、文学、芸能などから徐々に形成されてきたと考えられています。

まず仏教における鬼について考えてみましょう。 仏教では業に従って輪廻転生する世界を「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」という六つの世界で説きました。
この中の「餓鬼道」は、絶えず飢えに苦しみ、食べ物を口に近づけるとすべて炎となって口に入れられず、決して満たされることがない。 また、地獄には閻魔王のもとで死者を責めたてる獄卒(ごくそつ)という鬼がいます。
戦闘を好む阿修羅は鬼神とされる。 仏教では、これらの鬼は悪行や煩悩によって生まれた存在であり、悟りや解脱を得ることができれば人間や天上界へ昇格することが可能であると説いているのです。

つぎに、陰陽思想における鬼について考えてみましょう。日本文化の成立と発展には、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」が深く関係してきました。
たとえば、“月は陰、太陽は陽”になります。 邪気の象徴となる鬼は「陰」であり、「丑寅(うしとら。 艮)」の方角や時刻に関係する。 丑寅の方角は北東であり、鬼は鬼門と呼ばれるこの方角から出入りするとされています。丑寅の時刻は深夜二時から四時頃であり、鬼は真夜中に活動するとされます。また、鬼はウシの角、トラの牙や爪をもち、トラ皮の衣装をつけた姿で表現されるようになっていったのです。



■鬼の分類

目には見えず、人を食らう恐ろしい存在である鬼は、仏教系の地獄の鬼や、陰陽思想の牛虎のイメージを借り、平安時代に源信の『往生要集』等から徐々にイメージが具体化され、地獄図などに描かれるようになっていきました。
馬場あき子は、『鬼の研究』で時代と共に変遷していく鬼の様相を以下の五つに類型化しています。

1.民族学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、天狗など。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって人が変身した鬼。

歴史的に見れば、おおむね上の順序によって、さまざまな鬼のイメージが生まれてきたと考えられましょう。時間による累型の違いというよりも、1.~3.の鬼と、4.5.の鬼ではその本質の違いに決定的な開きがあることに気づいたでしょうか。前者はこの世ならぬ存在、すなわち生粋の鬼であり、後者は人が変貌して成り果てた鬼なのです。



[第二章] 能の鬼


■世阿弥が見た鬼

神話や伝承で文字として表現された鬼が、まず仏教の地獄図などで視覚化され、さらに神楽や民俗芸能によって、その恐ろしく禍々しい姿がありありと現実存在として具象化されていきました。
虎の皮こそ身にまとっていませんが、能が描いた鬼の〈目に見える姿〉は、その後の日本人に鬼の姿を定着させていくマイルストーンとなったのです。
能の大成者、世阿弥が見た鬼とはどのようなものだったのでしょうか。

■鬼か、幽玄か

「これ、ことさら大和の物なり、一大事なり。(中略)鬼の面白き所あらん為手は、究めたる上手と申すべきか。委しく習ふべし。ただ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし」。
(『風姿花伝』第二物学條々)

世阿弥の父、観阿弥が立ち上げた大和の猿楽一座〈結崎座〉(後の観世座)は、もともと鬼の芸を得意とする一派でした。これに対し、ライバルである近江日吉座の犬王道阿弥は、舞を中心とする幽玄な芸で人気を博していたのです。この犬王の幽玄な猿楽芸を世阿弥は、自らの芸へと取り込み、今日の能の礎を築き上げました。
しかし、「ことさら大和の物なり。一大事なり」とする鬼の芸を世阿弥は生涯捨てることはなく、かえって自らの能楽理論の中で、より高位にあり、かつ難易度の高い演目としてとらえなおしていきます。

■能の先達の鬼の芸

世阿弥の先達といえば、まず父の観阿弥です。そして観阿弥が鬼の芸のお手本とした他座の名役者がいました。
まず、観阿弥の鬼の芸とはどのようなものだったのでしょうか。

「いかれることには、融の大臣の能に、鬼に成りて大臣を責むると云う能に、ゆらりききとし、大きになり、砕動風などには、ほろりとふりほどきふりほどきせられし也」。
(『申楽談義』観阿)

