門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

【言の葉庵】アクセス数No.1コンテンツ

2013-12-06 21:22:43 | 仏教
【言の葉庵】2005年創設以来、早や8年の歳月が流れました。
エントリー数も徐々に増え、300を超えました。最近当庵を訪れる人にとって、古いコンテンツはなかなか全てご覧になることも難しかろうと推測しています。

さて、当ホームページでは、一般にあまり知られていない、が、内容としては不変の価値を持つ名作古典の数々をご紹介することを使命としています。
出版作品は11作品を数えますが、印刷物では紹介しきれない短文の名作も実はたくさんあります。
今回ご紹介する過去ログは、これまで言の葉庵関連コンテンツ(他のブログも含む)で、代々アクセス数がもっとも多かったものです。

No.1コンテンツは「風狂のバケモノ、寒山拾得」。中国唐代の幻の風流子、寒山と拾得の物語です。中世仏教画の画材としてたびたび歴史的名画家に取り上げられた、寒山と拾得の来歴を明かす秘話。禅の奥儀に触れる普及の名作、『寒山子詩集』から翻訳した作品です。

アクセスNo.2は、「救われる極悪人『今昔物語』」。箸にも棒にもかからない極悪人(讃岐の源大夫)があるきっかけにより、改悛。阿弥陀仏を求める苛酷な旅の末に往生し、世にも美しい奇跡を起こすという逸話です。芥川龍之介の文学作品にもなった、有名な仏教奇譚ですが、やはり原文には及ばなかったかも。【言の葉庵】の新訳でお届けしています。

以上古典の名作中の名作二篇、ぜひこの機会にご鑑賞ください。


■風狂のバケモノ、寒山拾得。
http://nobunsha.jp/blog/post_83.html

■救われる極悪人『今昔物語』
http://nobunsha.jp/blog/post_133.html
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能はなぜ映像で再現できないのか

2013-12-01 19:24:00 | 能狂言
能楽タイムズ12月号より、梅若猶彦師の「能の映像 日本文化の発信」というコラムが連載されはじめた。
コラム第一回目は、「なぜ能は映像として再現されないのか」という非常に興味深いテーマである。

梅若師は指摘する。
「数あるパフォーミングアーツの中でも、能は、突出して映像を記録することが困難である」。

その理由として、映像技術の問題、能そのものの本質の問題、と二つの課題をかかげる。が、今日4K、8K、さらに立体画像の試作へとますます高度化する映像技術により能の映像化は技術としてはクリアしていくであろうと予測している。であれば課題は、能そのものの本質なのか。
「映像化を困難にしている本質とは何なのか。(中略)やはり能独自のものとしてある〔極端に強調された静〕がこの困難な課題自体を構成しているように思えてならない」
と、梅若師は推論しているのだ。

能が表現するのは、動きではなく、静。じっと静止する"間"にこそ、こめられた無限の情報量ではないか。

せぬひまが面白き
http://nobunsha.jp/meigen/post_91.html

と世阿弥は能の面白さは、無言、不動の瞬間にこそすべてある、と喝破。
現代の能役者が「動かぬ故に能」とする、金科玉条である。
この"静"はシテの居クセに極まる。が、なにもシテ一人のみ動かぬわけではない。ワキ、囃子方、狂言方、地謡、後見も働かぬ時は微動だにしない、一幅の絵になりきるのである。これを動画にするのは困難であろう。

「カメラ本体を動かさざるを得ない。ただこのことを一つ間違えば、じっとしていられない子供のような印象を、視聴者は映像から受けるだろう」
(「能の映像 日本文化の発信」)

超高速度で回転するコマはぴたっと静止して見える。回転が弱まると、ぐらぐらと傾き、やがて大きく蛇行して倒れる...。"静"の中には気力・気迫が極限にまで込められており、能役者の身体から発せられる気に、観客は打たれるのである。この気を受けられぬと眠くなるのだが、見慣れぬ客にとっては仕方あるまい。ぼくもいまだに時折眠くなることがある。

この極端に張り詰めた静的な場において、においや振動、空気の動きも際立ってくる。古い装束のにおい、足拍子の地鳴り、扇や袖の扱いによる波動を500人そこそこの小さな能舞台では明瞭に感受することができるのだ。これは将来的にも家庭受像機では再現できまい。よってぼくたちは舞台へと足を運ぶのである。
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