門前の小僧

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日本文化のキーワード第七回「仕舞い」

2018-09-02 11:41:05 | 日本語

今回は、終わりを意味する「お終い」「お仕舞い」について、その語源をたずねていきます。

■「しまい」の意味

今日の日本語「しまい」には、単に終わらせるだけではなく、片づける、始末する、などといったニュアンスを含む、日本語独特の文化・価値観があるようです。
まず辞典で、一般的な語彙をみてみましょう。

しまい【仕舞い・仕舞・終い・粉粧】

〔動詞「しまう」の連用形から〕
① 今までしていたことを終わらせること。 「今日はこれで-にしよう」 「店-」
② 続いているものの最後。一番後ろ。 「 -まで全部読む」 「 -には怒り出す」 「 -風呂」
③ 物がすっかりなくなること。商品が売り切れること。 「お刺身はもうお-になりました」
④ 決まりをつけること。始末。清算。 「其の詮議を傍道からさし出て-のつかぬ内には何となさるるな/歌舞伎・毛抜」
⑤ 遊里で、遊女が客に揚げられること。 「みな一通り盃すみ、此の間に松田屋を-にやる/洒落本・通言総籬」
⑥ 〔「じまい」の形で〕 動詞の未然形に打ち消しの助動詞「ず」の付いた形に付いて、(…しないで)終わってしまったという意を表す。 「行かず-」 「会わず-」
⑦ (「粉粧」とも書く)化粧。 「花嫁の美くしう濃こつてりとお-をした顔/塩原多助一代記 円朝」
(『大辞林 第三版』三省堂)


■日本文化は「しまう」文化

日本語と日本文化には、さまざまな「仕舞い」のかたちがあります。

【能の仕舞】
言の葉庵読者の皆様なら、仕舞いと聞くと、まず能の仕舞をイメージされるかもしれません。
能の仕舞は一曲の見どころ、聞きどころを、シテが紋服姿で扇をもって舞う略式上演形態。
その昔、貴人の要望に応え、能を演じ終わったシテが催しの終わりにアンコールとして舞ったもの、とする説があり、「お仕舞」から終わりを意味する「お仕舞い」が生まれたともいい伝えます。
「しまふ」の言葉が鎌倉~室町時代に成立しており、そこは符合するようです。
一日をきれいに舞い納める―。能の仕舞には、美しくしめくくるというニュアンスがたしかにあります。

【仕舞いの挨拶】
茶道薄茶の点前で、仕舞いの挨拶という決まりごとがあります。薄茶を飲み終え、戻ってきた茶碗に亭主が湯を入れ建水に捨てたタイミングで、正客が「どうぞお仕舞いください」と挨拶する。これで主は次の点前に取り掛かりますが、あ・うんの呼吸できれいに場を納める「仕舞い」の思いを感じ取れます。

【ご供養仕舞い】
仏教では仏壇や位牌を処分することを「ご供養仕舞い」といいます。仏壇は自治体で粗大ごみとして処分できますが、さすがにそうも出来ない時に、僧侶が呼ばれ「ご供養仕舞い」が行われます。
僧により仏壇から魂を抜いてもらう法式を「魂抜き」、または「性根抜き」というそうです。そしてただの家具となった仏壇は専用施設で焼却されますが、これを「お焚き上げ」といいます。

【しもたや】
時代劇などでよく耳にする「しもたや」。漢字で書くと意が通じます。仕舞た屋。京言葉の「しもうた家」のこと。以前は商いをする家であったものが、店をたたみ一般の住まいとして人が住む家をさします。老夫婦が住まう閑かなたたずまいが感じとれる呼び名ではないでしょうか。

日本文化の「仕舞う」には、ただの終わりではなく、きれいに片づけ、整えて、次の新しい命を生み出し、呼び入れていくための知恵が宿っているのです。


■「舞」の字は、「無」から生まれた

「しまい」は、「終い」「仕舞い」と表記します。終いは意味からあてた字ですが、一般的に「仕舞い」を書く場合が多く、もともとこの表記でした。
なぜ終わりを表す文字に「舞」を用いたのでしょうか。漢和辞典【舞】の字解には以下のようにあります。

