読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

三国志 第7巻 宮城谷昌光 文春文庫

2017-07-31 16:43:25 | 読んだ


ときどき、思い出したように読んでいる、宮城谷昌光著三国志。

文春文庫で全12巻。現在やっと7巻を完了。
これ、読むのがわりと疲れるのよね。

1.漢字が難しく、読みが大変。特に人の名前と地名。したがって時々「ふりがな」の部分まで戻らなければならない。
2.これは、この物語だけではなく、日本以外の場所で展開される物語は、よく場所がわからない。したがって地図が欲しい。
3.登場人物が多く、人物の関わり合いがよくわからなくなる。

ということで、戻ってみたり、地図を見たりしているので、どうしても読むのが遅くなってしまう。

若いころはそんなことはなかった。
とにかく、先へ先へと読み進んでいた。やっぱ「勢い」があったんでしょうね。

さて、第7巻は赤壁の戦いの後、劉備が呉の孫権をうまくいなしながら独立し、諸葛孔明の勧めに迷いに迷った末「蜀」で独立しようという流れが描かれている。

といっても、劉備だけの動静、劉備側からの視点だけで描かれているわけではなく、時には呉の孫権、周瑜などの状況、魏の曹操の考えなどが十分に描かれている。
だから、時や場所が、スッと転換されるので、時々「アレ?」ということになり、立ち止まってしまう。
ホント、こんなことはなかった。

そしてもう一つ、感動する文章、コトバ、が出てきて、余韻に浸ってしまうのである。
で、その余韻の中で、眠ったりするので、先に進めない。

更には意味不明つまりネットで検索しても出てこない熟語などが登場する。
これは前後の文章からなんとなく意味は推察できるのだが、モヤモヤ感は否めない。
例えば「持循すべき道」は、なんとなく前後のつながりからふわっと感じ取れるのだが、さて、では、となるとなんだかなあ、なのである。

さて、三国志といえば大体が劉備・諸葛亮孔明が善玉で曹操が悪玉というのが大方の相場である。
しかし、本書を読むと改めて「曹操」こそが英雄であり善玉だと思う。

劉備は「是非を明確にしない。思考を行動にうつすことができない」と著者は断じている。
他の著者による三国志を読んでいたが、劉備は確かにそういうところがある。
というか、曹操以外の二人には『社会をどうするか』という明確なものがなかったと思える。

ただひたすら「てっぺん」に登るため(策や謀をつかって)努力するひとたちは今でも見ることができる。
でも、そもそもその人が描く理想の社会が、絵にかいたようなものであったり、その場しのぎであったりすることが多い。

本書の曹操は「政府と社会を腐敗させる偽善を憎んだ」ゆえに時には「大量虐殺のような極端な行為に走った」しかし「詭妄(きぼう)」はなかった、と描かれている。

いわゆる天下取りを描いた物語は数多くある。
そして天下を取った者は、大きな社会の変革を正義で行おうとした者、つまり自分の中で「公」が「私」を勝っている者、ではないかと思うのである。
但し、途中で「私」が多くなると、どこかで転ぶ。

また「仁義なき戦い」は、私と私の戦いで、ゆえに「策謀」が勝負の分かれ目になっているように思える。
仁義なきとは「私」しかないことなのだろう。

三国志に戻ると、自分が理想とする社会と多くの人が理想とする社会が近かったのは曹操なのだと思う。
しかし、曹操が独り勝ちできなかったことは、他の二人を取り巻く人々がそれなりに優秀であった、劉備や孫権一人では曹操に対抗できなくても、取り巻く人々に力があったのだろうと思う。

まだまだ12巻まで遠いが、ゆっくりと読み進めていこうと思っている。

三国志の時代は長く続かず、三人の英雄が取り巻きとともに退場していくと、別の体制に変わっていく。
これは、たぶん「秦」の始皇帝によって中国が統一されその後劉邦が「漢」を建国した「体制」が社会にそぐわなくなり、三国志の時代で混乱する。混乱の中で、さらに中国の領域が広がる、またまた混乱が生じる。

