今回は、桃山時代名茶人の姿を今に伝える、茶の湯逸話集『茶話指月集』よりご紹介。
千利休をはじめとして、相弟子・妻・孫等、利休近縁者の味わい深いひとこまを読んでみましょう。
■千利休と秀吉
春の比(ころ)、秀吉公、大きなる金(かね)の鉢に水を入れて床に直させ、傍(かたわ)らに紅梅一えだ置かせられ、宗易に
「花つこうまつれ」
と仰せらるる。御近習の人々
「難題かな」
とささやかれけるを、宗易、紅梅の枝逆手にとり、水鉢にさらりとこき入れたれば、開きたると蕾(つぼみ)とうちまじり、水上に浮かみたるが、えもいわぬ風流にてぞ有りける。公、
「何とぞして、利休めをこまらしょうとすれども、こまらぬやつじゃ」
との上意、御機嫌斜めならず。
〔ひとこと〕
茶道史上有名な「朝顔の茶会」。以来、利休と秀吉の茶席のエピソードは、茶の湯を語る上では欠かせません。
上は、利休が山崎の合戦以降、秀吉の茶頭となって間もない頃の逸話。秀吉が茶席で利休に、公案問答のごとく無理難題を迫り、利休がこれに対し、目の覚めるような創意で切り返すというパターン。秀吉は「あっと」驚かされ、その興趣に素直に感嘆するのです。ここには天下人とはいえ、師と弟子の純粋な心の交流が感じられます。が、後年「野菊の茶会」
http://bit.ly/h3hgLq
などでは、悲しいことにその暖かい関係性は徐々に失われてしまうのでした。
■藪内紹智(やぶのうちじょうち)
一とせ、休、雪の暁、葭屋(よしや)町(まち)の宅より蓑(みの)笠(かさ)きて紹知の所へたずねられしが、露地に入りて、みの笠ぬぐとて、紹知迎えに出たれば、千鳥の香炉に火の取りたるを、
「これ、紹知」
とて、右の袖より渡せば、紹知うけとり、
「私も懐中候」
とて、左の手より香炉をわたす。休、はなはだ入興(にゅうきょう)せらるると也。
〔ひとこと〕
「かなうは良し、かないたがるは悪しし」(南方録)。師と弟子の心がぴたりと一致する。これほど芸道の世界で美しい瞬間はありません。厳寒の雪の朝、相手を思いやる気持ちが二つの香炉でほこほこと温まる。なんと"真の茶の心"がほとばしる瞬間ではないでしょうか。
■千宗旦
先年、さる人、旦翁へ見舞うたれば、折ふし、茶の湯前にて、僕(しもべ)露地の掃除しつるを、翁のみて、
「あの片隅の蜘の巣ひとつは、そのまま残して仕まえ」
と也。
「古人の風流、今様のたぐいにあらず。感じ侍りぬ」
とかたる。予も是を聞きて、かの兼好法師の、
「何(いずれ)も、事のととのおりたるは、あしきこと也。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、いきのぶるわざ也(『徒然草』第八二段)」
といわれしを、おもいあわせ侍りぬ。
〔ひとこと〕
わびの真骨頂は、ひとつわざと残した「くもの巣」にあらわれる。それは単なる美意識ではなく、"いきのぶるわざ"。すなわち、生命感の発露であるといいます。侘びとは、いのち。言の葉庵、過去のトピックスをご参照ください。
http://bit.ly/gvozaq
■宗恩(利休妻)
一とせ千鳥の香炉千貫に求めて、やや時うつる程、畳に置(す)えてみけるを、休が妻宗恩、
「われにもみせ給え」
とてしばし見て、
「足が一分高うて格好悪しし。きり給え」
という。休、
「われも先ほどより、さおもうなり。玉屋(職人)をよべ」
とて、ついに一分きる也。比の宗恩は、物数寄すぐれて、短檠(たんけい)にむかしは取手の穴なかりしを、はじめて明けさせたる人なり。
〔ひとこと〕
曇りなき"数奇の眼"により、大名物の足をためらいなく斬る、利休後妻の宗恩。この夫にして、この妻ありというべきでしょうか。
『茶話指月集』(平凡社 東洋文庫 昭和47年)
※茶話指月集(さわしげつしゅう)
利休の孫である千宗旦(1578-1658)が、その高弟「宗旦四天王」の一人、藤村庸軒(ふじむらようけん;1613~99)に伝えた逸話を、庸軒の門人で女婿の久須見疎安(くずみそあん;1636~1728)が筆録、編集したもので、庸軒没後の元禄14年(1701)に板行された茶書。
※藪内紹智(やぶのうちじょうち)
茶道藪内流祖、初代 薮中斎 剣仲紹智。1536年、信長の臣藪九十郎禅正の次男として生まれ、のちに藪内宗把の嗣子となる。武野紹鴎のもとで茶の湯を学び、利休とは兄弟弟子。1579年に摂津尼ヶ崎から上京(洛北紫竹村)。利休没後、一時聚楽に出仕するが、晩年は隠居して、茶三昧に入った。
1595年の還暦に、大徳寺 春屋和尚から堂号を認可。このころ下長者町新町西入ル鷹司町の西隣に居を移している。また、利休の媒酌で、古田織部の妹善室を妻にしている。
※千宗旦
1578年(天正6年1月1日)~1658年12月13日(万治元年11月19日)) 父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵。母は利休の娘お亀であり、少庵の京千家を継いだ。千家三代。宗旦流(三千家)の祖。
