門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

『山上宗二記』の真実 第一回

2011-01-30 21:32:19 | 茶道
世界の三大聖人といわれる人がいます。
釈迦・キリスト・孔子。

聖人といわれるのは、人類にとって有意義なたった一つの「道」を創始した人。そして、その道で1000年並ぶなき者のない人だけを聖人と呼びます。

日本に限れば、聖徳太子をはじめとして、各仏教創始者、空海・最澄・道元・日蓮・親鸞などが、「上人」すなわち聖人と位置づけられる。
文化・芸術の分野では、中世の世阿弥・千利休、江戸期の芭蕉などが、それぞれの分野で”聖なる創世者”として今日なお賞賛・追慕されているのです。

今回は「茶聖」とよばれる、千利休のある弟子についてその足跡をたどっていこうと思う。

山上宗二。
戦国期、泉州堺の茶人。今日、千利休の一番弟子と目される人物。
後世、”利休七哲”と称される者たちは、みな大名武将。ひとり宗二のみが、利休と同じ卑しい町人出身でした。織部・遠州など、華やかな「大名茶」の系列とはおよそ無縁な”侘び茶”に命をかけた茶人。

天正18年(1590年)、宗二は権力者秀吉に逆らい、悲惨な最期をとげる。奇しくもその1年後、師も同様に弟子の跡を追うこととなりました。

さて、釈迦も孔子もキリストも、自らの教義を自分自身一文も書き残すことはありませんでした。聖書・論語・仏教経典は、すべてその弟子たちにより師の教えを後世に伝えんと書き綴り残された記録です。

創始者はなにゆえ自らの教えを文章にしなかったのか。理由は明白。みな激動の時代に生き、教えを日々実践し、人を接化することに己の時間すべて投入し、のんびりと宿で腰を落ち着け、筆を降ろすいとまがなかったからなのです。

利休も自ら「侘び茶」の伝書をしたためることはなかった。しかし、その弟子、山上宗二は日々の師の教え、一言一句を聞き漏らすことなくすべてを己の頭と心に叩き込んでいたのでしょう。

天正18年、最後の逃げ場であった北条小田原への秀吉の圧迫は日に日にのっぴきならぬ状況となっていく。宗二は、師利休の教えが我身とともにこの世から永遠に消え去ってしまうことを自身の命が消え去ることよりも深く怖れた。そして、せめて弟子たちへ、師の教えを是が非でも残そうと筆をふるう。
それが利休流茶道、唯一かつ最高の伝書とされる『山上宗二記』です。

今回より、利休茶道の伝書『山上宗二記』、その要所々々を読解していきたいと思います。
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能と物語文学・伝説 「邯鄲」第四回

2011-01-28 22:15:20 | 能狂言
「枕中記より」作曲された能「邯鄲」をご案内します。能とは思えない"アクロバティック"な体技、舞台の圧縮・展開・暗喩等、能の象徴的な演出法を総動員した作劇には、現代の作家・演出家も学ぶものが多い不朽の名作です。

●能『邯鄲』

別称 「邯鄲枕」/「盧生」
作者 世阿弥元清
曲柄 四番目(略初能)
季節 不定
場所 支那国河北省大名道邯鄲の里
シテ 盧生 (面:邯鄲男。黒頭、厚板唐織・半切法被、掛絡、水晶数珠、唐団扇)
ワキ 勅使 (厚板、白大口、側次、男扇)
ワキツレ 大臣 三人/與丁
小方 舞童 (金風折烏帽子、紅入縫箔、白大口、長絹、童扇)
間狂言 宿の女主
作物 一畳台・引立大宮 枕


●あらすじ

蜀の国の盧生という若者が、楚国羊飛山の聖僧から悟道の教えを受けんと思い立ち、旅の途中、邯鄲の里に立ち寄る。この里の宿で女主より、奇特な「邯鄲の枕」を借り一睡してみた。
そうしたところ楚王の勅使が迎えに来、宮殿へと伴う。国王より王位を譲られ栄華のうちに五十年過ごすこととなる。ある日臣下が千年の齢を保つ仙薬の杯を奉げたので酒宴を催し、自らも興じて楽を奏していたところ、件の宿の主に起こされて、夢はたちまち失せる。覚めてみると、それはわずか粟の粥を炊ぐ間の儚い夢に過ぎなかったのである。
かくして盧生は、なにごとも夢の浮世と悟り、この枕こそ善知識、と感謝し帰国するのであった。