この「混乱」は、今までの体制の外側との環境との接触が、体制を変えなくてはならない、という思いを生むんだと思う。

日本も戦後の体制を基本として少しづつ環境に対応をしてきたが、もしかしたらこの体制を大きく変えなければならない時代に入っているのかもしれない。
そんなことまで、三国志を読んで思うのは、年老いて世を憂える気持ちが多くなってきたのかもしれない。
「希望」こそが前へ進む動力だなんて思っていても、実際は希望をかなえようとする大きな力がなくなってきているんだなあ。

なんだか、変な方向に行ってしまった。

で、実は酒見賢一の『泣き虫弱虫諸葛孔明』の文庫版第4巻を次に読むつもり。
これで、少しは考え方も変わるのではないか、という期待を込めて。


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酒のほそ道 第41巻 ラズウェル細木

2017-07-29 16:36:07 | 読んだ
帯に
「何も起きていないようで、実は人生の全てが詰まっている!」
とある。



本書のあとがきをミュージシャンの小宮山雄飛が書いているが、そのなかから抜き出したものである。

小宮山雄飛が何者なのか私はしらないが、この「あとがき」を読むと「ただものではない」という印象を持つ。

本書は、というか、ラズウェル細木の作品の多くは「事件」はないのである。
ただひたすら「飲む」「食べる」ということが描かれている。
まあ、その「飲む」「食べる」ことが事件と言えば言えないことはないけれど。

例えば、本書の主人公宗達といつも飲み歩いている「かすみ」ちゃんの恋愛騒動などないのである。
時々、おじさん夫婦がもめているが、それも「飲む」「食べる」の前段であって、本筋にはならないのである。

で、それなのに、なんだかおもしろいのである。

あとがきで小宮山は
『何も起こらない文化』
の起源がこの漫画で、この漫画に続いてテレビ「酒場放浪記」につながった、としている。
ナルホドですね。

「酒のほそ道」は、副題に「酒と肴の歳時記」とあり最後に俳句があるが、このあたりも酒場放浪記は真似したのかわからないが、いずれどちらもあまりいらないような気がします。(どっちの俳句もよくわからないということもある)

本書はどちらかと言えば「日記」のようなもので、今日はどこそこで誰と(もしくは一人)酒を飲み、その肴はこうでした。
というのが基本だと思う。

『その時にこんなことがあったのよ』
の、「こんなこと」が何故か客観的に面白い。

先日、八戸の洋酒喫茶「プリンス」というところに連れて行ってもらいましたが、何に一番感激したかというとラズウェル細木さんの色紙が飾ってあったことです。(吉田類さんのもありました)

なんとなく、ふわっと、本書を読んで、試してみようかというのを見つけるのが楽しみであります。
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残酷な王と悲しみの王妃 中野京子 集英社文庫

2017-07-14 14:47:12 | 読んだ


「中野京子」という名前は、オール読物に連載されていたものから知っていた。
ただ、オール読物では白黒印刷なので、せっかくの名画がよくわからないというところがあって、進んでそして興味深くは読まなかった。
ただ『面白い』とは思っていた。

その連載をきっかけに本屋で文庫本が出始めたころから「どうしようかなあ」と思っていたのである。
面白そうなんだけど、私の興味の先ではなかった。
なにしろ、絵画の作家の名前がカタカナで、カタカナ苦手の私は、そのあたりで躓いていたのだ。
それに、ギリシャ神話や聖書の話、さらにはヨーロッパの歴史というのが、これまたカタカナだらけで・・・

それでも、塩野七生の「ローマ人の物語」あたりから、その苦手意識が少し収まってきて、なんというか生意気ながら「中野京子、読んでやってもいい」という気持ちになってきたのである。

というわけで、手始めに「怖い絵」(角川文庫)を読んでみたら、「スゴイ!」とただひたすら「スゴイ!」と思った。

こういう「歴史」の読み方があるのか、こういう「人間学」があるのか、なるほど、なるほど。
だったのである。

その後、怖い絵-泣く女篇-(角川文庫)


名画の謎-ギリシャ神話篇-(文春文庫)


「怖い絵」で人間を読む(NHK出版新書)