千利休をはじめとして、相弟子・妻・孫等、利休近縁者の味わい深いひとこまを読んでみましょう。
■千利休と秀吉
春の比(ころ)、秀吉公、大きなる金(かね)の鉢に水を入れて床に直させ、傍(かたわ)らに紅梅一えだ置かせられ、宗易に
「花つこうまつれ」
と仰せらるる。御近習の人々
「難題かな」
とささやかれけるを、宗易、紅梅の枝逆手にとり、水鉢にさらりとこき入れたれば、開きたると蕾(つぼみ)とうちまじり、水上に浮かみたるが、えもいわぬ風流にてぞ有りける。公、
「何とぞして、利休めをこまらしょうとすれども、こまらぬやつじゃ」
との上意、御機嫌斜めならず。
〔ひとこと〕
茶道史上有名な「朝顔の茶会」。以来、利休と秀吉の茶席のエピソードは、茶の湯を語る上では欠かせません。
上は、利休が山崎の合戦以降、秀吉の茶頭となって間もない頃の逸話。秀吉が茶席で利休に、公案問答のごとく無理難題を迫り、利休がこれに対し、目の覚めるような創意で切り返すというパターン。秀吉は「あっと」驚かされ、その興趣に素直に感嘆するのです。ここには天下人とはいえ、師と弟子の純粋な心の交流が感じられます。が、後年「野菊の茶会」
http://bit.ly/h3hgLq
などでは、悲しいことにその暖かい関係性は徐々に失われてしまうのでした。
■藪内紹智(やぶのうちじょうち)
一とせ、休、雪の暁、葭屋(よしや)町(まち)の宅より蓑(みの)笠(かさ)きて紹知の所へたずねられしが、露地に入りて、みの笠ぬぐとて、紹知迎えに出たれば、千鳥の香炉に火の取りたるを、
「これ、紹知」
とて、右の袖より渡せば、紹知うけとり、
「私も懐中候」
とて、左の手より香炉をわたす。休、はなはだ入興(にゅうきょう)せらるると也。
〔ひとこと〕
「かなうは良し、かないたがるは悪しし」(南方録)。師と弟子の心がぴたりと一致する。これほど芸道の世界で美しい瞬間はありません。厳寒の雪の朝、相手を思いやる気持ちが二つの香炉でほこほこと温まる。なんと"真の茶の心"がほとばしる瞬間ではないでしょうか。
■千宗旦
先年、さる人、旦翁へ見舞うたれば、折ふし、茶の湯前にて、僕(しもべ)露地の掃除しつるを、翁のみて、
「あの片隅の蜘の巣ひとつは、そのまま残して仕まえ」
と也。
「古人の風流、今様のたぐいにあらず。感じ侍りぬ」
とかたる。予も是を聞きて、かの兼好法師の、
「何(いずれ)も、事のととのおりたるは、あしきこと也。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、いきのぶるわざ也(『徒然草』第八二段)」
といわれしを、おもいあわせ侍りぬ。
〔ひとこと〕
わびの真骨頂は、ひとつわざと残した「くもの巣」にあらわれる。それは単なる美意識ではなく、"いきのぶるわざ"。すなわち、生命感の発露であるといいます。侘びとは、いのち。言の葉庵、過去のトピックスをご参照ください。
http://bit.ly/gvozaq
■宗恩(利休妻)
一とせ千鳥の香炉千貫に求めて、やや時うつる程、畳に置(す)えてみけるを、休が妻宗恩、
「われにもみせ給え」
とてしばし見て、
「足が一分高うて格好悪しし。きり給え」
という。休、
「われも先ほどより、さおもうなり。玉屋(職人)をよべ」
とて、ついに一分きる也。比の宗恩は、物数寄すぐれて、短檠(たんけい)にむかしは取手の穴なかりしを、はじめて明けさせたる人なり。
〔ひとこと〕
曇りなき"数奇の眼"により、大名物の足をためらいなく斬る、利休後妻の宗恩。この夫にして、この妻ありというべきでしょうか。
『茶話指月集』(平凡社 東洋文庫 昭和47年)
※茶話指月集(さわしげつしゅう)
利休の孫である千宗旦(1578-1658)が、その高弟「宗旦四天王」の一人、藤村庸軒(ふじむらようけん;1613~99)に伝えた逸話を、庸軒の門人で女婿の久須見疎安(くずみそあん;1636~1728)が筆録、編集したもので、庸軒没後の元禄14年(1701)に板行された茶書。
※藪内紹智(やぶのうちじょうち)
茶道藪内流祖、初代 薮中斎 剣仲紹智。1536年、信長の臣藪九十郎禅正の次男として生まれ、のちに藪内宗把の嗣子となる。武野紹鴎のもとで茶の湯を学び、利休とは兄弟弟子。1579年に摂津尼ヶ崎から上京(洛北紫竹村)。利休没後、一時聚楽に出仕するが、晩年は隠居して、茶三昧に入った。
1595年の還暦に、大徳寺 春屋和尚から堂号を認可。このころ下長者町新町西入ル鷹司町の西隣に居を移している。また、利休の媒酌で、古田織部の妹善室を妻にしている。
※千宗旦
1578年(天正6年1月1日)~1658年12月13日(万治元年11月19日)) 父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵。母は利休の娘お亀であり、少庵の京千家を継いだ。千家三代。宗旦流(三千家)の祖。