ゆらりききとし(ゆらゆらと、またきびきびと)、ほろりとふりほどきせられし―。
観阿弥の鬼の芸は、一見荒々しくも、恐ろしくもなかったような印象を受けます。

それでは、観阿弥がお手本とした先達の鬼の芸はどうでしょうか。
「かの鬼の向きは、昔の馬の四郎の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体也。光太郎の鬼はついに見ず。古き人の物語の様、失せては出来、細かに働きける也」。
(同)

観阿弥の鬼の芸の師は、馬の四郎。摂津榎並座の猿楽役者です。さらりきき、大様大様とゆらめいたる(さっと素早く、きびきびしながらも大きくゆらめくような)芸だったといいます。
光太郎とは、世阿弥の芸養子である金春禅竹の祖父。世阿弥は初めて舞った、狂う鬼の舞台で「失せては出来る」光太郎の鬼の至芸をほうふつとさせる、と観客に賞讃されたのです。
馬の四郎、光太郎、観阿弥、世阿弥等の鬼は、ぼくたちが描く、激しく強く、禍々しい鬼のイメージとはかなり異なるもの。それはなぜでしょうか。

■力動風の鬼と砕動風の鬼

世阿弥晩年の演技の伝書に絵図の入った『二曲三体人形図』があります。
能の演技の基本形を表した世阿弥の解説書で、鬼の芸については、〈力動風(りきどうふう)〉と〈砕動風(さいどうふう)〉の二種に大別して、その要点を説いています。

1.力動風 (勢形心鬼)


2. 砕動風 (形鬼心人)



世阿弥の説く力動風鬼とは、姿かたちも、心も純粋な鬼であり(勢形心鬼)、そこには一片の人間性もありません。能の曲目でいえば、〈大江山〉〈土蜘蛛〉〈鵜飼〉などです。
かたや砕動風の鬼とは、「姿かたちは鬼でも、心は人」とあるように、何らかの原因や業によって、人が鬼と化したものを指します。
砕動風の鬼の代表として、般若の面をつける、人間の女が鬼に変身した〈鉄輪〉〈道成寺〉〈葵上〉など、多くの人気曲があります。



「ことさら大和の物なり」と、自身の一座の看板芸であった鬼を、面白いことに世阿弥本人は「よくせんにつけて面白かるまじき」(『風姿花伝』)、「こなたの流には知らぬ事」(『佐渡状』)などと否定、排斥しようとしたきらいがあります。
それはなぜかといえば、鬼の正体はつきつめれば人の心の闇だからなのです。


■自分の中の鬼

世阿弥の幼名を〈鬼夜叉〉といいました。
猿楽芸を時の将軍に認められ、一躍時代の寵児となった世阿弥の生涯は、晩年に至って、坂を転がり落ちるように、悲運が見舞い続けたのです。
ライバルたちとしのぎを削り合った青年期から、壮年期に至るまで、関わった多くの人たちの心の闇をどれほど垣間見たことでしょうか。振り返ってみれば自身も、周囲の人々へ、芸事においては一歩も譲らず、柔和に微笑みながらも「心を鬼」として過酷な処遇をしていったのかもしれません。

幼時に心身が弱く、鬼に対して尋常ならざる恐怖心を抱いていた馬場あき子は、『伊勢物語』の一節を契機として、鬼と和解できたことを以下のように回顧しています。

「〈業平の女を喰った鬼の話〉の末尾で、『それをかく鬼とはいふなり』と記された一文に出遭った時、もはや二十歳をはるかに過ぎていたはずの私は、はじめてほっと吐息をついたものである。『それをかく鬼とはいふなり』という含みのある文体の中に、鬼とはやはり人なのであり、さまざまの理由から〈鬼〉と仮によばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じたからである。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった」。

(『鬼の研究』)

鬼への恐怖心が反転して興味・関心となり、さらに自らその一族に引き込まれ、ついには〈一種の愛〉さえ育ち始めた、と馬場は回想します。
いにしえの歌人も、深窓の令嬢へ贈った恋の歌に、相手のことをふざけて“鬼”(決して姿を現さない存在)と呼びかけました。
馬場より千年も前に、日本人は鬼を恐れ、忌み嫌う対象ではなく、〈一種の愛〉をもって接する、親密な相手と捉えていたのかもしれません。


みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
(平兼盛『大和物語』58)



■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

・第八回 仕舞い
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・第七回 間
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・第六回 切腹
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・第五回 位
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・第四回 さび
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・第三回 幽玄
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・第二回 風狂
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・第一回 もののあはれ
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※「侘び」については以下参照

・[目利きと目利かず 第三回]
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・[目利きと目利かず 第四回]
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秋には、蜘蛛が鳴く

2017-11-01 11:00:09 | 日本文化バンザイ
今、世はハロウィンで大騒ぎ。
ホラーつながりのトピックスを日本文化からお届けしましょう。
まず、松尾芭蕉の秋の句をご紹介。
 蜘蛛何と音をなにと鳴く秋の風
 (俳諧向之岡 延宝八年)


これは枕草子にある、蓑虫が秋に「ちちよ、ちちよ」と鳴く、
というエピソードへの返歌です。(枕草子 第四十一段)

蓑虫は異界の生き物とされ、父が子に鬼のキモノである、
蓑を着せ「秋風が吹くころに戻ってくる」といい残し、
去ったという逸話です。
蓑虫の子は寒風に吹かれると、「お父さん、お父さん」と
悲しげになく、といいます。
鳴くはずのない虫まで、秋には悲しげになく。
日本文化の通底を表す、古今の歌と物語。
「母」ではなく、「父」というところに景教の影響もあるのかもしれません。

 #ハッピーハロウィン 

大江匡房『遊女記』現代語訳 公開

2017-03-24 18:45:11 | 日本文化バンザイ
大江匡房の『遊女記』は、『傀儡子記』の姉妹編として、中世の遊女を知る根本史料と位置付けられています。

匡房晩年の著と見られ、江口・神崎・蟹島の遊女の実態を生き生きと伝える、中世芸能・風俗の必須文献です。

本著の特徴は、匡房が属した当時の中流貴族の嗜好や価値観を明確に示す点。叙述が具体的かつ詳細である点。また、同時代の他の著書(『栄花物語』『扶桑略記』など)とも事実関係が正確に合致する点にあります。



奈良時代の遊行女婦(うかれめ)、平安時代の遊女・傀儡女から、近世の芸妓・花魁・太夫などへとつながっていく、遊女文化の系譜がまさにここから紡がれていくのです。



今回は、岩波書店『日本思想体系8 古代政治思想』所収の「遊女記」読み下し文を底本としながら、華頂博物館学研究『遊女記について』田中嗣人の地史学的見地による新たな解釈の読み下し文も参照し、【言の葉庵】現代語訳を作成しました。



以下、〈原文・読み下し文〉〈現代語訳〉の順にご紹介しましょう。







〈原文・読み下し文〉



山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽・西海・南海の三道を往返する者、この路に遵はざるなし。江河の南北、邑々処々にあり。流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。



摂津国に至れば、神崎・蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成し、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れざるなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なり、殆(ホトンド)水なきがごとし。蓋し天下第一の楽しき地なり。



江口は則ち観音を祖と為し、中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は則ち宮城を宗と為し、如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為し、孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及ぶまで、牀笫(ユカムシロ)に接し慈愛を施さざるなし。また人の妻妾と為りて、身を歿するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は則ち住吉、西は則ち広田、これをもて徴嬖(チョウヘイ)を祈る処と為す。殊に百大夫に事(ツカ)ふ。道祖神の一名なり。人別に□之数を剜し、百千に及ぶ。能く人心を蕩す。また古風のみ。



長保年中(999~1003)、東三条院は住吉社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せらる。長元年中(1028~36)、上東門また御行あり。この時宇治大相国は中君を賞(メ)でらる。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき。狛犬・犢(コウシ)等の類、舟を並べて来れり。人神仙と謂へり。近代の勝事なり。