と、ゆっくり読んできた。

ゆっくりというのは、パソコン等で紹介された絵画を大きくしてみるからである。

絵画の説明に「右上には・・・」とか「左下の遠いところにはかすかに・・・」などという表現があるが、文庫本では見えない。
ゆえに、大きなものを見るのだ。

じっくり、ゆっくりと中野京子を読んでいるうちに、美術館へ行って鑑賞をすると、この絵の背景にある物語とは?
などと考えてしまうようになった。

そんなことから、東京で行われた「クラーナハ展」に、ポスターを見ただけで行ってしまったのだ。
たぶん、以前ならあのポスターを見ては興味をそそられることもなかっただろう。

さて、そんな中、本書「全国な王と悲しみの王妃」は絵画についての説明はあるものの、歴史読物になっている。

「昔」というものは理解不可能なもの、そしてその理解不可能なものの上に現代の我々がいる。
ということを、読みながら考える。
未来の人々は我々を理解不能なものとしてとらえるんだろうなあ、と思う。
つまりは、今の基準で過去を裁いて弾劾することはできない、できるのは過ち(現代基準)を繰り返さないこと、だと。

本書に登場する(紹介されている)人物たちの強烈な個性には、ただただ圧倒される。

中野京子の著作は、描かれたものの説明、描かれたものの背景があり、続いて描いた者たちの人生というのがあって、それが複雑に入り組んでいるので、面倒くさいところもあるのだ。
でもね、その面倒くささが「いい」のだ。

それにしても、画家たちはなぜ悲惨な光景、奇妙な光景、そして想像する変な光景を描くのか?
我々人間が持っていて隠している「残酷性」「被虐性」のようなものを暴こうとしているのか?

芸術というものは「人」をどう捉えるのかということなのだろうか。
捉えたものを真っすぐに表すことが「罪」となり「罰」を受けるのであれば、それをどうごまかして表現するのか、それが芸術に携わる人の能力なのかもしれない。

現代では「芸人」と名乗る人たちが、まっすぐに表現している。
まっすぐでなければ受け止めることのできない観客のためなのか。

ひねってひねって、さらにひねることによって「芸」というものが出来上がるとしたら、現代には「人」を捉えて表現する「芸術」などないのかもしれない。

そんなことを思ってしまった。

今後も中野京子の著作は読んでいきたいと思っている。

ちなみにオール読物では現在「中野京子の 運命の絵」が連載中である。
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サブマリンによろしく 大津光央 宝島社文庫

2017-07-12 11:05:27 | 読んだ


「第14回このミステリーがすごい!」大賞、優秀賞受賞作
である。

野球を題材としてミステリー、とのこと。

評判、そして解説には「読みにくい」とある。

実際読みにくい。
この形、まあ冒険というか大いなる試みというか、複雑でねじれている。
こういう形が「うける」かといえば、受けないと思われるが、もしかしたら一部で熱狂的に支持されるのではないだろうか。

で、私としては熱狂的には支持しない。

まず、この物語の主人公(プロ野球の一流投手で下手投げ=サブマリン)が『K・M』という仮名で表示される。
これ、なんというか面倒くさいね。
そして、語り手が次々と変化する。

この物語の構造は、物語を描いた「わたし」は、K・Mと親しかった野球記者にして作家そして日本プロ野球協会の記録管理室主事の芹澤真一郎からK・Mについて描けと指示される。
多くの資料は芹澤が持っている。そして芹澤は死んだ。

「わたし」は、資料等を基に物語を描くのだが、この物語の語り手は次々と変化する。

この構造と語り手の多さ、そして語り手が多いことによる視点の多さというのが、読みづらい、ということになっているのだと思う。
付け加えて、語り手の語りが明確かというと、なんだかよくわからない、ものが多い。
つまり、K・Mについて語りながら、その語り手の今の状況や過去の物語が重なるので、なお散漫というか拡散というかしてしまう。

「そういうところがいいんだ!」
という人がいるのもわかる。
わかるけどなあ、というのが私のスタンス。

物語の中心は簡単である。
プロ野球の名投手K・Mが八百長疑惑を受けて1988年春季キャンプ中に34歳で自殺した。
この自殺の原因は何か?