【舞】ブ/まう
字解 
http://nobunsha.jp/img/tenbun1.jpg
形声。舛(セン)が意符で、まい足のそむきあう意を表し、無(ブ)が音符。一説に象形。もと無がまいの象形字であったが、もっぱら否定詞に借用されたため、まい足の象形、舛を加えて、まいの字にしたという。
(『新漢和辞典』大修館書店)

白川静『常用字解』では、甲骨文字から篆文体にいたる字形の変遷とともに、より詳しく「舞」の字の発祥が語られます。

【舞】
解説 もとの字は舞に作り、無と舛とを組み合わせた形。無は舞う人の形。衣の袖に飾りをつけ、袖をひるがえして舞う人の姿である。無がもっぱら有無の無(ない)の意味に用いられるようになって、舞う時の足の形である舛(左右の足が外に向かって開く形)を加えて舞とし、「まう、まい、おどる」の意味に用いる。無はもと舞雩(ブウ)という雨乞いの祭りで、甲骨文には舞雩のことが多く見える。

⇒舞の字の変遷
http://nobunsha.jp/img/resize0137.jpg
「舞」が衣の袖に飾りをつけて、舞う人の字形であり、「舞」の元字である「無」が雨乞いの祭りをあらわした、と白川は説きます。
ではなぜ、「無」が否定の語として用いられるようになったのでしょうか。


■無いものを求めて、人は舞う

古代より人は、雨を天に乞うて祭り、踊りました。「舞」や「武」の字は、もともと足りないもの、無いものを求める、という根本義があるとする説を紹介しましょう。

「『釈名』に「武は舞なり」という語源説がある。逆に「舞は武なり」も成り立つ。武は「無いものを求める」という
コアイメージがある(1600「武」を見よ)。王力は巫と舞を同源とする(『同源字典』)。藤堂明保は武・巫・舞・無・馬・摸などが同源の単語家族を構成し、「探り求める」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。
miuag(舞)という言葉は巫・武と関係がある。巫(シャーマン)は舞うことによって神に幸いを求める人である。また武は力によってむりやり領土や物(戦利品)を求めようとする行為である。これらの行為の前提をなすのは「無」である。こちらに無いからこそ他から求めようとする。シャーマンは踊ることによって無いものを求める。「おどる」と「ない」が結びついている。「おどる」⇄「ない」は巫という語では可逆的なイメージとなっている。舞と無の関係もこれと同じである。」
(HP常用漢字論―白川漢字学説の検証 http://gaus.livedoor.biz/archives/24403263.html)


■日本人は、ひとさし舞って無へ帰る

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
 (松尾芭蕉 元禄二年)
http://nobunsha.jp/melma/no5_1.html

人は自らの終焉に臨み、辞世の句を詠んで静かにわが生を振り返ります。
そして扇を手に、ひとさし舞って最期に花を添えるもの。これこそ真正の武士と目されたのです。

本能寺の変の時、豊臣秀吉が水攻めをかけたのが毛利方である、備中高松城でした。
城主清水宗治は自らの首とひきかえに、城兵五千の命を救うことを条件として、秀吉との和睦を受け入れました。

最期の朝、巨大な湖に没した高松城より、宗治主従を乗せた小舟が静かに敵陣へ向け漕ぎ出します。
以下本文を、戦時中の初等科国語教科書「ひとさしの舞」よりご紹介しましょう。

