冬籠りの間の隠者は専ら漢詩に勤んでいたが、春はもう少し楽に歌学に親しもうと思う。
前衛やポップ短歌隆盛の現代では、古い和歌のそれも歌学などを学ぶ人は滅多に居ないだろう。
しかしネットのお陰で古い本や資料が容易に安価に手に入る今こそ、このような古学を修める好機だ。
歌学の基本はいつの世でも古今集にある。
(古今集正義 香川過激 明治復刻版 古丹波傘徳利 江戸時代)
江戸時代からの木版による出版で、それまで極限られた人による口伝だけだった古今伝授の内容が少しづつ世に広まった。
その古今集研究の決定版が江戸後期に出た香川景樹の「古今集正義」だ。
これは20世紀の実史に傾いた文学研究では出て来ない、心の高貴さに重きを置き古今集をより深く味わうための書なのだ。
その後明治の太斗佐々木信綱が歌学の集大成を打立てるのだが、神秘性と合理性が程よく合わさっていたのはこの香川景樹らの江戸後期までだろう。
(直筆短冊 香川景樹 江戸時代 古丹波壺 江戸時代)
「闇ならでたどたどしきは目に見えぬ 神をしるべの敷しまの道」景樹
敷島の道とは和歌の道の意味。
この短冊をネットで見つけた時は、古の金言を見つけたようで嬉しかった。
「神をしるべの〜」の神は、例えばダンテの神曲のヴェルギリウスのような導き手と思えば現代人にも理解できよう。
八百万の自然神がまだ人々の生活の中に生きていた時代の、実にファンタジックな歌だ。
なお和歌の聖性を保った最後の華である与謝野晶子は、この香川景樹らの桂園派の孫弟子に当たる。
江戸時代の歌人達が春の花を見ていたのと同じ気持で野に出れば、日本古来の小さな自然神達が見えて来るだろう。
先週の写真と同じ菜の花の野辺に寄れば、さらに数倍の数の花が咲き競っていた。
さっそく古今調で一首詠んでみよう。
ーーー日翳るも菜の花あかり佐保姫の 歩む標となりにけらしなーーー
言うまでも無いだろうが佐保姫は春の女神。
野に出ては麗しき女神や花の精達と戯れていた古の歌人達がどれだけ春の至福を感じていたか、それを追体験するのが歌学(うたまなび)の要諦なのだと思う。
春の野遊び花戯びの傍らに歌学の古書は打って付けだと思う。
©️甲士三郎