工房八重の部屋

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アスニー山科講座、「醍醐三宝院・藤戸石」 ー信長・秀吉の愛した名石ーは今は仏石

2011年08月24日 | Weblog
17日のアスニー山科講座は「醍醐三宝院・藤戸石」ー信長・秀吉の愛した名石ーでした

講師は、伝承学会会員   山嵜 泰正氏です。

その歴史は

「藤戸石」とは、平安末期、備前国藤戸(現・岡山県倉敷市藤戸)、

児島(現在の児島半島)に陣を張る平氏の軍勢を、源範頼勢が攻め寄せた。

波が高くて渡れず困惑していると、源範頼勢の、御家人の佐々木盛綱が手勢を率い、

馬に乗ったまま浅瀬を渡り、源氏勢は一気に平氏を追い落とした。
 
盛綱は、浅瀬の場所を、地元の漁夫から聞き出した。

しかし情報が漏れるのを恐れた盛綱は、その場で漁夫を切り殺し、「藤戸石」の下に

埋めた。  平家物語が伝える、この話を題材にした謡曲 「藤戸」がある。 

源平の争乱で、「源氏の勝利石」として尊崇され、

また殺された側からは、悲劇の石でもある。

倉敷から京都に運ばれ、信長が、足利義昭将軍のために献上した。

当時の公家、山科言継(ときつぐ)の日記には、三千人の人夫を使い、笛や太鼓で

はやし立て、足利義昭のために造営した二条邸に、運び込む様子が描かれている。

本能寺の変後、「藤戸石」は天下人・秀吉の聚楽第に運ばれ、後陽成天皇の行幸で

天覧に預かった。しかしその後、関白秀次の住んでいた、聚楽第は破却され、

「藤戸石」は、醍醐寺三宝院の庭に運ばれた。

一五九八(慶長三)年、醍醐の花見を催した秀吉は、造営中だった醍醐寺三宝院庭園の

主人石とした。

藤戸石背後の築山に「豊国稲荷大明神」として祭られ、権力者に翻弄(ほんろう)

された藤戸石は、安住の地を見いだし、三尊石組みの仏となった。

醍醐三宝院にある藤戸石のことを、この講座で知り、講師の、山嵜 泰正氏の

講座は、物語を説明しているような、洒脱な講座で、興味深く面白かった!

講座後に、今回の講座が記載された、山嵜 泰正氏の『信長・秀吉、京の城と社寺』

の本が販売されていましたが、講座受けた人達が、行列して買い求める人気でした。

(下線の付いた文字クリックすると、その本のホームページにリンク出来ます )


山嵜 泰正氏 『信長・秀吉、京の城と社寺』 の本が販売されていました。


講師は、伝承学会会員   山嵜 泰正氏
講座は、物語を説明しているような、洒脱な講座で、興味深く面白かった!