門前の小僧

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奥の細道行脚。第十回「松島」

2010-06-26 12:20:08 | 日記
 五月九日(新暦六月二十五日)、芭蕉一行は今回の旅の目的地のひとつである、松島に到着。感極まった芭蕉は、ここでは句をよんでいない。代わりに、松島賛美の文を堂々たる漢文調「賦の体」で記します。

 平泉では奥州藤原三代のいにしえに涙し、「夏草やつわものどもが」の句を得、盗賊の出る山刀伐峠を命からがらに越して、当初予定になかった山寺(立石寺)へ五月二十七日(新暦七月十三日)巡行。巍巍たる禅刹の威容に、

「閑かさや岩にしみいる」

の名句を得ます。

 かくて奥州の真中を横断し、行者姿となって羽黒山、出羽三山に登頂、祈念。
 修験道最高の霊場にて生まれ変わり、新たな生を授かる。
 一行は日本海側酒田にはじめて出、最上川の激流に翻弄されて下り、ついに象潟へ棹を差します。日本第一とされたこの名勝は、江戸文化年間の大地震で永遠に失われてしまいました。その面影を、ここでも芭蕉屈指の名文により、彷彿とできる喜びをかみしめたいと思います。


●松島

【奥の細道】

 そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖 に恥じぬ。
 東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる。島という島がここに集まり尽くして、そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う。あるものは二重にかさなり、三重に畳んで、左に分かれ右に連なる。背負う形、抱く形あり。児孫をあやすかのように見える。
 松の緑こまやかに、枝葉は潮風に吹きたわめられ、自然が曲げ、伸ばした作品のようである。その景色神秘的にして、美人の顔を粧う 。
ちはやぶる 神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか。

 雄島の磯は、地続きで浜から海に出た島である。雲居禅師の別室跡、座禅石などがある。
 また、松の木陰に世捨て人の住処もまばらに見えて、落穂・松笠などの煙たなびく草庵にひっそりと住む。どこの誰とも知りはしないが、まずなつかしく立ち寄れば、月が海に映り、昼の眺めとはまたあらたる。

 浜辺に戻り、宿を求めれば、窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの。


 松島や鶴に身をかれほととぎす   曾良


鑑賞(古歌に、千鳥が借りたという鶴の毛衣。この松島の絶景に、ほととぎすもその化粧を借り、美々しく鳴き渡ってくれればよいが)


 私はただ口を閉ざして眠ろうとするが、眠れるものではない。旧庵を別れるとき、素堂に松島の詩 を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。袋を解いてこれを今宵の友とした。また、杉風、濁子の発句もる。


【曾良旅日記】

一 九日。快晴。辰の刻、塩竈明神参拝。戻って出帆する。千賀の浦・籬島・都島 等諸所遊覧し、午の刻松島に着船。茶など飲んでから瑞岩寺詣で。残らず見物した。開山は法身和尚(真壁平四良)である。中興は雲居。法体の北条時頼がこもった岩窟あり。無相禅窟の額があった。

 これより雄島(御島と書くところもある)をあちこち見る(富山も見えた)。御島には、雲居の座禅堂あり。その南に、一山一寧の碑文があった。北に庵あり。修行者が住むようだ。帰った後、八幡社・五太堂 を見る。慈覚大師の作。松島に宿泊する。久之助方。
加衛門の案内状だ。

【奥細道菅菰抄】

そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖に恥じるものではない。東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる

 そもそも(抑)は、和文においては、さて(扨)、という言葉の重いものであり発端に用いられる。漢語の抑とは意味が違う。

 扶桑は、いにしえより日本の異名として使われてきたが、実は別の国の名である。『准南子』の註に、「扶桑は東方の野なり」。『楚辞』の註に、
「扶桑は木の名である。その下より日がでる」。
 『和漢三才図会』に、
「扶桑国は大漢国の東にあり、その地には扶桑の木が多い。葉は桐に似て、実は梨のごとく」
 という。これらである。ただし、ここ(奥の細道本文)では、俗言にしたがって日本のこととみるべきである。