いつのまにか、夜は明けはなれてゐた。
 身を淸め、姿を正した宗治は、巳みの刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かつて舟をこぎ出した。五人の部下が、これに從つた。
 向かふからも、檢使の舟がやつて來た。
 二さうの舟は、靜かに近づいて、滿々とたたへた水の上に、舷ふなばたを並べた。
「お役目ごくらうでした。」
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」
 宗治と檢使とは、ことばずくなに挨拶あいさつを取りかはした。
「長い籠城ろうじやうに、さぞお氣づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」
といつて、檢使は、酒さかなを宗治に供へた。
「これはこれは、思ひがけないお志。ゑんりよなくいただきませう。」
主從六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」
といひながら、立ちあがつた。さうして、おもむろに誓願寺せいぐわんじの曲舞くせまひを歌つて、舞ひ始めた。五人も、これに和した。美しくも、嚴かな舞ひ納めであつた。
 舞が終ると、
 浮世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔こけにのこして
と辭世の歌を殘して、みごとに切腹をした。五人の者も、皆そのあとを追つた。
 檢使は、宗治の首を持ち歸つた。秀吉は、それを上座にすゑて、「あつぱれ武士の手本。」といつてほめそやした。


無に帰することを天に祈り、舞い納める日本語の「仕舞う」。
現代人のぼくたちにとって、卒業、定年、終活など人生の節目をむかえるにあたって、忘れてはならないキーワードではないでしょうか。



■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

・第六回 間
http://nobunsha.jp/blog/post_206.html
・第五回 位
http://nobunsha.jp/blog/post_122.html
・第四回 さび
http://nobunsha.jp/blog/post_92.html
・第三回 幽玄
http://nobunsha.jp/blog/post_50.html
・第二回 風狂
http://nobunsha.jp/blog/post_46.html
・第一回 もののあはれ
http://nobunsha.jp/blog/post_42.html

※「侘び」については以下参照
・[目利きと目利かず 第三回]
http://nobunsha.jp/blog/post_25.html
・[目利きと目利かず 第四回]
http://nobunsha.jp/blog/post_28.html


平仮名はいつ日本中に普及したのか

2017-08-26 11:27:33 | 日本語
和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに
(朝日新聞DIGITAL8/25)
http://www.asahi.com/articles/ASK8T52KWK8TUZOB008.html

山梨県甲州市塩山下於曽の平安時代の「ケカチ遺跡」居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかりました。同時期、ひらがなのみの和歌の出土例はなく、仮名の地方伝播最古の例とみられています。
土器に書かれていた平仮名の和歌は以下です。


われによりおも
ひくゝ(または「る」)らむしけい
とのあはすや(み)
なはふくる
はかりそ
※(み)は欠損部分のため推定
(朝日新聞DIGITALより)


上の和歌が刻まれた土器は、都から派遣された官人が、地方の有力者に贈答したものとみられています。しかし内容は、恋歌です。氏族間の婚姻が関連したのでしょうか。
以下、言の葉庵の読み下しと鑑賞例をご紹介してみましょう。

〔読み下し例〕
上句 我により 思ひ括らむ絓糸(しけいと)の
下句 (1)合はず止みなば 更くるばかりぞ
   (2)逢はずや御名は 経くるばかりぞ

〔鑑賞例〕
(1) なんとなくあなたのことが思われて絓糸で刺繍をしています。
 思いが乱れてうまく縫い取れず、柄も合わないので打ち捨ててしまい、布も思いも古びていくばかり。
(2)  なんとなくあなたのことが思われて絓糸で刺繍をしています。
 でも、もうお逢いできないので、あなたの名前も刺繍も古びていくばかりです。


実際の歌意は、(1)と(2)を掛け合わせたものでしょう。
着想を、古今集業平の「千早ふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」から得て、「からくれなゐ」を土器の赤色に見立てて詠んだ、あるいは歌意にあわせて土を選び焼かせたものと思われます。わが身と引き比べ、業平の東国下りを歌の背景に借りたのかもしれません。


(水野聡/能文社)


【日本文化のキーワード】第六回 間

2017-02-25 19:34:38 | 日本語
言の葉庵HP開設時より続くコラム「日本文化のキーワード」、今回第六回目は、「間」を取り上げました。

間抜け、間が悪い、間に合う、間がもたない、間延びする、間合い…。
普段よく耳にする、「間」ということば。ぼくたちがなにげなく使っている、この「間」が、実は日本人の生活、文化、芸術と密接にかかわり、日本文化の基底となる重要なキーワードなのです。

