日向ぼっこ残日録

移り気そのままの「残日録」

エクスプローラ新バージョン「7」

2006年06月11日 20時48分41秒 | 時事
今日、インターネット・エクスプローラの新バージョンをダウンロードしてみました。(Internet Explorer バージョン7-β2)画面上はスッキリしましたが、なんだか寂しいものがあります。(「バージョン6」に慣れきっていますから)賑やかしに、グーグルのツールバーも加えてみました。
「お気に入り」を開くのにも、新しいタブでも開けるので、表示能力の大きいものがいいようです。15インチですが、1400*1050でも次々ウィンドウを開くと整理に困るようになる。なんだか使い慣れた「バージョン6」が・・・。
しかし、硬い頭を切り替えて、マイクロソフトの戦略にも泳いでいかなければならないでしょう。どうせ、検索データーやパソコン内のデーターまでも筒抜けなんでしょう。かのハッカー集団まである中国でも「中国ヤフー」、「グーグル」、「MSN」まで、ややこしい検索文字の入力には、警告を表示して協力しているんですから。
新バージョンが、個人の利用者にとって、進歩したものであるのか、マイクロソフトにとって利用価値があるのか解りません。
エクスプローラの危弱性は数段に改善されたんでしょうか?来年発売に延びた「Windows Vista」は、β2版に近い、正規「7」を搭載してやって来るんですから、慣れる必要が・・・。老人にはきついですなあ!


嫁に来ないか~

2006年06月10日 18時58分01秒 | 気まま日記
【千葉県香取市の水郷佐原水生植物園で10日、「嫁入り舟」が再現。あやめの花が見ごろの6月、園内挙式するカップルを募集して行われる恒例のイベント。埼玉県から来たカップルは、「一生の思い出になります」と感激(時事通信社)】

「潮来花嫁さんは、舟でいく」(『潮来花嫁さん』歌・花村菊江)と歌われた茨城県潮来の「 嫁入舟」も、昭和30年代(1955~1964)まではありふれた風景でしたが、その後は、ほとんど見られなく なっていました。

柴田よしかず 作詞 水時富士夫 作曲

潮来花嫁さんは
潮来花嫁さんは 舟でゆく
月の出潮を ギッチラ
ギッチラ ギッチラコ
人の噂に かくれて咲いた
花も十八 嫁御寮

潮来花嫁さんは
潮来花嫁さんは 舟でゆく
夢をいだいて ギッチラ
ギッチラ ギッチラコ
好きなあの人 東京育ち
わたしゃ潮来の 水そだち

潮来花嫁さんは
潮来花嫁さんは 舟でゆく
花の都へ ギッチラ
ギッチラ ギッチラコ
別れ惜しむか よしきりさえも
泣いて見送る 葦のかげ

舟での嫁入りと言えば、「瀬戸の花嫁曲にリンク」(小柳ルミ子のデビュー曲)と言うのもありましたが、34年も前でしょうか? 年をとるのも早いものです。

W杯、ガンバレ日本!

2006年06月09日 09時38分46秒 | スポーツ
先にW杯(ワールドカップ)2006ドイツ大会の日本代表の心配は、高齢化であると申し上げましたが、けが人続出で、その心配が増したようです。
ガンバレ!ニッポン!
kunio_nikkiは、アルゼンチンに注目です。
アルゼンチン監督には、04年9月にホセ・ペケルマン監督(56)が就任した。同監督は8年間にわたり4世代連続でユース代表を指揮。ワールドユース選手権(20歳以下)で95、97、01年と3度優勝に導いた実績を誇る。初のA代表監督に就いてもユースでの経験が生きた。南米予選では起用した49人のうち半数近い22人がユース時代の教え子。95年組の主将のDFソリン、97年組のMFリケルメら主力のほとんどがユース出身の「ペケルマン・チルドレン」だった。選手の能力を熟知しており、選手からの信頼感も高く、戦術面もすんなりチームに浸透した。就任初戦のウルグアイ戦に4−2で勝ち、その後も4戦負けなし。その勢いに乗り、南米最速でW杯出場を決めた。
ケルマン監督は1年半で実に約60人を代表に招集した(固定したメンバーは拒否した上、選手の競争を求めた)。予選では2チーム分準備。05年3月のボリビア戦ではエースFWクレスポに代えFWメッシら若手を起用するなど7人を初出場させて2−1で勝利。4日後のコロンビア戦は先発9人を入れ替え再びベスト布陣に戻して1−0で勝った。
1番の注目は、マラドーナ2世といわれるFW「リオネル・メッシ(18歳)」です。バルセロナ所属で05年ワールドユース選手権MVP。才能とゴール嗅覚(きゅうかく)に加えて169cmの小柄な体形が英雄をほうふつさせる。また、デビュー戦となった8月のハンガリー戦で、途中出場後2分で相手DFにひじうちを食らわせて退場処分を受けるなど「悪童」ぶりも似ている。
高さをFWに求め過ぎてはいけない。170cm以下の選手は、日本には・・・。
次回大会に英雄を求めるなら、14~15歳にその才能を見つけなければならないでしょう。2大会連続出場や3大会連続出場が7~8人もいる異常さに危機感を持たないと、サッカー界の怠慢と思います。
無事1次予選突破を願わずにはおれません。(もはや、神頼みの領域か?)

