読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

蜩ノ記 葉室麟 祥伝社文庫

2019-02-04 20:36:38 | 読んだ
読もう読もうと思って昨年9月に購入していたのだが、なんだかアレで読まずにいたのだ。

何故読もうと思ったかというと、映画を見るためである。
原作のある映画(邦画)を見るときは、原作を読んでいないとなんだかイヤなのである。
何故なのか?はわからない。

もしかしたら、あの角川映画「人間の証明」のテレビコマーシャルで流れた
『読んでから見るか、見てから読むか』
の影響かもしれない。

あの時は「読みながら見る、見ながら読むか」ではだめなのか、なんて思ってたけれど。

あのあとからは、原作を読んだ映画を中心に見ていた。

というようなことから、BSで映画を見る前に読もうと思っていた。
が、間に合わず、映画を先に見て原作を後から、つまり「見てから読む」になってしまった。

映画と原作というのは、原作の世界をどう映像化するか、ということと、原作との違いがどう生きているのか、ということである。
私は、原作のとおりの映画であろうと、原作と違う展開の映画であろうと構わないので、その違いというのも見どころになるわけである。

そんなわけで、今回はその楽しみがなくて映画を観たのである。
そして、原作である。

映画を観てから時間をおいて読んだせいか、原作と映画では大きな違いがなかったように思えた。
一部、原作に登場する人物が映画では省かれていたくらいかもしれない。

葉室麟の小説は、藤沢周平の描く世界に似ている、と最初に読んだ時から思っていたが、本作は「羽根藩」シリーズの第一作で、藤沢周平の「海坂藩」シリーズとの何らかの関係性を感じる。

葉室麟と藤沢周平の描く世界が似ているというのは、どちらも人の持つ「普遍性」を中心に描いているからだと思う。



本書の主人公:豊後羽根藩の元郡奉行戸田秋谷は、7年前に前藩主の側室との密通の罪で家譜編纂と10年後の切腹を命じられている。
10年後には確実に死ななければならないのである。しかも自らの手で。
罪は冤罪である。

檀野庄三郎は、親友と城内で刃傷沙汰を起こしたが、特別の計らいにより切腹を逃れ、秋谷の下に家譜編纂の補助と秋谷の監視に派遣された。

庄三郎は、非常に悲惨で残酷な運命の中にいる秋谷とその妻そして秋谷の娘と息子との生活する中で、秋谷の清廉さに触れ、村人たちとの交流により、人間として成長していく。

物語は、秋谷の寡婦編纂における謎解き、村人と羽根藩との確執などを経ながら、最後に向かう。

さて、秋谷は切腹するのか?
切腹の意味はなんなのか?

読み終わると、大きな澄んでいる空気に包まれ、生きるということのありがたさを知る。

死にたいと思えるのは、もしかして幸福で贅沢なことなのかもしれない、本作の設定を知るとそう思う。

映画とは別の感動がある。

その姿を見た、
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継続捜査ゼミ 今野敏 講談社(キンドル本)

2019-01-27 21:20:14 | 読んだ
近頃は「kindle(キンドル)」での読書が多くなった。
持ち運びに便利だし、寝転がって読むのも楽だし。



以前はどこかへ行くときには、どの本を持っていこうかと悩み、途中で読むものがなくなることの危機感、涸渇感を予防するため2~3冊を持ち、結局は読めなかったり・・・

kindleは、その辺がいい。読みたい本はあらかじめ購入しておけばいいし、途中で読みたいものが出てきたらダウンロードという手がある。課題は、書籍にあってkindleにない本があることだが、どうしても読みたいならば書籍を購入すればよい。
兎も角、今はkindleで本を読むことにあまり違和感を感じなくなってきている。

というわけで「継続捜査ゼミ」である。
今野敏の警察小説といえば、私はなんといっても「隠蔽捜査」シリーズである。主人公:竜崎信也の変人っぷりが「正しい」ということが痛快である。変人なのに正義というか、正義を全うするには変人にならなければならない、というところがいい。
正義を貫けば事件は解決するという当たり前のことが、すごく難しいということを知っているから、読めばカタルシスを得る。

継続捜査ゼミの主人公「小早川一郎」もどこか竜崎を思い浮かばせるというような、この本の紹介文を読み、それでは読んでみようかと思ったのである。

小早川一郎は、警視庁を退職後に幼馴染の幼馴染の三宿女子大:原田郁子家政学教授の紹介で三宿女子大の人間社会学部准教授となり、その年教授となった。専門は「刑事政策概論」である。
教授となったその年、3年生を対象に刑事政策演習ゼミ(継続捜査ゼミ)を開設する。
この設定が、ありそうでなさそうで「んな、アホな!」という突っ込みを入れたくなるところだが、探偵小説の設定はそんなものではなかろうか?

ゼミ生は5名。当たり前のことだが全て女子である。

小早川教授はゼミの演習として、未解決事件を取り上げる。つまり「継続捜査」をゼミで行うのである。
いい設定ですよ、是非テレビドラマとしてやってほしい。
5名のゼミ生の、身体的特徴、得意技(?)まで設定しているので、いいかもしれない。

そして、このゼミにはオブザーバーとして警視庁からも現職刑事、警察官が最終的には4名が参加する。
そりゃ、女子大生と一緒に事件を考えるのだから、誘わなくてもやってきますよ。
それに正規のゼミの後には、飲み会があるのですからね。

取り上げた事件は15年前に発生した「強盗殺人事件」
この事件を5名のゼミ生は少しづつ解いていきます。
その間に、このゼミでは実際に学内で起きている事件をも解決していきます。

女子大生たちの得意技をうまく発揮させ、小早川の経験と合わせて事件を追っていくのは面白いです。
何しろ、現場検証やら証人たちへの聞き込みまでするのですから・・・

というわけで、このシリーズ注目です。(継続捜査2も既刊です)