●主題

悩める青年、盧生。一生あくせく働き続け、貧乏に耐え続けること。あるいは出世し、栄達を極め、富貴な身に生涯贅沢わがまま三昧をして暮らすこと。人としていずれが本当の幸せか。人として生まれたからには何をすべきか、そもそも自分は何のために生まれてきたのか…。それは必ずしも若者だけの悩みとはいえまい。老若男女、古今東西を問わず、人として生まれたものすべてがもつ迷い、煩悩である。能『邯鄲』はまた、私たちに夢と現実の境界のあいまいさをも鋭く問いかける。きわめて現代的、かつ普遍的なテーマをもつ「名作」といえるのではないか。

●特殊な演出(邯鄲の仕掛け)

1.中国(唐)風の演出 →女主の側次、唐団扇、黒頭
2. 一畳台・引立大宮と枕の扱い →邯鄲の里のひなびた宿が、豪壮な宮殿に一変する。枕のある/なし、が合図。
3.子方の舞とシテの舞の対比
4. 一畳台中のシテの”楽”+特殊な型「空下り」
5.夢の中の登場人物が退場→シテの一畳台への「飛び込み」の型
(軽業師、曲芸師の空中浮遊技)
6.数百曲ある能の中で、唯一シテが”寝そべる型”をする
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能と物語文学・伝説 「邯鄲」第三回

2011-01-23 21:28:30 | 能狂言
今回は、「太平記」と芥川龍之介「黄粱夢」をご紹介します。


●太平記巻第二十五
自伊勢進宝剣事付黄粱夢事


富貴を求める一人の男がいた。楚の国王が賢才の臣を募集していると聞き、御爵(おんしゃく)を貪らんがため、男はただちに楚に赴いた。
道中、歩きくたびれ、邯鄲(かんたん:河北省成安県)の旅亭にしばしの休息を取った。そこにいあわせた呂洞賓(りょとうびん)という仙術使いがこの男の心中を暗に悟り、富貴の夢を見ることのできる枕を貸し与える。男はさっそくその枕を使って一睡してみた。
その時見た夢は・・・。

楚侯の勅使がやってきて、男を宮中に招く。その礼といい贈り物といい、大変なものである。男は喜んで楚侯の宮廷に赴いた。楚侯は男に席を近づけ、政道や武略について様々下問。男がそれに答えるたびに、同席の諸卿らは深くうなずいて同意を表わす。楚侯は男の才能を高く評価し、彼を閣僚に抜擢した。

それから三十年間、男は楚国において大活躍、楚侯はこの世を去るまぎわ、その長女を男の妻として与える。その後は、侍従やしもべに囲まれ、好衣珍膳、心にかなわずという事は何も無く、目を悦ばさざるという事は一切無い。座上には客が常に満ち、樽中には酒空しからず。楽しみは身に余り、遊興に日を尽くして五十一年、夫人は一人の男子を産む。
楚侯には位を継ぐべき男子が無く、孫が出生したので、公卿大臣皆相はかり、男を楚の国王と成した。周辺の民族らもみな帰服し、諸侯らがこぞって男のもとに来朝してくる様は、まさに、秦の始皇帝が戦国の六国を併合し、漢の文帝・景帝が九つの民族を従えたのと同様である。

やがて太子三歳の誕生日を迎え、洞庭湖の波上に三千余隻の舟を並べ、数百万人の賓客を集めて、三年三ヵ月にわたっての遊楽を行った。
赤褐色の髭の老将は錦の艫綱(ともづな)を解き、青い眉の美女らは舟漕ぎ歌を歌う。大梵天王(だいぼんてんのう)の宮殿の花も、帝釈天の宮殿の月も、見るに足らず、もてあそぶに足らず、遊び戯れ舞い歌いて、三年三ヵ月の歓楽がついに終わりを告げたその時、かの三歳の太子を抱いて船端に立っていた夫人は誤って足を踏み外し、太子もろとも海底に落ちてしまった。
数万の侍臣があわてふためき、一同に「あれよあれよ」と叫ぶ声に、男の夢はたちまち破れたのである。

つらつら夢中の楽しみの継続した時間を計ってみるに、君主の位にあった期間は五十年、しかし、枕の上で眠っていた時間はあまりにも短い。昼の眠りにつく前に、宿の主が蒸し始めた黄梁は、男が夢から醒めた時、まだ蒸し上がってはいなかった。
男は悟る。人間百年の楽しみも、みな枕頭片時の夢に過ぎぬという事を。彼は楚へ行くことを止め、たちまち身を捨てて世を避ける人となり、ついに名利に繋縛される心が失せたのである。

これを揚亀山(ようきさん)が「日月に謝する詩」に詠んでいわく、

少年よ 大志を抱け
 怠らず 学び励めよ
人生の得失 それは一片の夢中のもの
 そのようなものに 心動かされるなよ
うそだと思ったら きいてみるがいい
 邯鄲の旅亭において
 枕を欹(そばだ)てて 一睡した旅人に
その歓楽の生の間
 黄梁は幾たび、蒸し終えられたか と

