門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

5/19禅と日本文化講座あります。

2018-05-18 22:05:04 | 
明日、5/19(土)13:30-15:30
日本文化体験交流塾(港区芝)にて、集中研修シリーズ
「禅と中世日本文化アドバンス」第一回、禅と日本文化総論の
講座を開講します。

禅とは何か、悟りを開くとは。
中国から日本に伝わった禅宗の歴史とその教義の根本を
超初心者目線で、面白くわかりやすく案内する、
「日本一わかりやすい」禅入門講座としました。
図版や、画像も多用し、達磨の悟りの本質をダイレクトに
感じ取れるような構成を企画しました。
当日参加も可能ですので下記URLをぜひご参照ください。

日本文化体験交流塾
シリーズ研修2018年5月「禅と中世日本文化アドバンス」
https://www.ijcee.jp/culture/mizuno-lectureadvance/
(講師:水野聡 能文社)

※画像は禅の第六祖慧能の1300年前の姿をとどめる即身成仏。
中国広東省南華寺に今もそのまま祀られている。
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5/17千利休侘茶の世界、5/19禅と日本文化アドバンス

2018-05-13 08:42:05 | カルチャー講座
今週の木曜日と土曜日に、茶道と禅の文化史講座が
それぞれ開講されます。
http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf
講師、水野聡(能文社/古典翻訳家)。
ぜひご参加ください!

5/17(木)10:30-12:00
よみうりカルチャー恵比寿
千利休と侘び茶の世界 ~山上宗二記を読む~
第二回 序~侘茶の誕生
・山上宗二記の正月本と二月本、写本の差異の検証。侘び茶創成期の名茶人たち。

5/19(土) 13:30-15:30
日本文化体験交流塾
禅と中世日本文化 アドバンス
第一回 禅と日本文化総論
・ZENが海外に広く伝えたNIPPONの姿。日本臨済宗、曹洞宗の系譜。達磨の四聖句とは。
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歩く四書五経、谷那律

2018-05-10 20:55:38 | 
諫言とはこのように行う、お手本です。

谷那律(こくなりつ) が諫儀大夫となった。
ある日、太宗の狩猟の供をしたが、途次にわか雨にあう。

太宗が尋ねた。

「雨具の油衣は、どうすれば雨がしみ込まぬようにできるだろうか」

谷那律が答える。
「瓦でお作りになれば、もはやしみ込むことはございません
(狩に呆けず、瓦を葺いた宮殿に居れば、雨に濡れることも、治政の問題も起きない、とのたとえ)。」

その心は太宗の狩猟を控えさせんとするものであった。太宗はその言を深く理解し、大いに喜んだ。
すなわち絹二百反を下賜し、加えて黄金の帯一筋も与えた。

(『貞観政要 下』能文社2012 巻十論佃猟)

谷那律は太宗の家臣。
博学のため褚襚良から「九経庫」とあだ名されたほどの第一級の知識人である。
諫儀大夫、弘文館学士を拝命。しかし『貞観政要』中、彼の名がみえるのは全数百編の中、
この一箇所のみである。
太宗の側近にいかに綺羅星のごとく人材がひしめいていたかがわかろう。
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文京アカデミー「千利休の侘び茶の世界」茶の湯の歴史

2018-05-06 18:53:07 | カルチャー講座
明日、5/7(月)13:30より、文京アカデミーにて新講座
「千利休の侘び茶の世界」
第一回茶の湯のはじまり~茶道の歴史と意味
http://www.b-academy.jp/manabi/detail?id=12864
が開講されます。

奈良時代、行基による茶の植樹からはじまり、
鎌倉時代、栄西と道元による禅院茶礼の制定、
大応国師、夢窓疎石らによる台子の茶の創始、
室町時代、能阿弥の書院台子、村田珠光による侘び茶の考案など、
千利休にいたるまでの、わが国茶の湯の歩みを概観します。

闘茶、茶寄合、喫茶の亭、淋汗茶の湯など…。
現代の茶の湯にいたる、ありし日の茶の湯の姿を、
喫茶養生記、太平記、祭礼絵草子などの歴史資料を
ひもときながら再現していきましょう。
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言の葉庵 名言名句第六十一回「仇をば恩で報うなり」