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トラぺジウム 高山一実 KADOKAWA

2019-01-25 10:48:56 | 読んだ
私が、乃木坂46のファンであることを知っている人は少ないが確実に存在する。
しかし、『推しメン』が<かずみん>こと高山一実であることを知っている人はまずいない。
なぜなら、乃木坂46でそこまで突っ込んで話をする人がいないからである。

そもそも、私は中学時代から「アイドル好き」で、いろいろ注目をしてきている。
近年はAKB48にもはまっていたのであるが、何しろあそこは系列を含めるとメンバーが多すぎる。
目移りする、というよりは、誰が誰だかわからなくなってしまった。
そこに登場したのが乃木坂46であって・・・・

まあ、私の場合はテレビとかユーチューブとか雑誌とかでみるだけであって、そんなにコアなファンではないのであるが・・・

アイドルの話は、とてもとても長くなるので、また後日することとして、

今回は推しメン高山一実の小説「トラぺジウム」である。



表紙の帯には
『現役トップアイドルが描く』
『アイドルを目指す女の子の10年間」
とあり、小説家中村文則の「これは一つの青春の終わりから、次の青春へ向かう物語」というメッセージ。



帯の裏側には、小説家羽田圭介の「時折あらわれる、鋭い“いじわる”表現が良い」というメッセージがある。

ちなみにこの本はアマゾンで予約して購入しました。

12月24日に届いて、まあ2~3日で読み終わるだろうと思っていたのだが、なんと半月ほどかかってしまった。

その原因は「読みづらさ」にあるんだと思う。
近頃の若い子が書いている文章なので、なんとなく違和感がある。

それはまさに「ジェネレーションギャップ」であった。そして「アメイジング!」

サンドウィッチマンの「ちょっと何言っているかわからない」状態で、ページが進まなかった。

『まるで純金インゴットのような光を放つ彼女』『5畳に凝縮された部屋』『母親の買ってきた服をそのまま着ているようなコーディネートは好印象である』『角膜レベルでの変態』

なんだ?何故だ?
ということで、なかなか前に進まなかった。

私はディテールや比喩などにはあまり反応しないタイプなのであるが、今回はそれに引っかかってしまった。

でも、中1日とか2日とかで読んでみて(ときどき前に遡って)、徐々に、そのペースというか形態というかやり方に慣れ始めてきた。

もしかしたらジェネレーションギャップを埋めることができるのか?
ポジピース!

『理想は一人で描くもので、期待は他者に向けてするものだ。もう期待することはやめよう。』
『見上げると空が青黒い。コケの生えた青いプールサイドと茶色い水は今の自分にふさわしい。』

主人公「東ゆう」(あずまゆう)にそう言われると応援したくなるではないか。

さて、この物語は、主人公「東ゆう」がアイドルをめざして、自分で計画を立て実行していく物語である。

自分を含めて4人のユニットを結成するところから始まり、そのユニットをどのようにしてアイドル化していくかがつづられている。

その間には、いつもの挫折があり、いつもの成功があり、いつもの失敗がある。
「いくつも」ではなく「いつもの」という、ごくごくあるだろうというレベルである。
つまり、ストーリー的には『まあ、なんというか』のレベルなのであるが、主人公の気持ちを語るところが通常の成功、失敗、挫折と違う。

もしかしらもう古くなっているのかもしれないが、私から見れば、今の考え方、今の言葉、今の行動力で主人公は進んでいく。

私はいつも若い人に対して「その自信はどこから来るのか」「自分がよければ他人もいいのか」なんで考えていたのだが、この小説を読むと、根っこの部分では以前と変わらないということがわかる。

いつの世のことでもあるが、やっぱり「生きづらい世の中」というのは普遍的なのであり、何が生きづらいのかということも普遍なのである。

それにしても、読み終わったときに感じた「ああ、おわり?」という気持ちは、物語の中から解き放たれた安堵だったのか、もうちょっと居てもいいかなという心のころりだったのか、自分でもよくわからない気持ちだった。



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ツバキ文具店 小川糸 幻冬舎文庫 withツバキ文具店の鎌倉案内

2018-09-13 11:35:33 | 読んだ


テレビで観た。
主人公のポッポちゃんは多部未華子だ。
鎌倉が舞台であることが見ようと思ったきっかけだ。

鎌倉については昔から気になっていた。
19歳の正月、鶴岡八幡宮でおみくじを引いたら「大凶」だった。こんなのあるかぁ!って思った。
それ以降、訪ねることはなかった。

それが、59歳(つまり40年を経て)になって、一人で北鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで歩いた。目当ては「紫陽花」だったが、少し遅かったようだった。でも、鎌倉良かった。
それから次の年も紫陽花を観るためでかけた。

最近の鎌倉を舞台にした物語では「海街diary」を観た、「DESTINY 鎌倉ものがたり」の映画を観た。そして、ツバキ文具店だ。私にとっての鎌倉三部作だ。
そしてこの鎌倉三部作は、映像を見た後、原作を読んでいる。(海街diaryと鎌倉ものがたりは漫画である)私にとっては珍しいことだ。

従って、今回この本を読んだのは、テレビで観たからなのである。本年8月に文庫化されたので、待ちに待った、というカンジである。
それでもって、読むのと並行してNHKオンデマンドで映像も見ている。
で、だいぶ原作と映像は違っている。
感想としては、どちらもOKだ。映像も許す!

