門前の小僧

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【日本文化のキーワード】第十回 鬼

2023-11-05 10:24:38 | 日本文化バンザイ


「鬼」とはいったい何者か。日本文化を読み解くキーワード、今回は「鬼」にスポットライトをあてて、日本人の心の中に深く分け入ってみましょう。


[第一章] 鬼とは何か


■鬼の誕生

日本文化における鬼のイメージは、多種多様、かつ複雑です。 鬼は、恐ろしいもの、強いもの、人に敵対するものの象徴とされる一方、人を助けたり幸せをもたらしたりする神としても捉えられることがあります。
このような鬼の多面性は、鬼の語源や由来、仏教や陰陽思想の影響、民俗学や文学・芸能などの表現によって形成されてきたと考えられるのです。

まず、鬼という言葉や、漢字の語源、由来について見てみましょう。

源順(みなもとのしたがう)のわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』には、
「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」
とあります。

「おに」という言葉は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「隠(おぬ)」が転じた、あるいは「陰(おん)」が転じた、などの説があるというのです(「陰」については鬼と陰陽思想として後述)。
「鬼」(おに/キ)という漢字は死体の象形文字で、人は死んだら鬼になると考えられ、大きな頭の形(『新漢語林』)が、この世の人とは異なることを示していると考えられます。



中国では、鬼とは死者の霊魂そのものであり、姿形のないものとされてきました。 それが日本に伝わると、死に対する恐怖から鬼は恐ろしくて怖いものと捉えられていったようです。


■古代の鬼は、神でもあった

折口信夫は、「恐るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測しました。実際、鬼と書いて「カミ」と読む場合があるのです。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けています。

馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、
「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」
と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されていると推論したのです。また『民俗学事典』には、
「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」
とあります。
 文献上に「鬼」の文字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』。大原郡阿用郷縁起として、

「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」
とあり、ここに日本ではじめて鬼があらわれるのです。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事も見られます。

■鬼を形づくった思想

鬼は誕生から、長い年月を経るうちに、仏教や中国古代思想(陰陽思想)、また民間説話・伝承、文学、芸能などから徐々に形成されてきたと考えられています。

まず仏教における鬼について考えてみましょう。 仏教では業に従って輪廻転生する世界を「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」という六つの世界で説きました。
この中の「餓鬼道」は、絶えず飢えに苦しみ、食べ物を口に近づけるとすべて炎となって口に入れられず、決して満たされることがない。 また、地獄には閻魔王のもとで死者を責めたてる獄卒(ごくそつ)という鬼がいます。
戦闘を好む阿修羅は鬼神とされる。 仏教では、これらの鬼は悪行や煩悩によって生まれた存在であり、悟りや解脱を得ることができれば人間や天上界へ昇格することが可能であると説いているのです。

つぎに、陰陽思想における鬼について考えてみましょう。日本文化の成立と発展には、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」が深く関係してきました。
たとえば、“月は陰、太陽は陽”になります。 邪気の象徴となる鬼は「陰」であり、「丑寅(うしとら。 艮)」の方角や時刻に関係する。 丑寅の方角は北東であり、鬼は鬼門と呼ばれるこの方角から出入りするとされています。丑寅の時刻は深夜二時から四時頃であり、鬼は真夜中に活動するとされます。また、鬼はウシの角、トラの牙や爪をもち、トラ皮の衣装をつけた姿で表現されるようになっていったのです。



■鬼の分類

目には見えず、人を食らう恐ろしい存在である鬼は、仏教系の地獄の鬼や、陰陽思想の牛虎のイメージを借り、平安時代に源信の『往生要集』等から徐々にイメージが具体化され、地獄図などに描かれるようになっていきました。
馬場あき子は、『鬼の研究』で時代と共に変遷していく鬼の様相を以下の五つに類型化しています。

1.民族学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、天狗など。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって人が変身した鬼。

歴史的に見れば、おおむね上の順序によって、さまざまな鬼のイメージが生まれてきたと考えられましょう。時間による累型の違いというよりも、1.~3.の鬼と、4.5.の鬼ではその本質の違いに決定的な開きがあることに気づいたでしょうか。前者はこの世ならぬ存在、すなわち生粋の鬼であり、後者は人が変貌して成り果てた鬼なのです。



[第二章] 能の鬼


■世阿弥が見た鬼

神話や伝承で文字として表現された鬼が、まず仏教の地獄図などで視覚化され、さらに神楽や民俗芸能によって、その恐ろしく禍々しい姿がありありと現実存在として具象化されていきました。
虎の皮こそ身にまとっていませんが、能が描いた鬼の〈目に見える姿〉は、その後の日本人に鬼の姿を定着させていくマイルストーンとなったのです。
能の大成者、世阿弥が見た鬼とはどのようなものだったのでしょうか。

■鬼か、幽玄か

「これ、ことさら大和の物なり、一大事なり。(中略)鬼の面白き所あらん為手は、究めたる上手と申すべきか。委しく習ふべし。ただ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし」。
(『風姿花伝』第二物学條々)