多くの人の話をつなぎ合わせ、まずは八百長などしていないことを証明し、それならばなぜ自殺したのか、ということを解き明かすこと、そしてK・Mの復権を図る。
これが、『わたし』に与えらえた使命。
『わたし』は、資料並びにインタビューで解き明かそうとしていく。

ただ、その描き方が面倒くさいというか『わたし』の各種事情があるので、読み手が混乱する。

その辺を許すというか我慢して読み継いでいくと、だんだん「筋」が明らかになり、「謎」の解明へいたる道も見えてくる。

まあ、野球を題材にしたミステリーといえばそうだと思うが、そうでもないような気もした。
結末は「ふーん」というか「えっ、そんな」というか「なにそれ」と思うか、人それぞれだと思うが、私は「なんかなあ」というカンジ。

最後に、パッと謎が解き明かされる・・・
んー、どうも「パッと」ではないようなカンジが私にはする。

私としては、例えば過去に何かがあったとしても、どこかで誰かが回避できたのではないか、という形、必然ではあっても別な道がある、というようなものが「謎」にあってほしい。
『一直線に必然』というのは、どうも、なんだか、いやいや、という思いである。

読み終えた後に「もやもや」が残るのは許す。でも、その「もやもや」があまり暗すぎると、いかがなものか、と思うのである。

この作品の読後は「ふーん、そうだったの」と軽く流せない。「ひっかけられた」と笑えない。
『新しい形』と言われれば「私はもう古いので」というしかない。

そういう意味では「面白い」


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鎌倉(長谷寺) -退職記念旅行その7-

2017-07-11 14:17:32 | 観た、聴いた
さてさて、旅の最終日は横浜から鎌倉へ向かいました。

関内駅にいったところ「事故のため10分遅れ」の案内が出ていた。
当初の予定は関内-大船-鎌倉のルートだったが、急遽関内-横浜-鎌倉のルートに変更。
それで、横浜駅から8時29分発の電車に乗り込んだが、実際は8時39分だった。

鎌倉は昨年一人で訪れ、北鎌倉駅でおりて寺社巡りをした。
なので、今年は長谷寺と大仏様を中心に観光する。

昨年は、鶴岡八幡宮で偶然同じ職場の同級生(彼らは夫婦)に遭い『誰ときた?』と何度も聞かれた。
今年は夫婦で来ているので、だれと会ってもいらぬ詮索はされない。(結局誰とも会わなかった)

鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて長谷へ。
まだ9時半だというのに人が多い。
この旅で初めて「人が多い」と感じた。



昨年も同じ7月1日に鎌倉にきたのだが「紫陽花」はすでに終わりかけであった。
長谷寺はあじさいで有名であるが、さてどうなっているだろうか?
と、その前に参拝。

境内の和風庭園。これはこれで古刹らしくいいもの。




本堂


そして「あじさいの小径」で、あじさいと鎌倉の街を眺める。




どうも最盛期は過ぎたように思えるが、それでもまだまだ咲き誇っています。






なんだか徐々に人が増えてきたようだ。




多くの種類のあじさい、見せていただきました。



長谷寺の見晴台付近で「あれ?この景色見たことあるなあ」と思ったら、テレビドラマ「ツバキ文具店」でポッポちゃんたちが七福神めぐりで言ったところでした。

そういえば『ツバキ文具店』は鎌倉を舞台にした物語だった。
どっかにいないかなあ、ポッポちゃん。

更にそういえば、鎌倉を舞台にした物語では『海街diary』ってのもあったなあ。

更に更に、そういえば、
昔、「北鎌倉」という歌を岡本正というひとが歌っていましたが、その2番の歌詞

♪♪長谷観音の前にある 小さな喫茶店♪♪

というのが気になっていました。
で、なかったです。小さな喫茶店。

-しらべましたら、昔あったんだそうです『邪宗門』という喫茶店-

さて、
長谷寺を出て向かうのは「大仏様」(高徳院)です。
道が狭く、人も車も多いので、のんびり歩いてはいられません。



居ましたねえ、イヤ、いらっしゃいました、大仏様。



なんというか、やっぱりいいお顔でいらっしゃる。
で、私としては、本日はこの角度がいいです。





当たり前といえば当たり前のことですが、ここは大仏様だけです。
もう、それで十分です。
しかし、ちょいとのどが渇きました。

売店で、梅サイダーとみたらし団子をいただき、一息つく。

続いていくのは、鎌倉文学館。

途中「甘縄神明神社」詣で、鎌倉文学館に。


静かなところです。
汗を鎮めながら、特別展「生誕150年 漱石からの手紙 漱石への手紙」を拝見。
昔の人は筆まめです。
今多くの人がやり取りしている「メール」とか「ライン」とかは、後世どのように評価されるのでしょうか?