2018-05-03 19:38:11 | 名言名句

仇をば恩で報うなり。
~敦盛『源平盛衰記』巻第三十八「平家公達最後並頸掛共一谷事」


源平盛衰記に留める、敦盛最期の思いを伝えた言葉です。

「仇を恩で報う」

今日、対義的な「恩をあだで返す」が一般によく知られていますが、「自分がこうむった恨みを、恩として返す」ことに、わりなさを感じられる方も多いのではないでしょうか。
そもそも仏教の報恩とは、仏や父母など自分が恩を受けた相手に対し、感謝して恩を返していくこと。

孔子も論語で、
「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(憲問第十四、三十六)
と述べ、怨みには正しく対応(返報)しなければならない、としています。
「仇に恩で報いる」思想は、仏教でも儒教でもなく、実は老子です。

「怨みに報ゆるに、徳を以てす」(『老子』六三)

孔子の考える君子とは、義と礼に従い、社会秩序を守るため、仇に対して正当に処置していくことを求めます。
かたや老子が考える徳をもつ人とは、
「上徳は無為にして、而して以て為にする無し」(同三八)。
すなわち何事にもとらわれず、執着しない人は、そもそも怨みを感じることはなく、自分に敵対する人へも平等に徳をもって接していける、とするのです。

「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしはいう。敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)

仇に対し恩で報う思想は、神の下、平等と友愛を説くキリスト教の教えに、むしろ近いのかもしれません。
「目には目を」と、仇に報復することで、それは無限に繰り返されてしまいます。まず敵をつくった遠因は自分自身にあり、とし、この悪しき連鎖を断ち切ろうとする「仇をば恩で報うなり」は、宗教や人種を超えた人類の叡智ではないでしょうか。

悲劇の主人公敦盛と、坂東武者熊谷次郎直実の邂逅と、心理的な葛藤がいきいきと伝えられる、『源平盛衰記』の一段を以下現代語訳にてご紹介します。


………………………………………………………………………………


■平家の公達が首を討たれ、最期を遂げた一の谷

修理の大夫経盛の子、若狭守経俊は、兵庫の浦まで落ち延びたが、源氏方邦和太郎に討ち取られてしまう。

同じく経盛の末子が、無官の大夫と呼ばれる敦盛であった。
紺の錦の直垂に、萌黄おどしの鎧をつけ、白星を打った甲の軍装である。背には滋籐弓と、護田鳥尾の矢を十八差して、鵇毛の馬に乗る。そしてただ一騎、沖の大将船を目指して、一町ほど浮きつ沈みつ漂っていたのだ。

さて、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実は、この時よき敵を探しつつ、須磨の浦に立って東西を伺っていた。敦盛の姿を見かけるや、馬をざんぶと海へ打ちいらせる。大将軍と見当をつけ、体面もなく海に飛び込んだのであった。

「戻せや、戻せ。かくいうは、日本一のつわもの、熊谷次郎直実である」
と呼びかけたところ、敦盛は何を思ったものか、馬の面を引き返し、渚に向かって泳がせてくる。馬の脚が立ったあたりで、弓矢を投げ捨て、刀を抜き、額に当てて声を上げ向かってきたのだ。
熊谷これを待ち受けて、浜に上がる暇も与えず、波を蹴立てて馬同士を駆け並ばせる。

馬上で取り組むや、二人は波打ち際にどうと落ちた。上になり、下になり、二度三度と転がるうちに、敦盛は若輩、熊谷は熟練のつわものであったゆえ、ついに上になり、左右の膝で敦盛のかぶとの袖をむずと押さえつけた。敦盛は身動きもならず。
熊谷、腰の刀を抜き、まさに首をかかんと甲のうちを見てみれば、十五、六の貴公子である。
薄化粧にお歯黒をつけ、にこりと笑った。
熊谷は、なんと無残な、これも弓矢取る身の運命か。かほどに若く、上品な貴人のいったいどこに刀を突き立てられよう、と心をくじかれるのである。