さて、本書は4章からなっている。「夏」「秋」「冬」「春」である。
いずれも『鎌倉の・・・』である。

主人公のポッポちゃん(雨宮鳩子)は、母を知らない。祖母に厳しく育てられた。『おばあさん』と呼んだこともない。
高校生で、反抗しガングロになり、祖母離れをする。高校卒業後、家を出て暮らし、祖母が亡くなって帰ってきた。

そして成り行き上「ツバキ文具店」を継ぎ、祖母が行っていた「代書屋」も継ぐこととなった。

この物語の面白さは3つある。

一つは「代書」
全部で9つの代書が依頼されるが、一つは断る。
理由は、代書すべき案件でなかったからだ。

「私は確かに代書屋です。頼まれれば、なんだって書く仕事をしてますよ。でも、それは困っている人を助けるためです。その人が、幸せになってほしいからです。でもあなたは、ただ甘えているだけじゃないですか。ちゃんと正面から相手と向き合ったんですか?今どき代書屋なんて時代遅れな商売ですけれどね、なめてもらっちゃ困りますよ。そうやって、今までは生きてこられたかもしれませんけど、世の中はそんなに甘くないんです!そんなの、自分で書きなさいよねっ」(★p124)

ポッポちゃんの代書にかける「思い」である。

残りの8つの代書。初めての代書は「犬がなくなった飼い主へのお悔み状」それから「離婚のお知らせ」「昔の彼女へ単に無事を伝える手紙」「借金の断り状」「絶縁状」或いは「すでに死んだ夫から認知症の妻へのラブレター」などなど。
まあ、一風変わった、手紙である。

そしてポッポちゃんは、使う筆記具、紙、そして封筒、切手まで、こだわる。
この「こだわり」は、一般常識、作法、思いやりなどなど。
これだけでも読む価値あり。

次は、祖母(ポッポちゃんは先代と呼ぶ)との確執を思い出しながら、祖母に近づいていくところである。祖母に近づくことは自分を探す旅でもある。この内省的な旅も読みごたえがある。
代書でのこだわりは、つまり祖母のこだわりでもあり、代書するということは祖母を認めていくということでもある。

3つ目は「鎌倉」が良くかけていること。鎌倉を知らない私が「良くかけている」というのもナンなのだが、鎌倉が身近に感じる。
それはポッポちゃんの友だち、バーバラ婦人、男爵、パンティー、QPちゃん、QPちゃんの父のモリカゲさん、などの登場人物たちに負うことも大きい。

また、鎌倉に行ってみようと思う。もしかしたら、街角で、ポッポちゃんやバーバラ夫人、或いは海街diaryの4姉妹、更には物の怪に遭えるかもしれない。
そのときには『ツバキ文具店の鎌倉案内』が役に立つ。



「春」の章の最後で、ポッポちゃんは先代に手紙を書く。
これが涙なしでは読めない。

ちなみに、続編の「キラキラ共和国」が出版されている。
文庫まで待つか、悩んでいる。
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美貌のひと 中野京子 PHP新書

2018-09-06 14:59:09 | 読んだ


近頃は、中野京子さんの本を見ると購入意欲が非常に高まる。

「絵画」というものの見方について、中野さんの著書で大いに勉強させてもらった。
(その勉強が身についているかどうかは別として)


「絵」を読む。ということを知らなかった。
「絵」は鑑賞=見る、ものだと思っていたのだが・・・

絵の中には物語がある。
物語を絵にしている。

題材を作者が自分なりに解釈し表現しているものが「絵画」(大きく言えば芸術)なのだ、ということを教えていただいたのである。

目に見えるものを絵にするというのは、ド・ド・ド素人のすることらしい。

私は、想像するのは好きだが、想像を具現化するのは不得意であるからして、そういうことを一回も考えたことがなかったのである。

もともと意味や物語のある絵画作品は、その意味や物語を知った上で鑑賞するのが作品や画家に対するリスペクトではないか(オペラを観て、ストーリーなどどうでもいい、演奏のうまい下手だけが大事、などという観客がどこにいるだろう?)。絵は自分の感性でのみ見ればよい、知識は不要、という日本の美術教育は誤りではないのか・・・・(p55)


多くの主題を多くの人々が描いている。
その表現の方法は、その人、その時代を表している。
つまり「絵画」はその人の解釈でもある。

というようなことを、説明されると非常に面白い。

近頃、よく美術館に行くのは、本に掲載されているもの、或いはネットで検索したもの、だけではわからないものを感じに行くのである。
音楽も、あまりうまくないけれど「ライブ」が感動するように、やっぱり現物を見ないと感動しないところがある。

本書「美貌のひと」は『歴史に名を刻んだ顔』が紹介されている。

第1章 古典のなかの美しいひと
第2章 憧れの貴人たち
第3章 才能と容姿に恵まれた芸術家
第4章 創作意欲をかきたてたミューズ

となっており、23の顔40の作品が紹介されている。

表紙の絵は「忘れえぬ女(ひと)」イワン・クラムスコイで、『北方のモナリザ』ともいわれるものだそうである。
モデルとしてあげられているのは、トルストイの「アンナ・カレーニナ」ではないかといわれている。
しかし、アンナ・カレーニナは現実の女性ではなく、フィクションの人なのである。

こういった、いわば「謎解き」が本書或いは中野京子さんの著書にはあふれている。

それにしても、中野さんの著書には名言がいっぱいである。
本書から何篇か紹介しておこう。(美貌にフィーチャーした)

美貌は確かにチャンスを引き寄せるが、それを活かせるかどうかのその先には、意志と知力と官能が必要だ。それらすべてを備えた女性に、太刀打ちできる男などいない。(p15)


繰り返すが、名画は伝説を生む。(p39)


美貌だから愛されて当然というのは思い込みにすぎない。恵まれた容姿は誰に対しても眼福を与え、多くの視線を集めるが、それだけだ。愛や恋はその先にある。美貌はチャンスを増やしても成功を約束しない。(P75)


我々の心のどこかに、美貌それ自体が驚異であるからには、人生もまたそれに釣り合う非凡さであって欲しいとの、奇妙な期待がある。しかし必ずしも現実がそうとは限らない。


まだまだあるが、おしまい。
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昭和の怪物 七つの謎 保坂正康 講談社現代新書

2018-08-18 15:17:58 | 読んだ


「七つの謎」とは、目次は次のとおりである。

1.東条英機は何におびえていたのか
2.石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたのか
3.石原莞爾の「世界最終戦論」とは何だったのか
4.犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか
5.渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか
6.瀬島隆三は史実をどう改竄しのか
7.吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか


この本のどこに興味を抱いたのかというと「東條英機」である。
これまでもいろいろと本を読む中に、東條英機に関わるところがあった。
その評価は、概ね否定的ではあるが、幅がある、と感じていた。

人物の評価はその時々によって違う。
勝海舟は「知己を千載の下に待つ」といって、人物の評価は100年以上を経ないと顕れないと言っている。
東條英機は没後70年である。
まだまだ真の評価は行われていないだろうが、筆者の保坂さんはこれまで私が読んだ評者では若いので気になった。

東條英機の評価で私が理解していたのは、陸軍軍人・官僚としては優秀だが『人の上に立つ』タイプではない。ということであった。

東條英機は何におびえていたのか?
私の読み込み不足なのか、その答えは明確に表されていないように思える。(右翼テロに遭うかもしれない、という文章もあるが・・・明確ではない)

この本では東條の秘書を務めた赤松貞雄へのインタビューが多く用いられている。
赤松は東條に好意的であるが、著者の保坂の質問には真摯に答えている。

多くの資料や証言を基に、著者は次のように著わしている。
『大日本帝国の軍人は文学書を読まないだけでなく、一般の政治書、良識的な啓蒙書も読まない。すべて実学の中で学ぶのと、「軍人勅諭」が示している精神的空間の中の充足感を身につけるだけ。いわば人間形成が偏頗(へんぱ)なのである。』
として、こういうタイプの政治家、軍人は3つの共通点を持つ、といっている。
それは
「精神論が好き」
「妥協は敗北」
「事実誤認は当たり前」
であり、これは安倍晋三首相と似ている、とも書いている。

そして更に、日本には決して選んではならない首相像があり、先述の3点に加えてさらにいくつかの条件が加わるが、つまるところ「自省がない」という点に尽きる、とのこと。

フーム。
この本は、過去を振り返りながら、実は現実を批判している、現代に物申している、のだ。

そう思って、新たな視点というか考え方でこの本を読むと、これからの日本を考えることになるのだ、と知る。
それは大変重いことなので、できる限り「アッサリ」と読むことにした。

とはいえ、やっぱりいろいろ考えさせられる。

例えば、軍人たちと同様に「勝つ」ことが求められるスポーツでは、科学的なトレーニングや考え方が取り入られているにもかかわらず、最終的には「精神」が重要になり、勝つためには手段を択ばない、風潮がまだある。

我々が、国を存続させるのは、我々の『つましい幸せ』を継続させるためである。
大きな幸福の裏には大きな不幸があるということを忘れてはならない。

スポーツで学ぶのは、その試合に勝つためには不断の努力の大切さが大事なんだということと、勝利というささやかな幸福を得るためである。勝利によって得られる大きな利益ではないんだ、ということを考えさせられた。

東條英機の部分に限って綴ってしまったが、他の人々の章もかなり深く考えさせられた。

人というのは複雑で、身体的だけでも、表・裏、右・左、上・下がある。いわんや心の裡は、時の流れという軸もあって分析は難しい。
そういう意味で、人物評論は面白い。評論される側だけはなく、評論する側も試されているような気がする。
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義母と娘のブルース (上・下) 桜沢鈴 ぶんか社

2018-08-14 16:36:30 | 読んだ




現在、TBS系でドラマ化されている。

そのドラマを偶然見てから「これは面白い!」となり、「ならば原作を!」ということで購入。
テレビドラマもなかなかの人気らしく、ヤフーでも話題になっている。

テレビドラマでは主人公の義母役を「綾瀬はるか」が演じており、いわゆる「ぶっ飛んだ」演技が馬鹿にうける。
テンポが速く、場面場面でいちいち「オチ」がつくなあと思っていたら、原作は「4コマ漫画」であった。

上巻の帯の裏には
今、一番泣ける4コマ
とある。

テレビドラマでは、現在のところ、親子3人で暮らしているが、この物語は、娘の「みゆき」が結婚し、娘が生まれ、そして「亜希子さん」が亡くなるまで続くので、大河といえば大河なのである。

業田義家の「男の操」のように、4コマ漫画だって、笑ってオチがあるだけでなく、泣けるし、大河にだってなるのだ。

物語は、普通の世界で異常な人が織りなすものと、異常な世界で普通の人が織りなすもの、の二通りだと私は思っているが、この「義母と娘のブルース」は前者である。
しかし、徐々に、異常な人である「亜希子」さんに慣れていき、行動のパターンを読めるようになる。
「なる」のだが、それがまた徐々にずれていくのが楽しい。

テレビドラマは、本日から第2章。つまり、小学生だった「みゆき」が高校生になるという。
小学生のままでまだまだ物語は膨らませそうだったけど、原作に忠実に描くようである。

私は、近頃、原作を知らずに映像から入っていくパターンが増えた。というのもテレビドラマで私が好んでみるのが漫画が原作のものが多いようだからだ。もしかして、小説とかの原作はあまり映像化されないのかもしれない。

そのなかで、まだドラマが継続しているのに原作を読むのは、原作を読んでもドラマの面白さは変わらないと思うからである。
この「義母と娘のブルース」は、原作を読んでテレビドラマがますます楽しくなりそうである。
とりあえず「今夜」はどうなるのだろうか?