相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞でんがため、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入るの輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに見ゆるをもて事と為すが故になり。得るところの物、これを団手と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿厲の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平分肉之法あり。その豪家の侍女の上下の船に宿る者、これを湍繕と謂ひ、また出遊と称す。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髺俵(キッピョウ)・絧絹(トウケン)の名あり。舳に登指を取りて、皆丸分之物を出すは習俗の法なり。

江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記すのみ。



『遊女記について』田中嗣人(華頂博物館学研究 5, 1-11, 1998-12)







〈現代語訳〉



山城国与渡津※1より、巨川※2を西に舟で一日行ったところに河陽がある。山陽・西海・南海の三道を行き来する者なら、必ず通る道である。

巨川の南岸と北岸には村々が点在している。南岸河内国より、川が支流となったあたりが江口である。ここに、典薬寮味原の牧、掃部寮大庭の庄がある。



摂津に至れば、神崎・蟹島などの地がある。ここには(娼家が)門を並べ、(遊女の宅が)戸を連ねて、人家は絶えることもない。

娼女どもは群れをなし、小舟に棹さして、客船に取りつき枕席をすすめているのだ。

女が客を呼ぶ声は川霧をせき止め、音曲の音は川風に漂う。これには旅人もつい家庭を忘れてしまうのである。洲には蘆が生い茂り、白浪は花のごとし。翁の釣り船や酒食を商う舟、遊女の舟などの舳と艪が接し、水面も見えぬほどのにぎわいである。まさに天下一の楽園だ。



江口では観音という遊女を祖として、以下、中君・□□・小馬・白女・主殿という名の遊女がある。蟹島では宮城という遊女を宗として、以下、如意・香炉・孔雀・立牧などがいる。神崎では河菰姫を長者として、孤蘇・宮子・力命・小児などがいる。これら名妓どもはみな、倶戸羅※3の再誕のような美声と衣通姫の生まれ変わりのような美貌をもっている。

上は公卿・貴族から、下は庶民にいたるまで、これら遊女の寝屋に導かれたなら、身も心もとろけさせられてしまう。中には身分の高い人の妻や妾となって、生涯愛される遊女もいるほどである。聖人君子といえどもこの誘惑からどのように免れえようか。



さて遊女どもは、南の住吉大社、西の広田神社を信奉し、千客万来を祈願した。

とりわけ百大夫※4、別名道祖神を厚く信仰した。願掛けのため、遊女どもはめいめいで百大夫の神像を作り、神社へ奉納したが、その数は百・千にも及んだ。効験あって、客の心を虜にしたが、こうした古い習俗をもっていた。



長保年間、東三條院は住吉大社・四天王寺に参詣されたが、この時藤原道長公は小観音という遊女を寵愛した。長元年間、上東門院が再び同地へ御幸された。この時、藤原頼通公は中君という遊女を愛でられたのだ。延久年間には後三條院が同じくこれら寺社へ御幸された。この時には、狛犬や犢という遊女が船を並べて華やかに群集したが、人々は神仙境であるとし、近年の慶事であると称したものだ。



また、このようにも伝えている。

殿上人や風流子が、遊女を愛でるために京より河陽へ行く時は、江口の遊女を愛した。地方の役人や庶民が、西国より川に入った時には神崎の遊女を愛したという。これは、最初に訪れた(遊女の)里がそこであったためである。



遊女の収入を「団手」と称した。団手配分の場になると、女の身ながら羞恥の心を捨て、闘争心をむき出しにし、取り分の多寡をめぐる争いは、さながら戦のようである。生絹の反物は一尺一寸まで切り取り合い、米粳の配分は一斗一升を厳密に計って行う。遊女の社会には、古代中国の陳平が公平に肉を分かつ法が今も生きているのだ。



権門の家の侍女の中には、遊女の舟に乗る者※5があり、これを「湍繕※6」または「出遊」と呼んだ。少額の報酬を得て、一日の助けとしたのである。よってまたの名を「髺俵※7」、「絧絹※8」などともいう。この女どもが乗る船には、舳先に高い柱が立てられ、丸い印が掲げられていた。こうしたことも遊女の世界の決まり事である。



