仇をば恩で報うなり。
~敦盛『源平盛衰記』巻第三十八「平家公達最後並頸掛共一谷事」
源平盛衰記に留める、敦盛最期の思いを伝えた言葉です。
「仇を恩で報う」
今日、対義的な「恩をあだで返す」が一般によく知られていますが、「自分がこうむった恨みを、恩として返す」ことに、わりなさを感じられる方も多いのではないでしょうか。
そもそも仏教の報恩とは、仏や父母など自分が恩を受けた相手に対し、感謝して恩を返していくこと。
孔子も論語で、
「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(憲問第十四、三十六)
と述べ、怨みには正しく対応(返報)しなければならない、としています。
「仇に恩で報いる」思想は、仏教でも儒教でもなく、実は老子です。
「怨みに報ゆるに、徳を以てす」(『老子』六三)
孔子の考える君子とは、義と礼に従い、社会秩序を守るため、仇に対して正当に処置していくことを求めます。
かたや老子が考える徳をもつ人とは、
「上徳は無為にして、而して以て為にする無し」(同三八)。
すなわち何事にもとらわれず、執着しない人は、そもそも怨みを感じることはなく、自分に敵対する人へも平等に徳をもって接していける、とするのです。
「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしはいう。敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)
仇に対し恩で報う思想は、神の下、平等と友愛を説くキリスト教の教えに、むしろ近いのかもしれません。
「目には目を」と、仇に報復することで、それは無限に繰り返されてしまいます。まず敵をつくった遠因は自分自身にあり、とし、この悪しき連鎖を断ち切ろうとする「仇をば恩で報うなり」は、宗教や人種を超えた人類の叡智ではないでしょうか。
悲劇の主人公敦盛と、坂東武者熊谷次郎直実の邂逅と、心理的な葛藤がいきいきと伝えられる、『源平盛衰記』の一段を以下現代語訳にてご紹介します。
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■平家の公達が首を討たれ、最期を遂げた一の谷
修理の大夫経盛の子、若狭守経俊は、兵庫の浦まで落ち延びたが、源氏方邦和太郎に討ち取られてしまう。
同じく経盛の末子が、無官の大夫と呼ばれる敦盛であった。
紺の錦の直垂に、萌黄おどしの鎧をつけ、白星を打った甲の軍装である。背には滋籐弓と、護田鳥尾の矢を十八差して、鵇毛の馬に乗る。そしてただ一騎、沖の大将船を目指して、一町ほど浮きつ沈みつ漂っていたのだ。
さて、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実は、この時よき敵を探しつつ、須磨の浦に立って東西を伺っていた。敦盛の姿を見かけるや、馬をざんぶと海へ打ちいらせる。大将軍と見当をつけ、体面もなく海に飛び込んだのであった。
「戻せや、戻せ。かくいうは、日本一のつわもの、熊谷次郎直実である」
と呼びかけたところ、敦盛は何を思ったものか、馬の面を引き返し、渚に向かって泳がせてくる。馬の脚が立ったあたりで、弓矢を投げ捨て、刀を抜き、額に当てて声を上げ向かってきたのだ。
熊谷これを待ち受けて、浜に上がる暇も与えず、波を蹴立てて馬同士を駆け並ばせる。
馬上で取り組むや、二人は波打ち際にどうと落ちた。上になり、下になり、二度三度と転がるうちに、敦盛は若輩、熊谷は熟練のつわものであったゆえ、ついに上になり、左右の膝で敦盛のかぶとの袖をむずと押さえつけた。敦盛は身動きもならず。
熊谷、腰の刀を抜き、まさに首をかかんと甲のうちを見てみれば、十五、六の貴公子である。
薄化粧にお歯黒をつけ、にこりと笑った。