今回は、「間」が生まれた歴史的背景から、今日の定義、役割、実用例までを網羅し、日本人ならではのものの感じ方や美意識、価値観の根源をたどっていきたいと思います。


■「間」の歴史と定義

まずは現代の辞書の定義。『広辞苑』では以下のように説明されています。

【間】(ま)
1.物と物、または事と事のあいだ。あい。ア.あいだの空間。イ.あいだの時間。
2.長さの単位。ア.家など、建物の柱と柱のあいだ。けん。イ.畳の寸法にいう語。
3.家の内部で、屏風・ふすまなどによって仕切られたところ。ア.へや。イ.坪。ウ.へやの数を数える語。
4.日本の音楽や踊りで、所期のリズムを生むための休拍や句と句との間隔。転じて、全体のリズム感。
5.芝居で、余韻を残すために台詞と台詞の間に置く無言の時間。
6.ほどよいころあい。おり。しおどき。機会。めぐりあわせ。
7.その場の様子。具合。ばつ。
8.船の泊まる所。ふながかり。

これを文化論、美学の見地からみていくと、大きく3つに統合、整理されるという考察があります。

1.時の間
(時間・昼間・間食・間断なく・間が悪い・間髪を入れず…など)
2.距離や面の間
(空間・間隔・間口・中間・広間…など)
3.そのどちらでもない、得体のしれない間
(世間・間者・人間…など)

(『間の美学 ―日本的表現』末利光 三省堂選書1991/6)


「間」は、人と人、物と物のあいだに存在し、それらを媒介しつなぐものだといえそうです。
しかし、あいだにあるものだとはいっても、何もない空白ではなく、そこには豊潤な意味や価値が生成する、と捉える美学的な見地があります。

「間」に関する代表的な研究書、南博の『間の研究 ―日本人の美的表現』(講談社 1983)では、
「間の美意識は、時間的・空間的に切断した場合の一定の距離感によって成立する。……間は、時間的・空間的に切断された距離感が、独特の断絶によって創出された、時間でも空間でもない美意識である」
としています。このいわば“切り取られた美”を、同著に所収された『おどりのリズムと間』で、石黒節子は、次のように詩的に表現しています。

「リズム(Rhythm)という言葉はギリシア語のrheein(流れる)に由来する。一方、間(ま)という言葉はそもそも門と月という字から成り、門のとびらのすきまから月が見える様子を表す。そこからすきまとかあいだの意味を表す」

南博氏の考察に戻ると、「間」は日本人に独特の文化であるということ、そしてそれは日本人の生活意識の中で必然的に形成されていったものだ、と指摘しています。
以下、同著の論旨を箇条書きで要約しましょう。

【日本人独特の文化】
・間の文化は、〔不足主義〕〔充足主義〕という対立概念であらわされる。
・仏教が日本で普及することにより、無常観にともなって〔不足主義〕が成立。『徒然草』などの世界観が生まれる。
・芸術意識としての〔余剰〕〔余韻〕〔余白〕などの美が確立する。
・音楽や舞踏・演劇の間、武道の間などと結びついていく。
・それらが宗教から分離・独立することで、日本文化としての「間」や、生活文化としての「間」が成立した。

【日本人の生活意識の中で形成】
・日本人の生活意識の中で、対人関係・心理的な距離が関係性の調整に重要であった。
・位置取りや距離の置き方をあらわす「間」は、「程」という言葉であらわされた。
・「程がよい」は、「間がよい」ということとなる。


■中世芸道にみる「間」

何もないはずの空白、「間」に美的意識や社会的価値を積極的に見出してきた、ぼくたち日本民族。
以下、各分野より「間」の実践例をみながら、そのリアルな姿を浮き彫りにしていきます。
まず、剣聖宮本武蔵の『五輪書』より、兵法における「間」の極意に触れましょう。