遊女のことは、大江以言の『見遊女詩序』にあるが、このたびはその他の見聞をしたためた。





※1山城国与渡津 京都市伏見区淀

※2巨川 淀川

※3倶戸羅 インドの黒ホトトギス。好声鳥

※4百大夫 陰陽道の神。匡房の時代には神仏混交により、道祖神と同一視しているが本来別の神。『傀儡子記』の百神と同じ神であろう

※5遊女の舟に乗る者 江口の観音など専門の遊女に対して、素人の日銭稼ぎの遊女

※6湍繕 「早く繕う」。すなわち短期の稼ぎ手。「出遊」は出張の稼ぎ手

※7髺俵 俵、すなわち米を入手するために仮に鬘をつけた女=遊女の意か

※8絧絹 絹を入手するために仮の装束をつけた女=遊女の意か





(能文社 水野聡訳 2017年3月26日)





◆参照ページ

【言の葉庵】大江匡房『傀儡子記』現代語訳

http://nobunsha.jp/blog/post_202.html



誇り高き自由の民、傀儡。【言の葉庵】No.92

2016-09-27 19:05:11 | 日本文化バンザイ
【言の葉庵】メールマガジン最新号、本日発刊しました!!



0000281486 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ 名言名句マガジン【言の葉庵】
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┣┫OW┃O     傀儡と遊女が解き明かす中世日本文化史。2016/9/27
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むかしむかし、傀儡(くぐつ)と呼ばれる芸能集団がありました。その末裔たちが、能や文楽を創作したという説があります。今回、傀儡についての代表的な古典『傀儡子記』を現代語でご紹介。2年の歳月を経て、寺子屋の2クラスが終講となります。代わって新クラス『葉隠』と『申楽談儀』が、11月より新規開講の予定です。

…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】日本文化の名著案内             『傀儡子記』現代語訳
【2】カルチャー情報           寺子屋新クラス11月スタート

編集後記…
……………………………………………………………………………………………


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【1】日本文化の名著案内             『傀儡子記』現代語訳
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傀儡(くぐつ)は、狭義では人形遣いの芸能者。わが国では、その発生が九世紀以前にさかのぼる、日本最古の芸能集団を指します。
狩猟系渡来人の末裔ともみなされており、中世に成立した能を代表とするわが国の伝統芸能に少なくない影響を与えた、特殊な職業集団です。

傀儡について、その活躍期に記された歴史史料の代表が、大江匡房の『傀儡子記』。
今回、【言の葉庵】では本作を全文現代語訳にてご紹介します。
原文は漢文四百文字程度のごく短いものですが、中世芸能史を語るうえで欠かせない具体的かつ詳細な、とても興味深い記述を含んでいるのです。

まずは、『傀儡子記』について、岩波書店『日本思想体系』の序文を引用しました。


「遊女記」と姉妹編をなすもので、同時期に執筆されたものと推定される。「傀儡」はあやつり人形を意味し、中国では人形をまわし歌を歌った者をいうが、日本では本書から知られるように、狩猟を元来の生業としながら党とよばれる集団で漂泊し、男は剣術・人形つかい・奇術、女は唱歌・売春などを業とした……





◆続きはこちら(まぐまぐ言の葉庵メルマガページ)↓

http://archives.mag2.com/0000281486/

『傀儡子記』現代語訳

2016-09-24 21:11:26 | 日本文化バンザイ
次回、【言の葉庵】メルマガで、大江匡房の『傀儡子記』現代語訳を

公開します。



中世日本芸能史のキーワードである、〔遊女〕と〔傀儡〕。

いわゆる人形使いの嚆矢として知られる「傀儡」は、

わが国初の専門芸能集団と目されています。



中国や半島からの渡来民、あるいは西欧のジプシーの一派とも

みられている「傀儡」のリアルな姿を解き明かすのが、大江匡房の『傀儡子記』。



多くの謎を含む中世芸能史の中で、第一級の歴史史料とされる

当作品を、はじめて克明・明確な現代語訳でおとどけします。



能や文楽など、今日の伝統芸能の祖形をたどりたい方へ。



●名言名句マガジン【言の葉庵】

http://archives.mag2.com/0000281486/