「はて、あなたはどなたの御子であろうか」
と聞くと、
「さあ、早く斬れ」
という。
「あなたを斬って雑兵の中に捨て置くこともできませぬ。素性も知れぬ東国の野蛮な者とて、名乗ろうとされぬか。それも由あることなれど、われにも一存あっておたずね申すのです」
といった。
敦盛は思う。名乗ろうが、名乗るまいが、ここは逃れられまい。しかるに、この者の一存とは、恩賞のためわれの名を知りたいのであろう。組むも、切るも前世の縁。仇を恩で報うもの。されば名乗らん、と、
「なんじに一存があるならば、いって聞かせよう。これは、故太政入道の弟、修理大夫経盛の末子、いまだ無官ゆえ、無官の大夫と呼ばれる平敦盛、生年十六である」
と告げたのだ。

これを聞き、熊谷ははらはらと落涙した。なんと悲しきことであろうか。わが息、小次郎と同年とは。なるほど、その年頃に違いあるまい。
たとえ無情な者であろうとも、わが子への愛は格別なもの。もしてやこれほどたとえようもなく貴い子を失っては、父母も悶え焦がれんことの哀れさよ。
とりわけ小次郎と同年と聞けば、なんともいとおしく助けてさしあげたい。
その上、御心も勇敢な方。日本一のつわもの、と名乗っても、落ち武者の身にして、しかも幼若にもかかわらず取って返した。これは大将軍の器である。しかしこれは義経公の戦。なんとも惜しい命、いかにせん、と思いわずらいためらうところへ、前にも後ろにも武者どもは組んでは落ち、次々と敵を捕らえている。
その中で、熊谷は一の谷でまさに組み押さえた敵を逃がし、人に獲られたと噂がたてば、子孫にとって弓矢の名折れとなろう、と思い返した。

「どうにかお助けしたいと思うのだが、源氏の兵はもはやこの地に満ち溢れております。とても逃れられる身にあらず。
あなたのご菩提はこの直実がよくよくお弔い申そう。草葉の陰でご覧じられよ。ゆめゆめ粗略にはいたしますまい」
と、目をつむり、歯を食いしばり、涙を流してその首を掻き落としたのだ。

無残というも愚かなり。敦盛は死を恐れず、あきらめず、幼少の身ながらまったく凡庸の器ではなかった。平家の人々は討たれるその時までも風流な心を失わなかったのだ。
敦盛はこの殿軍の陣中でも合間に吹かんと思ったのであろう、古色もうるわしい漢竹の笛を、香を留めた錦の袋に入れ、鎧の引き合いに差して携えていた。

熊谷はこれを見つけると、ああ、惜しいこと、このたびも城中で今朝がたも楽の音が聞こえていたのは、この人であったのか。源氏の軍兵は東国より数万騎上ってきたが、笛を吹く者は一人もいない。なぜ平家の公達は、かくも優雅なのであろうか、と涙を流して去っていった。

そもそもかの笛は、笛の上手であった父経盛が作らせたもの。砂金百両を宋に送り、上等な漢竹を一枝取り寄せ、節と節との間の最上質な部分を切り取らせた。
天台座主、前の明雲僧正に命じ、秘密瑜伽壇にこれを立てて、七日間の加持祈祷を行い、秘蔵して彫らせた逸物である。子どもたちの中では、敦盛が器量の者である、と七歳にして授けられたという。夜が更ければ更けるほど音色が冴えたゆえ、さえだ(小枝)と名付けられたのだ。

熊谷は、この笛と敦盛の首を手に捧げ持ち、子息小次郎を訪ねていった。
「これを見よ。修理大夫の御子で、無官大夫敦盛というお方だ。
生年十六と名乗られたゆえ、お助けしたいと思ったものの、なんじらの弓矢の末を案じ、かくも憂き目を見ることとなってしまった。もしもこの直実が亡き者となろうとも、誓って後世を弔わねばならぬぞ」

このようにいい含めた後、熊谷は発心し、以降弓矢を捨ててしまうのである。


(現代語訳 水野聡 2018年5月)



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