(原文)
少年力学志須張
得失由来一夢長
試問邯鄲欹枕客
人間幾度熟黄梁


●黄粱夢
芥川龍之介

 盧生は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。
 すると枕もとには依然として、道士の呂翁が坐っている。主人の炊いでいた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があってもうすら寒い。
「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を噛みながら、笑みを噛み殺すような顔をして云った。
「ええ」
「夢をみましたろう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」
「何でも大へん長い夢です。始めは清河の崔氏(さいし)の女と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明くる年、進士の試験に及第して、渭南(いなん)の尉(い)になりました。それから、監察御史(かんさつぎょし)や起居舎人(ききょしゃじん)知制誥(ちせいこう)を経て、とんとん拍子に中書門下(ちゅうしょもんか)平章事(へいしょうじ)になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州(かんしゅう)へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤を雪ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令になり、燕国公に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
 呂翁は、得意らしく髭を撫でた。
「では、寵辱(ちょうじょく)の道も窮達(きゅうたつ)の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
 盧生は、じれったそうに呂翁の語を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
 呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。
(青空文庫 芥川龍之介全集2)
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能と物語文学・伝説 「邯鄲」第二回

2011-01-22 11:50:58 | 能狂言
さて、時代と国を超えて人々の心をゆさぶる"邯鄲の夢"。いったい自分はなんのために生まれてきて、この先どうなるのか…、そして何を成し遂げ、あるいは何もなさずに死ぬのであろうか…。

能「邯鄲」の出典、唐の李泌『枕中記』、『太平記』巻第二十五
自伊勢進宝剣事付黄粱夢事、そして芥川龍之介『黄粱夢』をご紹介していきましょう。

●枕中記
李泌作(あらすじ)

唐の玄宗の開元年間のことである。
 
 呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を廬生といった。
 
 やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出でては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
 
 ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。
 位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕えられた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
 「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしておりさえすれば、それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
 廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
 数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。
 
 欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍には呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していたが、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。
「ああ、夢だったのか!」
 呂翁はその彼に笑って言った、
「人生のことは、みんなそんなものさ。」
 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」
 呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。
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能と物語文学・伝説 「邯鄲」第一回

2011-01-20 22:37:23 | 能狂言
今回より、能と、物語文学・民間伝承との関連を考証していくシリーズをスタートします。

第一回は名作能『邯鄲』。
荘子は夢の中でわが身が蝶となった。しかも毎晩その同じ夢を見続けます。こうなってしまうと、目覚めている時の人間の自分が本当の姿なのか、はたまた夢の中の蝶が本当の自分なのか。…わからなくなってしまったといいます。

中国の片田舎から大きな夢を抱いて、都会に出てきた青年が、邯鄲のとある宿で"夢が叶う"不思議な枕を主人から借り受けたことから、この世にも不思議な物語は始まったのです。


●邯鄲の夢(枕)とは

・中国唐の開元年間(713~741)、盧生という貧乏な青年が、趙の都邯鄲で道士呂翁(りょおう)と会い、呂翁が懐中していた、栄華が思いのままになるという不思議な枕を借りた。うたた寝をする間に、50余年の富貴を極めた一生の夢をみることができたが、夢から覚めてみると、宿の亭主が先ほどから炊いていた黄粱(こうりゃん=粟粥)がまだできあがっていなかった、という唐代李泌(りひつ)作『枕中記(ちんちゅうき)』の故事による。

・同じような説話は、すでに六朝時代(222- 589)の干宝の『搜神記』のなかにも見られる。さかのぼれば、中国思想、老荘・道教の説く「無為」や「道」、あるいは不老不死を信奉した神仙思想に端を発する民間伝承がベースとなったものと想像される。
『枕中記』より後のものには唐の李公佐の小説『南柯太守伝』、明の湯顕祖の戯曲『南柯記』が同じ構想のものである。
これらの説話から、栄枯盛衰の極めてはかないことをたとえて「邯鄲の夢」とか「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉が生まれた。また「邯鄲の枕」とも「邯鄲夢の枕」ともいう。ただし中国では「黄粱夢」「黄粱美夢」とよばれている。

・日本では、『太平記』巻二十五「黄粱夢事」に引用される同故事を下敷きとして、能『邯鄲』がつくられたと考えられる。
現代作品では、芥川龍之介が、能『邯鄲』をモチーフにして『黄梁夢』という作品を、また三島由紀夫は『近代能楽集』の中に能『邯鄲』を現代風の戯曲に翻案した作品を書いている。
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