今日のお題のオーストラリアに移住して良くなかったこと その4 それは、オーストラリアは白人の作った国であり、日本人はアジア人として少数派だということ。オーストラリアは移民の国で、現在の国策として多文化主義を掲げている国です。様々な人種の人達が抗争もなく、仲良く暮らしている国です。でも1970年代中頃まで、この国は白豪主義、つまり有色人種の移民を制限する国だったので、今でも希にですが、その差別の痕跡を経験することがあります。
例えば、3年ほど前、昼間に一人で遊歩道を散歩していた時に 過ぎ去っていく車に乗っていた白人の若者からいきなり罵声を吐かれたことがあります。何を叫んだかは分かりませんでしたが、もし自分が白人だったら、叫ばれなかったのでは?と考えてしまいました。酒に酔っていたか、クスリをやっていたのかも知れません。しばらく嫌な気分になって散歩を続けましたが、頭が悪い人はどこにでもいると思いながら、散歩を続けました。
今でこそ、メルボルンなどの大都市では、アジア人が多くなって、特に肩身の狭い思いをするわけではありません。でも、少し田舎に行くと、周りは殆ど白人で、自分は少し浮いているかも?と感じることはあります。例えば、僕の住んでいる辺りでは、アジア人は殆どいないので、他の人より目立ってしまう様です。
例えば、僕の息子が幼稚園に行っていた時、一度父兄参観日があって、その時に一度だけ会った人に散歩中に再会した時の会話がこんな感じでした。
「やあ!こんにちは。君、確か、ヒロシだったよね。」
「えっ?、えーと、どなた様でしたでしょうか?」
「ほら、、、ダニエルだよ。10年ぐらい前に、幼稚園の参観日で一度、会ったじゃないか。」
「えーっ!!! 10年も前に一度会っただけなのに、よく僕の名前を覚えていらっしゃいましたね?」
「だって、この辺でアジア人って、、、珍しいからね。だから覚えていたんだ。」余程、僕の印象が強かったのでしょうか。それとも余程この人は記憶力が良いのか。不思議な体験でした。
最後になりましたが、今、日本とオーストラリアは友好国で、貿易も盛んで、観光客も多く、最近では準軍事同盟国の関係にあります。しかし、これは日本ではあまり知られていないことのですが、太平洋戦争中、日本軍はオーストラリア軍と戦火を交えていたのです。北部準州のダーウィンという町の都市部と軍港と飛行場は、日本海軍の242機のの空襲にさらされ、非戦闘員を含め250名以上の命が奪われました。これは、オーストラリア本土が他国に攻撃を受けた最初で最後の重大事件でした。
更に戦時中、日本軍は、捕虜に対してあまりにも残酷で、多くのオーストラリア人が拷問されたり、栄養失調や病気で亡くなったことが終戦後にオーストラリア国民の間に知れ渡りました。それで、今でも年配の方の中には日本人に対して、残酷な民族だという考えを持たれている方々がいらっしゃいます。
これは、北方領土占領後、又は日本人のシベリア抑留後、日本人がロシア人に対して抱く憎悪の感情と似ているのかも知れません。戦後80年近く経った今でも、ここに移住した日本人は、先人の過ちを背中に背負って生きていかなければならないことは確かです。僕は普段、大平洋戦争のことなど全く気にしませんが、毎年4月25日のアンザックデーという過去の戦争で亡くなった軍人の慰霊祭の日には、日本人として多少、複雑な心境になるのは僕だけではないでしょう。
では、明日も、このブログでお会いしましょう。