熊谷は、なんと無残な、これも弓矢取る身の運命か。かほどに若く、上品な貴人のいったいどこに刀を突き立てられよう、と心をくじかれるのである。
「はて、あなたはどなたの御子であろうか」
と聞くと、
「さあ、早く斬れ」
という。
「あなたを斬って雑兵の中に捨て置くこともできませぬ。素性も知れぬ東国の野蛮な者とて、名乗ろうとされぬか。それも由あることなれど、われにも一存あっておたずね申すのです」
といった。
敦盛は思う。名乗ろうが、名乗るまいが、ここは逃れられまい。しかるに、この者の一存とは、恩賞のためわれの名を知りたいのであろう。組むも、切るも前世の縁。仇を恩で報うもの。されば名乗らん、と、
「なんじに一存があるならば、いって聞かせよう。これは、故太政入道の弟、修理大夫経盛の末子、いまだ無官ゆえ、無官の大夫と呼ばれる平敦盛、生年十六である」
と告げたのだ。
これを聞き、熊谷ははらはらと落涙した。なんと悲しきことであろうか。わが息、小次郎と同年とは。なるほど、その年頃に違いあるまい。
たとえ無情な者であろうとも、わが子への愛は格別なもの。もしてやこれほどたとえようもなく貴い子を失っては、父母も悶え焦がれんことの哀れさよ。
とりわけ小次郎と同年と聞けば、なんともいとおしく助けてさしあげたい。
その上、御心も勇敢な方。日本一のつわもの、と名乗っても、落ち武者の身にして、しかも幼若にもかかわらず取って返した。これは大将軍の器である。しかしこれは義経公の戦。なんとも惜しい命、いかにせん、と思いわずらいためらうところへ、前にも後ろにも武者どもは組んでは落ち、次々と敵を捕らえている。
その中で、熊谷は一の谷でまさに組み押さえた敵を逃がし、人に獲られたと噂がたてば、子孫にとって弓矢の名折れとなろう、と思い返した。
「どうにかお助けしたいと思うのだが、源氏の兵はもはやこの地に満ち溢れております。とても逃れられる身にあらず。
あなたのご菩提はこの直実がよくよくお弔い申そう。草葉の陰でご覧じられよ。ゆめゆめ粗略にはいたしますまい」
と、目をつむり、歯を食いしばり、涙を流してその首を掻き落としたのだ。
無残というも愚かなり。敦盛は死を恐れず、あきらめず、幼少の身ながらまったく凡庸の器ではなかった。平家の人々は討たれるその時までも風流な心を失わなかったのだ。
敦盛はこの殿軍の陣中でも合間に吹かんと思ったのであろう、古色もうるわしい漢竹の笛を、香を留めた錦の袋に入れ、鎧の引き合いに差して携えていた。
熊谷はこれを見つけると、ああ、惜しいこと、このたびも城中で今朝がたも楽の音が聞こえていたのは、この人であったのか。源氏の軍兵は東国より数万騎上ってきたが、笛を吹く者は一人もいない。なぜ平家の公達は、かくも優雅なのであろうか、と涙を流して去っていった。
そもそもかの笛は、笛の上手であった父経盛が作らせたもの。砂金百両を宋に送り、上等な漢竹を一枝取り寄せ、節と節との間の最上質な部分を切り取らせた。
天台座主、前の明雲僧正に命じ、秘密瑜伽壇にこれを立てて、七日間の加持祈祷を行い、秘蔵して彫らせた逸物である。子どもたちの中では、敦盛が器量の者である、と七歳にして授けられたという。夜が更ければ更けるほど音色が冴えたゆえ、さえだ(小枝)と名付けられたのだ。
熊谷は、この笛と敦盛の首を手に捧げ持ち、子息小次郎を訪ねていった。
「これを見よ。修理大夫の御子で、無官大夫敦盛というお方だ。
生年十六と名乗られたゆえ、お助けしたいと思ったものの、なんじらの弓矢の末を案じ、かくも憂き目を見ることとなってしまった。もしもこの直実が亡き者となろうとも、誓って後世を弔わねばならぬぞ」
このようにいい含めた後、熊谷は発心し、以降弓矢を捨ててしまうのである。
(現代語訳 水野聡 2018年5月)
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