門前の小僧

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【日本文化のキーワード】第八回 歌 ~古今和歌集 仮名序にみる和歌の世界

2019-10-18 21:38:58 | 
今回のキーワードは「歌」。音楽ではなく、和歌の「歌」をとりあげます。
いうまでもなく、和歌はすべての日本文化、芸能、芸術の基底たる“日本文化の母”です。
歌を詠むことは古来、貴人の教養であり、かつ人格の高下、感性の有無を判定される
もっとも重要な指標でした。
歌ははじめ、人が神に捧げるコトバとして、まず御代をことほぐ〔祝い歌〕として詠まれます。そして四季を通じた行事や祭祀にまつわる感情を歌に表現するうちに、いつしか思う相手に心情を伝達するメッセージとしての〔恋のなかだち〕をも担っていったのです。
このように古代の日本人が、様々な思いを託して詠んだ歌を集め、成立したのが『万葉集』。
そして時の帝が貴族たちに命じて編纂した、わが国初の勅撰和歌集が『古今和歌集』です。
その撰者のひとり、紀貫之が附した序文が、『古今和歌集 仮名序』とよばれるもの。
もうひとつ、漢文で書かれた序文、『古今和歌集 真名序』もありますが、
「和歌とは何か」、「歌の歴史と本質」について、やさしい仮名で書かれた『仮名序』は、
今日教科書でも取り上げられ、多くの人々が接する古典のスタンダードとなっています。
『古今和歌集 仮名序』には、いったい何が書かれているのでしょうか。
原文に章段はありませんが、大きく分ければ以下六章の構成となっています。
(1)和歌とは何か
(2)和歌のはじまり
(3)六種の和歌の分類
(4)和歌の歴史と代表歌人
(5)六歌仙の評価
(6)古今和歌集編纂の次第

とりわけ(3)~(5)では、代表歌と歌人の詳細な解説と評価が展開されており、
和歌の技法の研究の嚆矢、“歌学の起源”として仮名序が日本文学史に
位置付けられる重要な内容となっています。
よって、通常の序文としてはやや分量があり、現在その研究書とともに
様々な現代語訳版が出版されています。
今回、日本文化のキーワードとして「歌」を取り上げるにあたり、歌の本質を深く、
かつコンパクトに伝えるテクストとして、この『古今和歌集 仮名序』を採用しました。
原文に忠実な直訳、引用例歌の気品をそこねない【言の葉庵】独自の訳文にてお届けします。
以下、令和版最新の現代語訳全文を掲載します。

●古今和歌集 仮名序 現代語訳
 原著 紀貫之
 訳 水野聡

(1)和歌とは何か
やまとうた、和歌というものは、人の心を種として、そこから千、万の言の葉となったものです。
世の人は多くのものや出来事に触れることで、心中の思いを見るものや聞くものに託して言葉にしました。
花に鳴くうぐいす、水に住む蛙の鳴き声を聞くにつけ、生きとし生けるもの、いずれも歌を詠まぬことがありましょうか。
力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも感動させ、男女の仲をやわらげ、猛き武士の心さえなぐさめるもの、それが歌なのです。

(2)和歌のはじまり
歌は、天地開闢の時に生まれました。
(天の浮橋の下で、イザナギノミコトとイザナミノミコトが結ばれた時の歌である) ※1
このようにもいいますが、世に伝わるところでは、天上界の下照姫にはじまり、
(シタテルヒメは、アメワカヒコの妻である。シタテルヒメが兄神の美しい姿が
丘や谷に光り輝いて映ったことを詠んだ夷歌のことであろうか。これらは文字の数も
定まらず、歌の体をなしていなかったのだ)
下界では、スサノオノミコトから興ったものなのです。
神代の歌は、文字も定まっておらず、素朴に詠んだもので、歌の意味も
とらえ難かったに違いありません。
そして人の世となって、スサノオノミコトから三十一文字の歌を詠むようになりました。
(スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミの兄である。后と住むために
出雲の国に宮殿を建てた。そこに八色の雲が立つのをみて詠んだ歌である
 八雲立つ出雲八重垣妻籠めに 八重垣つくるその八重垣を ※2)
以来、花を愛で、鳥をうらやみ、霞をあわれみ、露をかなしむ心や言葉が多く集まり、
様々な形となっていきました。
遠い旅も、出発の一歩からはじまって長い年月にわたっていく。
高い山も、ふもとの塵や泥が積もっていき、やがて雲がたなびく高みへといたる。
そのように、和歌も発展していったのです。
難波津の歌※3 は、帝の御代はじめの歌です。
(仁徳天皇が難波でいまだ皇子だった時。弟君と皇太子の位を互いに譲り合って、三年がたとうとした。それを王仁が心配して詠み、奉った歌である。木の花は、梅の花をさすらしい)
安積山の歌は、采女がたわむれに読んだもの。
(葛城王が陸奥へ派遣された時。国司の接待が粗略であるとして、宴席を設けたものの王は不機嫌であった。そこで、かつて都の采女であった女が、盃をとり、酒をすすめて詠んだ歌である。これにより王の気持ちはやわらいだという。)
安積山かげさへ見ゆる山の井の 浅くはひとをおもふものかは
〔山の清らかな泉は安積山の影までもくっきりと映すほど深いもの。田舎の人はこの泉の水と同じ、どうして客人を軽んじたりしましょうか〕※4
この二首の歌は、和歌の父母。歌を学ぶ人なら、だれでも最初に触れるものです。

