今日のメルボルンは朝から雨模様で、最高気温は13度程寒い冬の天気が続いています。2,3日前から喉の痛みを訴えていた21歳の娘と17歳の息子は今朝のコロナ簡易検査キット(RATテスト)で陽性反応が出ました。これで、今日現在、我が家では感染者が僕を含めて3人になりました。幸い妻は今の所、感染していないので、買い物や料理や後片付けは妻がしてくれています。
症状は僕が時々咳とくしゃみ、子供達は喉の痛みと鼻水です。検査キットがなかったら、普通の風邪だと思ってしまったでしょう。
今日は僕と子供達は朝から薪ストーブの前で、過ごし、このブログを書いたり、ニュースを読んだりしていました。妻はちょっと離れて、リビングの反対側で過ごしました。では、昨日の続きアメリカ留学のその後をお話していきます。
日本に帰ってきて、直ぐに近くの工場でアルバイトを始めました。米国の大学も卒業して帰ってきたのに、まともな就職先がないのは、両親にとって悪夢だったと思います。週末に、特に行く場所もなく家でゴロゴロしている僕を見かねた両親は「これからどうするの?折角アメリカで4年も留学して帰ってきたのに、何で日本で就職しんの?」と、とても不安げに聞いてきました。
以前ブラック企業で働いた経験から、「日本で就職するのはまっぴらだ。」と日本脱出を決意していました。日本で沢山の外国人が英語を教えている。その反対に、外国で日本語を教えられるのでは?と考え調べてみると、オーストラリアでは日本語教育を含めた外国語教育が盛んだということを知りました。
その頃、日本の大学時代のアメリカ人の恩師からの紹介で、日本語教育学会に来日中のオーストラリア人の教授と話す機会に恵まれ、「努力次第でオーストラリアで教育の仕事に携わることは可能。」と聞いて、メルボルンのモナシュ大学で応用日本語言語学の修士課程に応募をすることを決めました。
当時1990年代半ばの授業料は年に1万ドル(100万円)、プラス下宿代や食費が50万円程でした。幸い、貯金はまだかなり残っていて、翌年の2月の大学の授業が始まる前までアルバイトをすれば、2年程留学することができました。
翌年の2月、メルボルンで3度目となる留学生活を始めました。最初、戸惑ったのはオーストラリア訛の英語です。アメリカ英語にはない独特な言い回しや単語もあって、何を言っているのか分からないことがよくありました。それも、2、3か月でだんだん慣れてきましましたが。
このモナッシュ大学日本語応用言語学のコースは大学で日本語を教える講師の養成コースでした。ただその頃になると大学の日本語講師は飽和状態で、修士課程を終えたところで講師の空きがあるのかどうか不安な状態でした。しかも毎年10人程の日本人がそのコースをしています。講師として就職できる見込みは限りなくゼロに近い状態でした。それで、思い切って修士課程一年修了時に教員養成課程に編入することにしました。中高レベルなら教師の空きが多い(どうして空きが多いのかは後に仕事を始めて分かりましたが、、、。)し、当時大学院レベルのこのコースGraduate Diploma in Educationは一年で教員免許が貰えたのでした。
現地の中学高校(オーストラリアでは6年のセカンダリースクール)3校で合計10週間の教育実習を終えて、日本語及び数学の教員免許免許を取得し、翌年は念願が叶い田舎のセカンダリースクールで就職することができました。
赴任先の校長にビザのサポートをしてもらい、まず労働ビザ(Temporary resident visa)を取得、3年後には個人で永住ビザを申請して受理され、晴れてオーストラリアに永住権を取得しました。その直後に運よく友達のパーティーで今の妻となる人に出会い、今日に至ります。
ちなみに見出し写真は今日の薪ストーブ。ミカンやオレンジの皮はストーブで乾かすと部屋中にいい香りがして、乾くとよく燃えるので焚き付けに使えます。お鍋で温めているのは今日の晩御飯。妻が昨日作ってくれたチキン・カチトリという鶏肉と野菜の煮込みスープです。では、また明日、このブログでお会いしましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます