門前の小僧

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戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第六回

2010-10-21 17:09:39 | ばさら
佐々木道誉篇、今回最終回です。


■道誉逸話3「道誉都落ち楠正儀への馳走」
「太平記」巻第三十七

康安元年十二月、南朝方と連合した細川清氏は幕府軍を破り入京。将軍義詮は後光厳天皇を擁しつつ近江へ逃れた。導誉はこの時、自邸を敵方の大将が占領するであろうと考えたが、邸宅を焼き払うことなく、逆に飾り立てたのである。まず美しく清掃した上で、六間の客殿に紋付の大畳を並べ、中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆に至るまで整えた。

ここに佐渡判官入道々誉都を落ちける時、
「我宿所へは定めてさもとある大将を入れ替んずらん」
とて、尋常に取りしたゝめて、六間の会所には大文の畳を敷きならべ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで、一様に皆置き調へて、書院には義之(ぎし・王羲之は書道史上最も優れた書家で書聖)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ・文学者。唐宋八大家の一人)が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取り副へて置く。
十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸けならべ、三石入りばかりなる大筒に酒を湛たへ、遁世者二人留め置きて、
「誰にても此宿所へ来たらん人に一献を進めよ」
と、巨細(こさい)を申し置きにけり。
楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向きて、
「定めてこの弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申し置かれて候」
と、色代してぞ出で迎へける。道誉は相摸守の当敵なれば、この宿所をば定めて毀ち焼くべしと憤られけれども、楠この情を感じて、その儀を止めしかば、泉水の木一本をも損はず、客殿の畳の一帖をも失はず。あまつさへ遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置きて、郎等二人止め置きて、道誉に交替して、又都をぞ落たりける。

道誉が今度の振舞ひ、なさけ深く風情有りと、感ぜぬ人も無かりけり。例の古博奕(古だぬき)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。


導誉の当意即妙で粋な計らいが彼の屋敷を結果として守ったと言える。一方で「太平記」は正儀が古狸に図られて鎧と太刀を取られたと笑いものにしているが、こちらも粋に対して粋で返した見事な振る舞いというべきであろう。そもそも導誉と正儀はそれぞれの陣営において南北和平派の重鎮であり、敵味方を越えた交流があったとしても不思議ではない。導誉の振る舞いも相手を謀るというより、撤退においてもあさましい姿は見せまいというバサラの心意気によるものであったろう。
 京攻撃失敗後、清氏は四国に逃れ、従兄弟・頼之と戦い討ち死に。一時は天下に権勢を誇った男のあっけない最後であった。

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第四回

2010-10-17 21:46:29 | ばさら
日本史上もっとも派手な英雄、道誉の話題にはこと欠かない。今シリーズでは、さしあたり「太平記」から代表的な逸話を三回にわたってご紹介します。
まずは皇族に対する、恐れを知らぬ「バサラ」の狼藉ぶりを見てみましょう。

■道誉逸話1「妙法院焼打」
「太平記」巻第二十一

高師直、土岐頼遠とならんで、”バサラの三傑”とされる佐々木道誉。そのバサラぶりを伝える代表的な逸話が、太平記巻第二十一にある妙法院焼打事件である。その被害者、妙法院門主は天台座主亮性法親王で、光厳・光明両天皇の連枝であった。

この頃ことに時を得て、栄耀人の目を驚かしける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党ども、例のばさらに風流を尽くして、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過ぐるとて、跡にさがりたる下部どもに、南底の紅葉の枝をぞ折らせける。
時節、門主御簾の内よりも、暮れなんとする秋の気色を御覧ぜられて、
「霜葉紅於二月花なり」
と、風詠閑吟して興ぜさせ給ひけるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部どもが引き折りけるを御覧ぜられて、
「人やある、あれ制せよ」
と仰せられける間、坊官一人庭に立ち出でて、
「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ」
と制しけれども、敢て承引せず。
「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や」
なんど嘲哢して、いやなお大なる枝をぞ引き折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候ひけるが、
「悪ひ奴原が狼籍かな」
とて、持ちたる紅葉の枝を奪ひ取り散々に打擲して門より外へ追ひ出だす。
道誉これを聞き、
「いかなる門主にてもをわせよ、このごろ道誉が内の者に向かつて、左様の事かけん者は覚えぬ物を」
と怒りて、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押し寄せて、すな
はち火をぞ懸けたりける。折節風すさまじく吹きて、余煙十方に覆ひければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼け上がる。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有りけるが、御心早く後の小門よりかちはだしにて光堂の中へ逃げ入らせ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有りけるが、板敷の下へ逃げ入らせ給ひけるを、道誉が子息源三判官走り懸かりて打擲し奉る。そのほか出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃げ散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹き覆ふ。在京の武士共「こは何事ぞ」とうち騒ひで、上下に馳せ違ふ。事の由を聞き定めて後に馳せ帰りける人ごとに、
「あなあさましや、前代未聞の悪行かな。山門の強訴今に有りなん」
と、云はぬ人こそ無かりけれ。

この時代、比叡山といえば、権威の象徴であった。また、独自の僧兵を養い、政治的・軍事的な面においても絶大な力を持っていた。それを相手に乱暴狼藉の限りを尽くしたのであるから、人々は「あなあさましや」といいつつも、拍手喝采したのである。
道誉は、この事件の責任をとって、上総に流されることとなるが、その道中は流人というより、ならず者の行進のようであったという。

道誉近江の国分寺まで、若党三百余騎、打ち送りの為にとて前後に相したがふ。その輩ことごとく猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手ごとに鴬かごを持たせ、道々に酒肴を設へて宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替はり、美々敷くぞ見へたりける。これもただ公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したるかかりなり。

猿はいうまでもなく日吉大社(延暦寺)の神使。まさに、比叡山・妙法院に対し猿の皮をはいで見世物とし、面当てをした訳である。道誉父子に一目置いていた幕府の流罪処置はそもそも山門への申し訳程度のもの。一行の配流は、出羽はもとより上総にすら達さず、この近江国分寺から先は行方知らずとなってしまったという。
また宿々に傾城を弄んだというのであるから、道誉のバサラぶりは常軌を逸したすさまじさであったといわねばならない。