「兵法のはやきといふ所、実の道にあらず。
はやきといふ事は、物毎の拍子の間にあはざるによつて、
はやきおそきといふ心也。

其道上手になりては、はやく見ヘざる物也。
たとへば、人にはや道といひて、四十五十里行くものもあり。
是も、朝より晩まで、はやくはしるにてはなし。

道のふかんなるものは、一日はしるやうなれども、はかゆかざるもの也。
乱舞の道に、上手のうたふ謡に、下手のつけてうたへば、
おくるゝこゝろありて、いそがしきもの也。

又、鼓・太鼓に老松をうつに、静なる位なれ共、
下手は、是にもおくれ、さきだつ心あり。

高砂は、きうなるくらいなれども、はやきといふ事、悪しし。
はやきはこける、といひて、間にあはず。勿論、おそきも悪しし。
是も上手のする事は、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。

諸事しつけたるものゝする事は、いそがしく見ヘざる物也。
此たとへをもつて、道の理をしるべし。」
(『五輪書』渡辺一郎校注 岩波文庫1991)

剣の道において、はやきこと、すなわち鋭い太刀筋は必要ない、と武蔵はいいます。
むしろ名人の技は、ゆるゆるとみえて、決して間が抜けない。「間に合う」ことが勝負を制する道であるとしているのです。
ここで武蔵は能の謡と囃子を例に取り上げていますが、能の大成者世阿弥は「間」をどのように体得したのでしょうか。

「見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手の秘する所の案心なり。まづ二曲を初めとして、立ち働き・物真似の種々、ことごとくみな身になすわざなり。せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物真似、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして用心をもつ内心なり。
 この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと他に見えて悪かるべし。もし見えば、それはわざになるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。」
(【言の葉庵】名言名句 第二十四回 花鏡 せぬ隙が面白き)

「せぬ隙」とは何もしないことではなく、無心の位に至り、「せぬ隙」の前後、すなわち万能(舞台にいる間の演技のすべて)を一心につなぐことである、と世阿弥は教えます。謡を切った間、舞い留めた間に演者の内面の充実が外に匂い出て、能の美があらわれるのです。


■近・現代の名人の「間」

近代、現代の舞台芸能については、名人の音源や映像の記録データが残っており、その無音・無動の“せぬ隙”に接することができます。
ここでは能、歌舞伎、落語の名人が考える「間」、実際の「間」を再現してみましょう。

まずは、能楽小鼓方、不世出の名手とたたえられた幸祥光の芸談より。

「観世(寿夫) なんでもそうでしょうけれど、特に能はやっぱり間のいい人でなければだめでしょうね。
幸(祥光) そうですね。間というのは教えても出来ない。ここはいくつですよ、なんていったって、それは誰だってわかるんだから。人にもよるんだけれど、教えなくても出来る人、教えても出来ない人、そこですよ、そこの違いですよ」
(『能と狂言の世界』平凡社 昭和四十七年)

分野を問わず、芸道上「間」は教えられるものではないようで、六代目尾上菊五郎にも、次のような言葉がありました。

「教へて出来る間は間(あひだ)と云ふ字を書く。教へて出来ない間は魔の字を書く。私は教へて出来る間を教へるから、それなら先の教へやうのない魔の方は、自分の力で索りあてることが肝腎だ」
(『芸』尾上菊五郎 改造社 昭和26年)

名人の「間」を目に見えるようにデータ化したものがあります。
落語家、五代目古今亭志ん生の音源を解析して波形化した図です。

・古今亭志ん生の落語音声波形化図
http://nobunsha.jp/img/resize0102.jpg


上の図が、古今亭志ん生、下が三遊亭圓生、それぞれ〈牡丹灯籠〉の同じ部分の音声波形です。下記参照ページより部分引用しました。
この形を見るだけで、あたかも名人の「間」を耳で聞いているように感じられるではありませんか。

▽参照ページ
五代目古今亭志ん生さんにおける「間」の研究
http://yojiarata.exblog.jp/17178243/


■日本画の「間」

日本の美術については、そのほとんどが「間」の芸術といっても過言ではありません。
長谷川等伯の〈松林図〉を筆頭として、尾形光琳〈紅白梅図屏風〉、〈燕子花図屏風〉、さらに様々な水墨画・山水画、〈龍安寺石庭〉などの枯山水の庭…。
これらの作品は、描かれた対象ではなく、その「間」を埋める金箔や白砂に日本の美と生命が息づいているのではないでしょうか。