追伸
で、今、原作を買うかどうか迷っているのは、NHKで放映されている「透明なゆりかご」なのだ。




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キャンティ物語 野地秩嘉 幻冬舎文庫

2017-09-14 11:11:04 | 読んだ


「キャンティ」という店があるということは、なんとなく知っていた。

何を知っていたのかというと、ブルジョアたちが集まって好き勝手なことをしていて、それが「文化」と呼ばれていること。
くらいだった。

そういう店は、私にとっては異次元の世界のことなので、興味もなくどちらかと言えば毛嫌いしていた、と言える。

では、なぜこの本を読んだのか?
それは、林真理子の「アッコちゃんの時代」という物語を読みたくなったからである。
アッコとは川添明子で、まあ、なんというか『奔放』『魔性』というありふれた言葉で形容されている女性である。
そのアッコについて、ネットなのでなんとなく見ていたら、ちょっと知ってみたいと思ったのである。

何故、そのような気持ちになったのかは自分でも説明のしようがないのであるが、ともかくも「アッコちゃんの時代」を購入すべくアマゾンで検索したところ、この本と一緒に読まれているものとして「キャンティ物語」が紹介されていて、では、まあ、つきあいましょう。ということで購入したのである。

本書の主人公は、アッコちゃんの時代の川添明子の夫(正確に言えば元夫)である川添象郎の父・川添浩史、そしてその妻・梶子である。

川添浩史の祖父は後藤象二郎である。
経済的には何不自由のない生活を送った。
となっているが、何不自由のない、ということは、こちら側の目線でいえば「贅沢三昧」である。

昨年、NHKの朝ドラ「ベッピンさん」の主人公も子供時代は何不自由のない生活をしていた。
そして没落を経てまた盛り返すのだが、その根本にあるのは「何不自由のない生活」であるように思える。

我々には思いもつかないことが日常的に行われていたのである。

本書を読むと、やはりそういう生活をしていた人種というか種族というか人たちがいたのは確かのようだ。

浩史は、我々が考えるようないわゆる「正業」に就かないのだが、生まれ持ったものを活かして(本人はそのつもりはないのだろうが)生きていく。

本書を読むと、やはり異次元の世界が語られている、と思う。
異次元の世界とは、私とは考え方そのものが違う、ということである。

もっと若い時に本書を読んでいると、絶対に、大きく反発をしていたと思う。
「なんだこいつら!」
という思いがするのである。

戦後、浩史が開いた店(イタリア料理店)が「キャンティ」であり、そこに集うのはある観点からみれば「一流の人」である。
大げさに言えば日本の新しい文化を牽引した人たち。
彼らがキャンティに集まった理由は、川添浩史、梶子夫妻の人柄だということ。

読み終えて「キャンティ」が現在も営業していることを知ったが、行きたい、とは思わなかった。
私には似合わない、敷居が高い、いっても窮屈なだけ、という風に思うのである。

ただ、川添浩史と梶子には会いたい、と思った。

そして「アッコちゃんの時代」を読もうと思う。


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倍賞千恵子の世界

2017-09-06 17:57:44 | 読んだ


倍賞千恵子と言えば
「男はつらいよ」

そして、山田洋次監督の映画にもずいぶん出演していて、概ね私がみたものでは「いいひと」でした。

それから私小さい時から、倍賞千恵子さんの「さよならはダンスの後に」が大好きでした。
テレビで、健康的な「下町の太陽」を歌うと少しがっかりしたものでした。

さて、本書は、倍賞千恵子さんがこれまでの役者人生・歌手人生を振り返って、印象に残った人や場面、そして役者という仕事の在り方や歌とのかかわりを綴ったものです。

映画とか舞台とかで役者をしたことのない私にとって(したいとも思いませんが)、演技するということは非常に難しいというものだということがよくわかりました。

脚本を見てセリフを言って、手ぶり表情をなんとなくそれらしくする。
というのと、
『その人物になりきってなおそれを見ている自分がいる』
ということは全然違うもの。

そしてその人物になりっきって演じても、監督が思い描くものと乖離があればOKにはならない。

だけどそれがOKになればこれ以上の快感はないんだろうねえ。

倍賞さんは「渥美清」そして「高倉健」という、いわゆる3枚目と2枚目と多く共演しているが、それが違和感がないと思っていた。
どちらかと言えば男はつらいよ以外の作品は、「さくら」が演じているのではないかと思うくらいだった。

だから、この本も「さくら」が書いたものではないか、なんて思ったりして。

映画、演劇、歌といったものは「職人」の集まりが「共同」して作り上げる、という、大変な世界なんだなと思う。
職人は「こだわり」を持っているので、その「こだわり」を多くの人の中でどう発揮していくのか、そして「こだわり」が多く発揮されたものが「名作」になるのではないかと思った。

それから、実は私、倍賞さんの出演している映画では「同胞(はらから)」が大好きです。



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想い雲 みをつくし料理帖03 高田郁 ハルキ文庫

2017-09-02 16:16:21 | 読んだ


みをつくし料理帖第3巻である。
NHKのテレビドラマはこのあたりまでが放映されたのではないか、と思う。

さて、本書は
豊年星 - 「う」尽くし
想い雲 - ふっくら鱧の葛叩き
花一輪 - ふわり菊花雪
初雁  - こんがり焼き柿
の4話が収められている。

で、先ずは主人公「澪」の成長が著しい。
そして、何回も言うが「えらい」「けなげ」である。
まあ、時々カッとなってムチャもするけど・・・

そういう主人公であるから、周りが何かと助けてくれるのである。

誰かに助けてもらいたいなら、だれでも助ける。
誰かに愛されたいなら、だれでも愛する。

ということなのだなあ、とつくづく思うのである。

さて、物語は、澪のためにかけがえのない珊瑚の簪を売った「芳」であるが、それを『つる家』の「種市」が見つけ買い戻した。
しかし、芳の子、天満一兆庵の佐兵衛とともに江戸で働いていた富三に騙されて取られてしまう。
一体、富三は佐兵衛とどのようにかかわっていたのか?
そして、土用の丑の日には「う」のつくもの、「うなぎ」を出さなければならないのだが、値段が高いつまり庶民には高根の花。
そこで澪が考えたのは?