ニューヨークは雨!

2006年06月08日 16時40分34秒 | 松井秀喜
朝からテレビの前にいましたが、対レッドソックス戦は中止となり、9月に予定されました。球場入りする松井選手は、傘をさしかけてもらっていますが、骨折の左手に紙袋を持っています。(大丈夫ですか?まだ左手に仕事させないで!)7日も、ヤンキースタジアムでトレーニングを行い、3日連続となりました。朝から雨が降り続いたため、グラウンドには一歩も出ず、室内での筋力トレーニングに専念しました。 松井選手は午後1時35分に球場入り。この日もグラウンドで「軽くボール(昨日から硬球)を投げようと思っていた」という。しかし、悪天候のため予定を変更し、室内ジムに向かいました。 左手首に負担をかけられないから、下半身を中心に鍛え、エアロバイクをこぎ、上腕を動かすトレーニングも精力的に行いました。
順調!順調!中止のレッドソックス戦が9月ですから、もし、地区優勝の大事な試合になったなら、松井秀喜外野手が出場しているでしょうから、楽しみが増しました。


人に愛されるとは?

2006年06月07日 14時09分33秒 | 気まま日記
松岡青羅を加古川市の「光念寺」に訪ねました。寺の奥さんに挨拶し、境内に入り写真を撮る了解を得ました。
【JR加古川駅より徒歩10分の中心部にあります。自動車の場合、駅近くに2時間まで無料の「ニッケパークタウン」があります。】
青羅は前橋藩(15万石)酒井忠恭(ただすみ)(後、移封して姫路城主(15万石)。松平朝矩と入れ替わり)の江戸藩邸に生まれました。竹沢氏の養子となり御勘定方(幹部級)として出仕するが、不身持の理由で姫路藩(行ったことがないが、国許)に移されました。サラリーマンとして、本社から姫路工場(禄米生産地)に転勤です。その姫路でも、精勤さを欠く勤務ぶりで、武士を辞めさせられます。(反省せよと、無給の身に)そこで、出家して、以前よりたしなんでいた「俳諧」を求めて、諸国吟遊の旅に出ます。青羅は明和年間(28歳ころ)加古川にやってきます。当時の大庄屋「中谷慶太郎」の厚い庇護を受け、三眺庵(栗本庵)を与えられます。そして、俳諧師として活躍します。青羅は以後「栗の本」を名乗るようになりました。(栗の本青羅(くりのもとせいら))青羅は、「釣りバカ」の「浜崎(ハマチャン)」以上に怠惰な性格です。しかし、趣味の俳諧が、後の人生を大転換させます。
青羅はたぴたび句会を催し、句集を発行し、芭蕉の句碑を建立し、俳諧師として盛んな活動をします。栗の本社(くりのもとしゃ)からは、多くの俳人が生まれました。一時は、3000人も弟子がいました。加古川の「光念寺」には、句碑があります。姫路には、姫路市立城内図書館に「青羅発句集」が蔵書されています。加古川には「青羅顕彰会」があり、境内に立派な「顕彰碑」が建てられています。
2度も勤めをしくじった「青羅」が、尊敬を集める存在になるのは不思議な気もします。
境内の写真や句碑(辞世の句)を撮りましたので、「姫路城の秘密Ⅱ」に追加する予定です。

松井秀喜、始動!