世阿弥の父、観阿弥が立ち上げた大和の猿楽一座〈結崎座〉(後の観世座)は、もともと鬼の芸を得意とする一派でした。これに対し、ライバルである近江日吉座の犬王道阿弥は、舞を中心とする幽玄な芸で人気を博していたのです。この犬王の幽玄な猿楽芸を世阿弥は、自らの芸へと取り込み、今日の能の礎を築き上げました。
しかし、「ことさら大和の物なり。一大事なり」とする鬼の芸を世阿弥は生涯捨てることはなく、かえって自らの能楽理論の中で、より高位にあり、かつ難易度の高い演目としてとらえなおしていきます。

■能の先達の鬼の芸

世阿弥の先達といえば、まず父の観阿弥です。そして観阿弥が鬼の芸のお手本とした他座の名役者がいました。
まず、観阿弥の鬼の芸とはどのようなものだったのでしょうか。

「いかれることには、融の大臣の能に、鬼に成りて大臣を責むると云う能に、ゆらりききとし、大きになり、砕動風などには、ほろりとふりほどきふりほどきせられし也」。
(『申楽談義』観阿)

ゆらりききとし(ゆらゆらと、またきびきびと)、ほろりとふりほどきせられし―。
観阿弥の鬼の芸は、一見荒々しくも、恐ろしくもなかったような印象を受けます。

それでは、観阿弥がお手本とした先達の鬼の芸はどうでしょうか。
「かの鬼の向きは、昔の馬の四郎の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体也。光太郎の鬼はついに見ず。古き人の物語の様、失せては出来、細かに働きける也」。
(同)

観阿弥の鬼の芸の師は、馬の四郎。摂津榎並座の猿楽役者です。さらりきき、大様大様とゆらめいたる(さっと素早く、きびきびしながらも大きくゆらめくような)芸だったといいます。
光太郎とは、世阿弥の芸養子である金春禅竹の祖父。世阿弥は初めて舞った、狂う鬼の舞台で「失せては出来る」光太郎の鬼の至芸をほうふつとさせる、と観客に賞讃されたのです。
馬の四郎、光太郎、観阿弥、世阿弥等の鬼は、ぼくたちが描く、激しく強く、禍々しい鬼のイメージとはかなり異なるもの。それはなぜでしょうか。

■力動風の鬼と砕動風の鬼

世阿弥晩年の演技の伝書に絵図の入った『二曲三体人形図』があります。
能の演技の基本形を表した世阿弥の解説書で、鬼の芸については、〈力動風(りきどうふう)〉と〈砕動風(さいどうふう)〉の二種に大別して、その要点を説いています。

1.力動風 (勢形心鬼)


2. 砕動風 (形鬼心人)



世阿弥の説く力動風鬼とは、姿かたちも、心も純粋な鬼であり(勢形心鬼)、そこには一片の人間性もありません。能の曲目でいえば、〈大江山〉〈土蜘蛛〉〈鵜飼〉などです。
かたや砕動風の鬼とは、「姿かたちは鬼でも、心は人」とあるように、何らかの原因や業によって、人が鬼と化したものを指します。
砕動風の鬼の代表として、般若の面をつける、人間の女が鬼に変身した〈鉄輪〉〈道成寺〉〈葵上〉など、多くの人気曲があります。



「ことさら大和の物なり」と、自身の一座の看板芸であった鬼を、面白いことに世阿弥本人は「よくせんにつけて面白かるまじき」(『風姿花伝』)、「こなたの流には知らぬ事」(『佐渡状』)などと否定、排斥しようとしたきらいがあります。
それはなぜかといえば、鬼の正体はつきつめれば人の心の闇だからなのです。


■自分の中の鬼

世阿弥の幼名を〈鬼夜叉〉といいました。
猿楽芸を時の将軍に認められ、一躍時代の寵児となった世阿弥の生涯は、晩年に至って、坂を転がり落ちるように、悲運が見舞い続けたのです。
ライバルたちとしのぎを削り合った青年期から、壮年期に至るまで、関わった多くの人たちの心の闇をどれほど垣間見たことでしょうか。振り返ってみれば自身も、周囲の人々へ、芸事においては一歩も譲らず、柔和に微笑みながらも「心を鬼」として過酷な処遇をしていったのかもしれません。

幼時に心身が弱く、鬼に対して尋常ならざる恐怖心を抱いていた馬場あき子は、『伊勢物語』の一節を契機として、鬼と和解できたことを以下のように回顧しています。

「〈業平の女を喰った鬼の話〉の末尾で、『それをかく鬼とはいふなり』と記された一文に出遭った時、もはや二十歳をはるかに過ぎていたはずの私は、はじめてほっと吐息をついたものである。『それをかく鬼とはいふなり』という含みのある文体の中に、鬼とはやはり人なのであり、さまざまの理由から〈鬼〉と仮によばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じたからである。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった」。

(『鬼の研究』)

鬼への恐怖心が反転して興味・関心となり、さらに自らその一族に引き込まれ、ついには〈一種の愛〉さえ育ち始めた、と馬場は回想します。
いにしえの歌人も、深窓の令嬢へ贈った恋の歌に、相手のことをふざけて“鬼”(決して姿を現さない存在)と呼びかけました。
馬場より千年も前に、日本人は鬼を恐れ、忌み嫌う対象ではなく、〈一種の愛〉をもって接する、親密な相手と捉えていたのかもしれません。


みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
(平兼盛『大和物語』58)



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※「侘び」については以下参照

・[目利きと目利かず 第三回]
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・[目利きと目利かず 第四回]
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