日本画の「間」の美については、下記ページに概説があります。

▽参照ページ
日本美の再考 ―間の美術とイメージ
http://kinbi.pref.niigata.lg.jp/pdf/kenkyu/1998/98tikaato.pdf#search=%27%E9%96%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%27



■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

・第五回 位
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・第四回 さび
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・第三回 幽玄
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・第二回 風狂
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・第一回 もののあはれ
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※「侘び」については以下参照
・[目利きと目利かず 第三回]
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・[目利きと目利かず 第四回]
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日本語力の危機〔人間はAIに勝てるのか〕

2016-04-01 17:46:36 | 日本語
【言の葉庵】メールマガジンNo.85発刊しました!
http://archives.mag2.com/0000281486/

0000281486 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ 名言名句マガジン【言の葉庵】
┓┏ ┏┳┓
┣┫OW┃O        未来は子どもたちの読解力が創る 2016.4.1
┛┗━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

官民あげてAIの開発が急ピッチで進みます。今回日本語ジャングルでは、人工知能の研究があぶり出した、現代日本人の文章読解力の危機をとりあげました。
今街で山で、桜が満開です。能舞台でも年に一度、幽玄の花がその美を競い合っています。4月の全国「桜の能」スケジュールをピックアップしてご案内。

…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】日本語ジャングル     日本語力の危機〔人間はAIに勝てるのか〕
【2】イベント情報                    2016年桜の能

編集後記…
……………………………………………………………………………………………

言の葉庵メルマガNo.75本日発刊しました!

2015-07-03 19:30:53 | 日本語
朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。【言の葉庵】No.75


今回の名言名句は、孔子『論語』を代表する究極の名言。朝真理を悟れば、そ
の日のうちに死んでも何ら悔いはない…。貞観政要を読む、第三回は太宗を支
えた三人の賢臣の横顔をご紹介します。現在公開中、能のドキュメンタリー映
画『踊る旅人』。佐渡へ、身延山へ、バリ島へ…。能が世界の文化、芸術と魂
の交感をする旅をつづります。


【1】名言名句 第五十二回        孔子『論語』朝に道を聞かば
【2】貞観政要を読む 第三回         唐帝国を創業した賢人伝
【3】イベント情報         能ドキュメンタリー映画「踊る旅人」

編集後記…


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【1】名言名句 第五十二回        孔子『論語』朝に道を聞かば
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朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。~孔子『論語』里仁篇


〈原文〉
子曰、朝聞道、夕死可矣。

〈読み〉
しいわく、あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり。

〈読解〉
先生はおっしゃった、
「朝真理を聞くことができれば、その日の夕方死んだとしても悔いはない」と。


人は何のために生まれ、どのように生きていけばよいのか。
「朝聞道、夕死可矣」のたった七文字に言い尽くされた、孔子の名言です。

あまりに短い、この句の解釈には古来より2つの説がありました。
それは孔子の「道」をどのように読むかの違いです。

一つ目は、『論語』の〔古注〕で示された見解。魏の何晏等による解釈では、
孔子の生きた時代背景をもとに「道」を「王道」と考えました。
孔子が生まれた春秋時代は、周王朝の後期、東周にあたり、王室は形骸化して
小国が分裂・乱立。
国王に力も徳もなく、家臣は主君を弑し、乱れに乱れた時代でした。
暗黒の時代に生まれ落ちた孔子は、学問を追求し、仁(人類愛)と礼(社会秩序)
をもととした、徳により治められる理想国家の実現を目指したのです。

これが、孔子の目指した「道」。すなわち、
「朝、天下に正道が行われていることを聞けたなら、私は思い残すことなくそ
の日死んでもよい」
と、死期の迫った老孔子が弟子たちに漏らした嘆きである、と〔古注〕では考
えました。

※続きこちら↓
http://archive.mag2.com/0000281486/index.html