オール読物8月号で「新・御宿かわせみ」(平岩弓枝)が掲載され喜んでいたら、小説新潮8月号では「慶次郎縁側日記」が『復活!』と表紙にある。
「再開!」とか「復活!」という言葉は、近頃本当に嬉しい言葉である。
というわけで「乗合船」である。
物語は突如として、慶次郎の婿である晃之助が襲われるところから始まる。
kは、不覚にも賊に太腿を匕首で刺された。賊は『二十年前の恨み』で襲ったという。間一髪のところで、辰吉に救われたが、傷は深手で医師の庄野玄庵の治療を受けそのまま病間での治療(現代でいうと入院)することとなる。
その入院先で、医師が診るとどこも悪くないのに病間での治療を強く要請する女・お京と相部屋になる。
慶次郎は、kが襲われた『二十年前の恨み』とは自分への恨みであろうと考え、心当たりを、達吉や吉次をつかって探すこととする。
という、つまりはkを襲った者と、kと相部屋になったお京との、直接的ではないが人生における共通点がこの物語で描かれている大きな流れであり、それが題名となっている「乗合船」である。
お京がなぜ医師から見ればどこも悪くないのに体中全部が痛いと訴えるのか?
何故、20年間も慶次郎を恨み、更には婿であるkまで襲わなければいけなかったのか?
この理由がつまりは「乗合船」なのである。
といったって、この物語を読まなければちんぷんかんぷんでしょうね。
また、慶次郎は「仏」と呼ばれていたのに、何故恨まれるのか、もしかしたら自分は「鬼」なのではないか、と自問するところがある。
自分が仏なのか鬼なのかは、所詮「他人」が決めることである。
と思っているのは私であるが、慶次郎は二十年前の男から
「旦那は鬼だね」
といわれ、苦笑する。
玄庵の弟子で養子にしようと思っていた春宅が長崎へ留学するのを見送った慶次郎は「乗合船」に一緒に乗る人のことを思い浮かべる。
というのがラストである。
いつもながら、心の中が『ほんわか』とする物語である。
次回は10月号に掲載とのこと。じっくりと待つことにしよう。
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「再開!」とか「復活!」という言葉は、近頃本当に嬉しい言葉である。
というわけで「乗合船」である。
物語は突如として、慶次郎の婿である晃之助が襲われるところから始まる。
kは、不覚にも賊に太腿を匕首で刺された。賊は『二十年前の恨み』で襲ったという。間一髪のところで、辰吉に救われたが、傷は深手で医師の庄野玄庵の治療を受けそのまま病間での治療(現代でいうと入院)することとなる。
その入院先で、医師が診るとどこも悪くないのに病間での治療を強く要請する女・お京と相部屋になる。
慶次郎は、kが襲われた『二十年前の恨み』とは自分への恨みであろうと考え、心当たりを、達吉や吉次をつかって探すこととする。
という、つまりはkを襲った者と、kと相部屋になったお京との、直接的ではないが人生における共通点がこの物語で描かれている大きな流れであり、それが題名となっている「乗合船」である。
お京がなぜ医師から見ればどこも悪くないのに体中全部が痛いと訴えるのか?
何故、20年間も慶次郎を恨み、更には婿であるkまで襲わなければいけなかったのか?
この理由がつまりは「乗合船」なのである。
といったって、この物語を読まなければちんぷんかんぷんでしょうね。
また、慶次郎は「仏」と呼ばれていたのに、何故恨まれるのか、もしかしたら自分は「鬼」なのではないか、と自問するところがある。
自分が仏なのか鬼なのかは、所詮「他人」が決めることである。
と思っているのは私であるが、慶次郎は二十年前の男から
「旦那は鬼だね」
といわれ、苦笑する。
玄庵の弟子で養子にしようと思っていた春宅が長崎へ留学するのを見送った慶次郎は「乗合船」に一緒に乗る人のことを思い浮かべる。
というのがラストである。
いつもながら、心の中が『ほんわか』とする物語である。
次回は10月号に掲載とのこと。じっくりと待つことにしよう。
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