(3)六種の和歌の分類
そもそも和歌の表現様式は六つあります。中国の詩も同様です。
その六種の一が、「そえ歌」。
仁徳天皇へ、意見をそえ奉った歌で、次のようなものでありましょうか。
難波津にさくや木の花冬こもり いまは春べとさくや木の花
〔難波津に梅の花が咲いている。冬を耐え、さあ春になった、と咲いたのであろうよ〕
二つ目が「かぞえ歌」※5。次のようなものです。
 さく花に思ひつく身のあぢきなさ 身にいたつきのいるも知らずて
〔美しい花に心を奪われることは、なんとはかないものであろうか。鳥は今、矢で射られることも気づかないのだから〕
(かぞえ歌は素直に歌い、比喩などの技巧を使わないもの。この歌の表現はいかがなものか。意味がとらえ難いのだ。五番目の「ただこと歌」というものがこの例歌にふさわしい。)
三つめが「なぞらえ歌」。次のようなものです。
 君にけさあしたの霜のおきていなば 恋しきごとにきえやわたらむ
〔あなたに逢った翌朝、霜が置き、あなたが起きて帰ってしまったなら、恋しい思いは霜が消えるように、はかなく続くのでしょうか〕
(なぞらえ歌は、ものに託して「何々のようである」と歌う。この歌はよく適しているとも思えぬ。
 たらちねの親のかふ蚕のまゆこもり いぶせくもあるか妹にあはずて
〔母の飼う蚕がまゆにこもる。ふさぎこんでいるのか、恋人に逢えない私のように〕
こうした歌こそこの例歌にはふさわしかろう)

●続きはこちら⇓
【言の葉庵】HP
http://nobunsha.jp/blog/post_233.html

「迷言」が「名言」になる。河合隼雄 VS.武田鉄矢

2019-07-30 11:41:39 | 
「のぞみはもうありません」
と面と向かって言われ、私は絶句した。
ところがその人が言った。
「のぞみはありませんが、ひかりはあります」
なんとすばらしい言葉だと私は感激した。
このように言ってくださったのは、
もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである。

(河合隼雄)

広告文案家だったぼくが、これは!と膝を打った「迷言」の作者が
心理学の泰斗である河合隼雄氏です。
言葉を駆使する臨床心理のプロだから、もちろん名言が多く、
世の中に広く「河合隼雄・名言集」があります。

そして、もうひとり。物語の名人である俳優武田鉄矢氏が登場。
この言葉の背景を伝えることにより、「迷言」が「名言」へと劇的に変化するのです。

そもそもこの言葉は、河合氏が自殺をほのめかす
患者さんの電話に、当日の学会の予定もすべてほっぽり出して、
夜更の新幹線で東京から関西へと急遽かけつけようとした。
その場面でJR窓口駅員が発したものである、と武田氏がラジオで語っています。

この言葉をコピペする多くのブログは、背景と物語を一切説明しません。
「迷言」、「駄洒落」で笑って終わり。
しかし患者にかけるべき言葉をまるで思いつかなかった河合氏は、
ここでまさに神の光、天啓を得た。
なにげない日常会話がひとりでに名言へと生まれ変わったのです。


オリジナルの武田鉄矢氏ラジオ番組、書き起こしページのリンクをご紹介します。
●武田鉄矢・今朝の三枚おろしの残り
http://urx.blue/Srja

5/19禅と日本文化講座あります。

2018-05-18 22:05:04 | 
明日、5/19(土)13:30-15:30
日本文化体験交流塾(港区芝)にて、集中研修シリーズ
「禅と中世日本文化アドバンス」第一回、禅と日本文化総論の
講座を開講します。

禅とは何か、悟りを開くとは。
中国から日本に伝わった禅宗の歴史とその教義の根本を
超初心者目線で、面白くわかりやすく案内する、
「日本一わかりやすい」禅入門講座としました。
図版や、画像も多用し、達磨の悟りの本質をダイレクトに
感じ取れるような構成を企画しました。
当日参加も可能ですので下記URLをぜひご参照ください。

日本文化体験交流塾
シリーズ研修2018年5月「禅と中世日本文化アドバンス」
https://www.ijcee.jp/culture/mizuno-lectureadvance/
(講師:水野聡 能文社)

※画像は禅の第六祖慧能の1300年前の姿をとどめる即身成仏。
中国広東省南華寺に今もそのまま祀られている。

歩く四書五経、谷那律

2018-05-10 20:55:38 | 
諫言とはこのように行う、お手本です。

谷那律(こくなりつ) が諫儀大夫となった。
ある日、太宗の狩猟の供をしたが、途次にわか雨にあう。

太宗が尋ねた。

「雨具の油衣は、どうすれば雨がしみ込まぬようにできるだろうか」

谷那律が答える。
「瓦でお作りになれば、もはやしみ込むことはございません
(狩に呆けず、瓦を葺いた宮殿に居れば、雨に濡れることも、治政の問題も起きない、とのたとえ)。」

その心は太宗の狩猟を控えさせんとするものであった。太宗はその言を深く理解し、大いに喜んだ。
すなわち絹二百反を下賜し、加えて黄金の帯一筋も与えた。

(『貞観政要 下』能文社2012 巻十論佃猟)

谷那律は太宗の家臣。
博学のため褚襚良から「九経庫」とあだ名されたほどの第一級の知識人である。
諫儀大夫、弘文館学士を拝命。しかし『貞観政要』中、彼の名がみえるのは全数百編の中、
この一箇所のみである。
太宗の側近にいかに綺羅星のごとく人材がひしめいていたかがわかろう。