また江戸では鱧をたべる習慣がないことから料理する人がいない。
澪が料理することとなるが、その場所は、澪の幼馴染の「野江」つまり「あさひ大夫」のいる廓、翁屋。
女には料理などできないと、翁屋の主人伝右衛門が機嫌悪く食すが、あまりのうまさに涙する。
自ら『鬼の目に涙』といい、澪を認める。
また一人、澪を助ける人が出てくる。
そして、思いもかけず、野江と近づくことができた澪。

商売繁盛の「つる家」とまねて女料理人を売りにする店が出始める。
そして、なんと昔の「つる家」の跡地に同じ屋号の「つる家」が出店。しかも女料理人。
登龍楼で、澪やふき、そしてつる家をひどい目にあわせた末松が開いた店であった。

それでも料理では負けていないので客は戻ると踏んでいたが、偽つる家が食中毒をおこし、本物のつる家も巻き込まれ、客足は遠のく。
起死回生につきに三回「三方よしの日」をつくり酒を出すことにする。
そして客足も戻りつつあるなか、新しい料理「菊花雪」を生み出す澪。

そんな澪を小松原は「駒繋ぎ」の花にたとえて
『その花は、いかなる時も天を目指し、踏まれても、また抜かれても、自ら諦めることがない』
『見習いたいものだ』
と告げる。

つる家の「ふき」の弟・健坊がふきを訪ねてきて
『登龍楼をやめて、一緒に暮らしたい』とうったえる。ふきは心を鬼にして登龍楼へ帰すが、登龍楼から健坊が帰っていないとの探しに来る。つる家に関わりのある人たちは健坊を探すがなかなか見つけられない。ふきはものを食べられない状態になってしまう。
そして澪も料理に身が入らず味付けを間違う。

そんな澪に「りう」が言う。
『どんな時にも乱れない包丁捌きと味付けで、美味しい料理を提供し続ける。天賦の才はなくとも、そうした努力を続ける料理人こそが、真の料理人だとあたしゃ思いますよ』

食べられないふきのために「やき柿」をつくり食べさせると、ふきは立ち直る様子。
そんな時に健坊がみつかり戻ってくる。

種市は、健坊を登龍楼から引き取る決意をするが、りう、芳に反対される。そして澪が
『私も健坊と似た境遇だからわかります。甘えさせてもらえるなら際限なく甘え、優しくされるのが当然になる―――そうなってしまっては駄目なんです』

ほんと泣かされる。

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棲月(せいげつ) 隠蔽捜査7 今野敏 小説新潮連載2016.10~2017.08

2017-08-27 23:45:18 | 読んだ
雨が続く夏、楽天イーグルスは負けが込み、仙台育英は春優勝した桐蔭学園を破ったものの敗退、8月後半は心が沈むようなできごとばかりで「あ~あ」というカンジであります。

ところが、そんなとき読書は進むわけです。
ということで、小説新潮8月号で最終回を迎えた、隠蔽捜査シリーズの最新版「棲月」を読んだのであります。



毎回のように言っていることでありますが、連載小説特に推理ものは毎月読んでも時々つながりがわからなくなるので、最終回を待ち、そして読む、ということをしているのです。ただし、すごく長い連載の場合は大変です。そんな時は、文庫が出るまで待つ。
つまり、私の読書は待つから始まるのであります。

さて、隠蔽捜査です。
題名の「棲月」というのは、筆者の造語ではないでしょうか?
棲むはおおむね住むということではありますが、「棲棲(せいせい)」は、あわただしいさま。忙しいさま。ということがネットで調べたらありましたので、その意味も込めてあるのかな、と思いました。

で、主人公の竜崎大森警察署長は忙しいのである。
ともかくも、書類の決裁をするのが大変である。
この決裁であるが、おおむね内容を見ずにハンコを押すいわゆる「めくら判」(不適切な表現の指摘は甘んじて受けます)がふつうであるのに、竜崎は書類に目を通すので時間を要するのである。

そして事件発生。

一つ目は私鉄のコンピュータ異常、続いて銀行も。
竜崎は、その事件が管轄を越えていることは承知だが、「最初に気づいた者が動く」という信念のもとに捜査員を派遣する。
管轄ではなく警察全部のこと、もっと言えば国民全体のあるいは社会の平和維持が警察の役目ということを認識しているからである。
社会や組織というのは、ナワバリとか役目に縛られているが、それが、全体の損につながることがある。竜崎はだから捜査員を派遣した。

で、そこに横やりが入る。
「それは俺の管轄だ、役目だ」
という人が現れる。
でも、竜崎は気にしない。
やるべきことは何か、が重要であって、誰がやるかなんて気にしないのである。

事件の最中なのにナワバリ争いでごたごたしている最中、幼馴染の伊丹刑事部長から電話あり「異動があるかも」と知らされる。
異動なんて言葉には動揺したことのない、というか異動なんて当たり前の事柄と受け止めている竜崎だが、なぜか大森警察署長から移動という言葉に心がざわめく。

また、長男にポーランドに留学したいと相談される。

そして二目の事件、殺人事件である。

殺人事件の捜査本部が大森警察署に設置され捜査が動き出す。

ということで、二つの事件とそれに関わるナワバリ調整、人事異動、長男の留学という大忙しになる。
そして住み慣れた大森警察署長室、官舎とも別れなければならない。
いや、それ以上に大森警察署長という、これまで経験したことのなかった職、部下たちとも別れなければならない。
ということが入り交ざっている。
それが「棲月」ということに表れているのではないか、と解釈したのである。



それにしても竜崎は私の心の師である。
「原理原則」は最も強いことである。それを貫くには強い人間でなければならない。
竜崎は「強い」ゆえに「変わり者」と評される。
変わり者は人の心をあまり考えない。
なにしろ
『俺の言っていることがずれているとしたら、ずれているのは世の中のほうだ』
というやつなのだ。

しかし、署長になってから竜崎は変わった、と妻・冴子から言われる。
それは、人の心を認めてきたのだということなのだろう。

事件の動き、陣頭指揮を執る竜崎の推理も面白いが、それに絡む家族との関係、署員との関係、も面白い。

隠蔽捜査シリーズは 面白い!
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私家版 椿説弓張月 平岩弓枝 新潮文庫