 第一とは、松島はどの島にも松の木ばかりがあり、他の木はない。ゆえに、第一と称えたのだ。

 およそ(凡)は、『辞書』では、皆と註する。一般にいう総体と同じ。

洞庭は、中国で名高い山水の地である。洞庭湖あり(別名太湖)。半分は潭州に属し、半分は岳州に属すという。

 西湖は、鄂州にある。これらの風景は、王弇州の『四部稿』、および『熙朝楽事』等にくわしく載る。

 浙江は、中国三大江の一である。『字彙』にいう。

「浙江は銭搪にあり、歙県の玉山より出る。河水が逆流して激しく、湾口に波を巻き上げることにより、浙江と呼ばれた」

 と。日本の九州の西に当たり、日本へ往来する船舶の港。繁華の地であり、なおかつ景色無双であるという。その潮を称えて『詩経』に、

「廬山の烟雨、浙江の潮。いまだ到らざれば千般すれども、恨み休ませず。到り得て帰り来たれば別事なし、廬山の烟雨、浙江の潮」

 とある。

○一考すると、松島は日本第一の絶景の地であるため、特別にこれを称讃するべく、ここの段落はしばらく文法を変え、賦の体となした。ゆえに文頭に、そもそも(抑)の字を置いて、稿を改めたのは、史記列伝の始め、伯夷の伝の頭に、それ(夫)の字を置いたのと同様である。翁の文飾の巧みさを、これらのことに目をつけて、よくよく考えてみるべきであろう。

そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う

 この両句は、島と岩の形容である。そばだつの元の字、「欹」は、あるいは「倚」と通ずるか。偏り、立つことである。腹這う(匍匐)は、両手をついて腹ばうことをいう。『詩経』の大雅に、

「誕にまことに、匍匐す」

 とある。

児孫をあやすかのように見える

 杜甫の望獄の詩に、「諸峰羅立して、児孫に似たり」とある。

美人の顔を粧う。ちはやぶる神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか

 美人の顔を粧う、とは、東坡の『西湖の詩』に、「西子に西湖を把えて比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」とする意味である。

 西子とは、西施のことである。越王勾銭の臣、茫蠡が、呉王夫差に贈った美人の名である。

 淡粧濃抹は、薄化粧、または濃く化粧することをいう。

 ちはやぶるとは、『百人一首季吟抄』に、「ちはやぶるとは、神を詠む時の枕詞である」という。
 この他にも諸説あったが用いなかった、と定家卿の説があることを伝える。考えみれば、この説には、埒がない。ある神書では、ちはやぶるを千釼破(せんけんは)と書いて、素盞鳴尊を神々が攻めた時、尊が埋め隠しておいた千の剣を踏み、破り捨て、ついに尊を屈服させたなどといっているが、これまた様々な説がある。私にも管見がなくもないが、その家の者ではないので、しばらくこれを捨て置く。

大山祇は、大山祇の神をいう。山の神ゆえに、成せる業と申されたのであろう。(この神の出生の話は日本書紀に見える。ここでは不要のためくわしくは記さぬ)

雲居禅師の別室跡

 雲居禅師は、真壁平四郎の家人、沢庵と同時代の人である、という。伝説未詳。平四郎のことは以下にある。

窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの

 この段は、『詩経』の

「軒窓を月のため開くという。いずくんぞ似たる、山中白雲に臥すことを」

 などという風情に着想を得たものである。文、簡にして尽くした、と称えるべきであろう。妙なるは、奇妙な、という意味。

松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良

 この句の趣向は、古歌を踏むと見る。今、失念してしまった。
(訳者註 鴨長明『無名抄』で取り上げられている祐盛法師の歌をいったもの。寒夜千鳥と云う題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」と詠んだ)

素堂に松島の詩を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。(中略)杉風、濁子の発句もある

 素堂は、隠者の山口氏。初めは信章、中頃来雪、晩年に素堂と称した。芭蕉の親友である。(一説では、俳諧も翁と同門であったとする。最初、信章と称していたことを考え合わせると、あるいは元、信徳の門人ではあるまいか)

 原安適は、医者で深川に住む。歌人であり、この人も翁の友である。その息子は鈴木庄内といって、県令の小吏を勤めて死んだ。その息子、庄右衛門という者も父親に先立ってしまい、今は跡がない。

 杉風のことは最初に述べた。濁子も翁の門弟である。


★奥の細道講読会「寺子屋 素読ノ会」6/28(月)
http://bit.ly/alUNRw


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