篠原美也子の1995年のナンバー『名前の無い週末』を、セルフカバーアルバム“SPIRAL”(2003年)から、聴いてみる。
閉じても終わっても始まる、週末の終末時。
篠原美也子“Tokyo 22:00”(1994年)を、アルバム『いとおしいグレイ』(1994年)から、聴いてみる。
土曜22時。明日は、とりあえずホット出来る?
1998年の篠原美也子のシングル“Still”から、1998年のナンバー『淋しいのは』を、聴いてみる。
無くならない感情、それを抱いて、また、時は過ぎ行く。
篠原美也子“pulse”(2007年)を、アルバム『桜花繚乱』(2007年)から
、聴いてみる。
この脈打こそが、ここにある、それをただ言うだけの場合もある。
篠原美也子の2005年のアルバム“us”より、『まだ見ぬ明日の為に』(2005年)を、聴いてみる。
まだ見えない明日は来ないが、見える今日なら幾つ来ているだろうか?
篠原美也子の1993年のシングル『誰の様でもなく』を、聴いてみる。
屋根裏にあった佳作曲の息遣いをここに…的にセレクトするのは、何度目でしょう?
篠原美也子の1995年のナンバー、『名前の無い週末』をシングルで、聴いてみる。
昼まっから聴く、自分の気紛れさには、笑いしかない。
篠原美也子の『雑草の流儀』(2017年)を、アルバム“Lighthouse Keeper”(2017年)より、聴いてみる。
無名の地にも、活きる姿はあるものである。
1994年の篠原美也子のアルバム『いとおしいグレイ』より、1994年のナンバー『なつかしい写真』を、聴いてみる。
来て欲しい明日を、思い願っていた頃の自分のアルバムと変わってしまった、或いは、想い願うものに辿り着いた誰かの事が、何の前触れもなく、思い出される瞬間はあるだろう。
1997年の篠原美也子のアルバム“Vivien”から、1997年のナンバー『春の日』を、聴いてみる。
画に描いた、逢う、と言う物語に、切なさは要らないが、物語へ魅力は与えられるから、不思議である。