2017-08-21 20:32:52 | 読んだ


椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)である。
小学生のころ、この物語が好きで、よく読んでいた。
鎮西八郎為朝、礫の紀平治をはじめ、為朝方の勇ましいことすがすがしいことがよかった。
でも、なぜかいつも負けていたんだね。

原作は滝沢馬琴、それを平岩弓枝が原作を圧縮し加工したものだ(と解説者島内景二が言っている)

さて、原作の正式名称は「鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月」というのだそうだ。

主人公は、源頼朝や義経の叔父「源為朝」、頼朝、義経の父が嫡男で義朝、為朝は八男であるので八郎為朝。
義朝、為朝の父は為義である。

ちなみに、義経は九郎義経と名乗ったが、実は八男であるが、叔父八郎為朝と同じ八郎を名乗ることは恐れ多い、ということで九郎にしたという説があります。

さて、為朝は幼少のころから「弓の上手」といわれ、膂力胆力知力とまあありとあらゆる「力」に恵まれていた。

その為朝というか源氏と平氏が、朝廷の争いごとに巻き込まれ、為朝の勇名が上がるにつれそれを利用しようとする者や排除しようとする者が増え、父為義は為朝に一時都を離れ九州で身を隠すように指示した。

指示に従って為朝は九州に赴き、紆余曲折を経て、肥後の国で阿蘇忠国の娘白縫と結婚し、更には九州を平定する。
このことから「鎮西八郎」となったのである。

朝廷からの指示により都に戻ったところ、保元の乱に巻き込まれ、崇徳上皇側についた為義、為朝は負け、後白河天皇側についた源義朝、平清盛は勝った。

このことにより為朝は伊豆大島に流刑になるが、伊豆七島を実質支配する。そして追討を受ける。

とまあ、ここまでがどうも正史らしいのだが、源義経が平泉から蝦夷そしてモンゴルへ行きジンギスカンになったような、物語がこの「椿説弓張月」なのである。

為朝は伊豆大島から沖縄に行き、為朝の息子である舜天丸が琉球王朝の初代となる、というのが大筋。

この壮大な物語のために、ありとあらゆるところに伏線が張られ、奇想天外な出来事がおこる。
何よりもこの物語は「勧善懲悪」であるから、主人公たちが災難にあり苦しんでも最後には勝つ。

このあたりが、ご都合主義と言えばそうなのだが、でもやっぱり主人公が勝つに越したことはない。
非常に爽快感がある。
それに、敵役は本当に悪人なので、同情する余地もない。

こういう物語も時にはいいものだ。

「勧善懲悪」モノはも一つのジャンルとして伝えられてほしいものだ。
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偏愛の日本女優たち 小林信彦 文芸春秋連載中

2017-08-16 14:26:04 | 読んだ
小林信彦は私の大のお気に入りである。
「お気に入り」という言葉を、両親世代の人(1932年昭和7年生まれ)に用いるのも「ナン」ですが、ともかくこの人の考えていることに、いちいち頷いてしまうのだ。

近頃は「とんとご無沙汰」状態であった。
週刊文春にエッセーを連載しているが、今の週刊文春は「文春砲」などと呼ばれ、こういっちゃあなんだが「ゲスの極み」になってしまって、手に取るのも嫌になってしまった。

ついでに申し上げれば、誰かが不倫したとか、なんてどうでもいいような話題ではないか?
特に芸人にも清廉潔白を求めるのは「なんだかなあ」と思う。
これは「芸人」を卑下しているわけではなく(といったエクスキューズをいれるのも嫌なのだが)、芸人に求め評価するのはその「芸」であって、その芸の裏側が清廉潔白でなくてもいいと思うのだ。
また、政治家だって求め評価するのは「日本をよくする」ということに係る考え方と行動力である。

日本中が全て「清廉潔白」な人だらけにしよう!
という運動が日本で起きているようで、それが「いやらしい」ように感じているのは私だけだろうか。
小林信彦もそう思っているのではないか、なんて勝手に考えている。

閑話休題

さて、その小林信彦が、文芸春秋で「偏愛の日本女優たち」を5月号から連載を開始した。
不覚ながら、9月号で気づいたのだが、さかのぼって読んでみると、面白い。

5月号(第1回)若尾文子

6月号(第2回)淡島千景

ときたら、ああ昔の女優さんを取り上げているのね、年寄りの昔話なのね、と思うだろうが、

7月号(第3回)は綾瀬はるか、である。
これが、ばかにご贔屓らしく、べた褒めである。
全文ここに書き写したいくらいである。

「綾瀬はるかは女性に嫌われない。それははじめに述べたように芸能界への執着がないことと関係しているのではないか。(中略)『ひみつのアッコちゃん』のアッコちゃんまで演じるというのは、ただごとではない」

「すぐれたコメディアンヌ、アクション女優、グラビアスターであるのに、本人はまったく自覚がない。無意識過剰というやつだ。」

「セクシーではあるが、それは<無意識なセクシー>なのである。そこが綾瀬はるかの細田の魅力だ。」

すごいよね、昭和7年生まれのひとがここまで綾瀬はるかの映画、テレビドラマなどを見て感じたことを書くなんて。
『八重の桜』の感想なんて、ドラマの後半は八重(綾瀬はるかの役)の出番が減ったことに対して
「彼女を出しておいて見せないとはどういうことか。ひそかに憤慨したものだ」
と綴っている。

8月号(第4回)は芦川いづみ

若尾文子、淡島千景、芦川いづみは、私などは、リアルで見たときはすでに大女優であったからか、概ね決まった役をやっていたように思える。

この人たちがあって、今は綾瀬はるかに続く、ということであれば、その間にもいろいろと興味を引く女優たちがいたんだろうなあ、と思う。
そういえば「本音をもうせば」シリーズで『あまちゃんはなぜ面白かったのか』という本があった。

9月号(第5回)は長澤まさみ
「いま、もっとも気になるヒトを一人あげてくれと言われると、筧美和子をあげることとしている。」
から始まる。
そして誰もが知っているというほどでない、ことから論じるのをやめる。
次に、
「別な好みからいえば、堀北真希などはぜひ推したい。」
としながらも、いまはお休みのようだとしている。但し
「(前略)私は彼女のシブい映画を追いかけて観ているのだ」
としている。

そうやって、長澤まさみなのである。
まあ、長澤まさみの出演したものもよく観ていらっしゃる。
で、<陰気な長澤まさみ>が好きだといい、これから<陰気な長澤まさみ>の役をやる時でしょ?と結ぶのである。

3ページかないので、短いといえば短いのだが、そこにギュッと詰め込んでかつ読ませるので小気味のいいものになっている。

昔の女優さんと、今の女優さんをずっと書いていってほしいと思うのである。
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花散らしの雨 みをつくし料理帖2 高田郁 ハルキ文庫

2017-08-14 17:47:45 | 読んだ


一言でいえば「健気」なのである。

主人公の澪を見ていると応援したくなる。
一生懸命に生きている。だから、誰かの何気ない言葉、ちょっとした季節の変化を料理に生かすことができる。

それなのに、彼女の周りで起こるのは「不幸」な出来事ばかり。
その不幸を乗り越えていくところがこの物語の核である。

第2巻には
俎橋(まないたばし)から-ほろにが蕗ご飯
花散らしの雨-こぼれ梅
一粒符(いちりゅうふ)-なめらか葛饅頭
銀菊-忍び瓜
の4編が収められている。

つる家の料理が登龍楼に次々と真似をされる。「ふき」という娘がつる家に来てからである。
この問題をどう解決するか。
「ふき」の幸せと、つる家の料理の独自性、澪は周りの人たちと真正面からぶつかる。

幼馴染の「野江」今は吉原の「あさひ大夫」が客に刀傷をおわされて心配する澪。
そして、差し入れに懐かしい味の『こぼれ梅』を作り、野江と遠い再会を果たす。

太一とその母「おりょう」が相次ぎ麻疹(はしか)に罹る。
そんな時に限って、周りでは大切な出来事が起こり、そっちもこっちも、という状態になる。

つる家の人手が足りなくなり、口入れ屋が「ふき」のことの罪滅ぼしだといって、実の母「りう」を手伝いによこす。
この「りう」が75歳ながら、なかなかの働き、そして、災い事に取り囲まれているような、つる家の人々を励ます。

そして澪にも多くのことを教える。
そう、昔の年寄りは経験を伝える、若い人を救うことで、世の中の役にたっていたのだ。

「食べる、というのは本来は快いものなんですよ。快いから楽しい、だからこそ、食べて美味しいと思うし、身にも付くんです。それを『たべなきゃだめだ』と言われて、ましてや口に食べ物を押し付けられて、それで快いと、楽しいと思えますか?」

「まずはあんたが美味しそうに食べてみせる。釣られてつい、相手の箸がのびるような、そんな快い食事の場を拵えてあげなさい。」


いいこと言うよねえ。
そして、料理のことだけでなく

恋は厄介なものなのか、という澪の問いに対して「りう」は

「厄介ですとも。楽しい恋は女をうつけ者にし、重い恋は女に辛抱を教える。淡い恋は感性を育て、拙い恋は自分も周囲も傷つける。恋ほど厄介なものはありゃしませんよ」

「けれどね、澪さん。恋はしておきなさい。どんな恋でも良いんです。さっきは心配だなんて言いましたがね、あんたならどんな恋でもきっと、己の糧に出来ますよ」

ああ、こんなこと言ってみたい!

ご寮さん、つるやの種市、伊佐三・おりょう・太一一家、小松原(小野寺)、源斎先生、又次、清右衛門、伊勢屋の美緒、澪の周りにいる人たちは、みんな澪の味方である。
できることなら、私もこの物語の中に入って澪を見守りたい。
そんな気持ちにさせられます。

さあ、第3巻へ。
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BAR レモン・ハート 古谷三敏 双葉社

2017-08-11 16:44:03 | 読んだ


毎回、毎回、同じコメントとなるが、レモンハートのようなバーが近くにないのが残念だ!

以前には時々、マスターのウンチクに『若干くどい』という思いを抱くことがあったが、今は「で、もっともっと」と更なるウンチクを求めてしまう。

本32巻にはPART.409から420まで12のお酒が紹介されている。
日本酒、ウオツカ、ウィスキー、カクテル、ジン、ビールなどなど
その中で私が最も興味を持ったのが「リモンチェッロ」
注文してしまいました。

レモンハートのマスターのもっともよいところは「お酒はこれに限る」というところがないところ。
その時、その場所にもっともあうお酒を勧めてくれる。

したがって、日本酒であったり、ビールであったりして、我々が持っている「バー」というイメージ:すなわち洋酒のみ:ということを楽しく裏切ってくれる。

私は、その時その場所、そして体調と肴によって飲み物を変えたい、というタイプなので、ビール党でもなければ日本酒党でもない。
そして最も肝心なのは「お酒ならなんでもいい」というわけでもない。

このあたりが多くの人の誤解を生むようで、前回は日本酒を飲んでいたと思えば今回はウィスキー、かと思えば格安のサワー。
まあ、浮気者と言われれば「ハイ、そうです」と答えるしかないが、私は「〇〇党」という人のほうが信じられない。
信じられないという言い方がアレであれば「スゴイ!」と思う。

あれも飲みたい、これも飲みたいという気分は持ち続けているが、今は、あれも飲めるこれも飲めるという体力がないので、できる限り、おいしくお酒を飲みたいと思っているが、おいしく飲める場所、時間が少なく、なにより相棒が不足している状況である。

今はリモンチェッロが到着するのを待っているだけである。


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