2006年06月06日 20時29分46秒 | 松井秀喜
ヤンキース、松井秀喜外野手は、5日(日付は全て現地時間)ヤンキースタジアムで練習を始動しました。

5月11日にレッドソックス戦の1回表の守備機会に左手首を骨折し、翌日に手術、その翌日には退院しましたが、自宅で静養の日々でした。
そして、22日に抜糸して、手首に負担のかからない下半身の運動などをしていました。
そして、この日、25日ぶりにヤンキースタジアムのグラウンドに立ち、練習を始めました。左手首には小さいギブスが残っていますので捕球は出来ませんが、軽くボールを投げるなどの練習でした。
「ヤンキースタジアムに来る回数を増やしていきたい」と、意欲的です。
この分なら、目標の8月中の復帰は中旬にもと期待を抱かせます。

山、大好き!

2006年06月05日 18時13分23秒 | 残日録
同窓会も齢(よわい)還暦を過ぎますと、宴席や飲み会やカラオケには興味が薄れてきて、「ハイキング」や「古都散策」や「トレッキング」の方に向いてきたようで、うれしいことです。
この時期、各地の「山開き」のニュースを目にしますが、今日は九州の九重連山のものでした。

【写真:くじゅう山系に夏の訪れを告げる「くじゅう山開き」山頂祭が4日、大船山(1,787メートル)であった。山系全体には、この日だけで県内外から18,000人の登山客が訪れ、新緑の山々を楽しみました。】
なんということでしょう。山頂には、足の踏み場もないほど多くの登山者(約500人)が、色とりどりの帽子や装備で、花が咲いたように群がっています。
kunio_nikkiの登る「利神山(兵庫・佐用町)や「石神神社(岡山・赤坂)は行きかう人もいないんですがねえ!

安田記念(G1)予想

2006年06月04日 10時30分41秒 | 競馬
「1 ダイワメジャー」と「17 オレハマッテルゼ」が抜けている。馬連 1-17 で取れると思います。
広げるとすれば、オレハマッテルゼに妙味があるので、馬連で17から香港の優「4 ブリッシュラック」と、まだまだ見限れない「6 ハットトリック」、直線切れる「11 カンパニー」、好状態の「14 インセンティブガイ」、「16 ジョイフルウィナー」、「18 グレイトジャーニー」につける。
17から流しで馬連 17-4,6,11,14,16,18の6点を追加します。

中京の11レースは、先週ボーナスを呉れた「赤木高太郎」騎手を絡めたBOXで 2-7-13の3点に投資しましょう?

固寧倉(こねいそう)に行くⅡ

2006年06月03日 20時05分49秒 | 気まま日記
野里慶雲寺、刀出、夢前町芦田、夢前町置塩、福崎町福田、市川町沢と「固寧倉」を訪ねて行った。親切な人に助けられて、思いがけず古い写真も撮させてもらえた。残念なことは、夢前町芦田(4月に姫路市と合併)の固寧倉が、崩落して、危険なために、跡形もなく取り払われていたことです。 【がんばって崩落前の写真を探すつもりです】
本当に疲れたので、帰りは調査を打ち切って、自動車道で帰途についた。
ページの更新をお楽しみに!

固寧倉(こねいそう)に行く

2006年06月02日 19時07分15秒 | 気まま日記
疲れました。
姫路藩の莫大な借財対策と同時に飢饉対策としての「固寧倉」は、藩の存続をも賭けた大事業でした。最大2000人に対して1つの倉を設置しましたので、288ヶ所も設けました。
その固寧倉を訪ねましたが、江戸時代の道路は、車力(しゃりき、木製の車輪に鉄の外輪薄板をはめた荷車)が、やっと通れる程度の道幅なので、探すのに2~3回も聞きながらのものでした。駐車出来る場所が相当遠いので、人がやっと歩ける道幅の道を行ったりしないといけないので、同じ場所に出たり大変でした。
全くの新築だったりして、江戸時代の部品(戸や金具、石垣)があるのかどうか、写真に撮った。3ヶ所(妻鹿、白浜、東山)がやっとでした。
姫路藩の勢力の及んでいた神崎郡にまで行かなければならない。8ヶ所が現存しているとのことで、写真だけでも3日間掛かるでしょう。
「姫路城の秘密Ⅱ」に貼り付けるまでには、まだ日数がかかるでしょう。