手紙、特に著名人の手紙あるいは日記などは『誰かにみられる』ということを意識していたのだと思います。
そのあたりが、メールとかラインとは違うんだろうなあ。
といいながら、そのうちに「メール文学」とか「ライン文学」なんて出てくるのではないだろうか?

そんなことを考えながら外に出ると、これまたどこかで見た景色。
というか、文学館から外を見たときに「この景色みたことあるよなあ」とは思っていたのだが・・・



ドラマとか映画とかで使われているよなあ。
鎌倉文学館は旧前田別邸。絶対どこかでみた!




というわけで、鎌倉文学館から黙々と鎌倉駅、小町通り、いや「鳩サブレ」を求めて歩く。

小町通りで昼食。生しらす丼を食べたかったのだが、生が入らない、ということで釜揚げを。


昼食後、外に出ると真っ黒い雲、今にも雷が鳴りだしザーっと来そう。
鳩サブレを無事購入し、鎌倉駅へ。

鎌倉はまだまだ見たいところがあるので、また今度、大人の休日倶楽部パスを使って来よう!

鎌倉-東京と戻り、東北新幹線で自宅に帰、退職記念旅行は終了。
季節的に「快晴」というのはなかったものの、まあ、曇りも雨もそれなりの風情があって、それもよろし。(若干の負け惜しみを込めて)

いつもながら、旅というのは長いようで短く、短いようで長いものです。
退職の御礼をして、念願だった「馬籠、妻籠」「松本城」を訪れることができ、そのほかにもいろいろな発見があったりして、何よりも喧嘩することなく旅を終えられた。
多くの人に感謝。

ということで、とりあえず終了ではありますが、旅の途中で思ったことなどについては、また、何かの機会に語りたいと思っています。



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松本城 -退職記念旅行その6-

2017-07-10 11:10:30 | 観た、聴いた
松本市の美ヶ原温泉に宿泊。
この宿の大浴場も毎回一人占め、私の風呂に入る時刻がおかしいのか?

というわけで、本日の天気予報も「雨」
宿の人の話では
『松本は盆地なので予報が雨でも降らない時が多い』
とのこと。
そのことと、私の「晴男」の強さがどうでるかが問題。

ホテルから松本駅までバスで送ってもらう。
途中、1回も松本城を見ることができなかった。
前日から、まだ一度も松本城を見ていない。

盆地の真ん中にあるのだから、絶対見えると思っていたのだが、見えない。
城は、遠くから見える景色もいいものなのに。
会津若松の鶴ヶ城は、遠くから望むと、いやでも落城を思い出し「城が燃える」ということは「この世の終わり」と思うんだろうなあ、と白虎隊の悲劇を実感したりするのだが、黒い松本城はなかなか見えない。

で、松本駅から歩いてお城に向かったのだが、それでも見えない。
残念!
もしかしたら、城の姿をあまり見せないように築城されたのだろうか?
そんな思いもしてくる。

そして、とうとう見つけました。
「大名町通り」かを歩いていると「城の見える小路」(?)のような案内があり、その道を行ってみると、見えました。

松本城は「あこがれ」の城なんです。



天守を目指そう!




おお!ホントきれいだなあ。




つべこべ言わずに、天守閣内部へ。
と、注意書きがあります。

 国宝松本城天守の耐震診断結果について
  松本市では、来場者の安全確保と文化財的価値の維持を目的として、文化庁の重要文化財(建造物)耐震診断指針に基づき、国宝松本城天守の
 耐震診断を実施しました。
  診断の結果、『大地震動時の倒壊危険性及び中地震動時の非倒壊』と判定され、松本城天守の一部は震度6強から7の大地震動時の耐震性能が
 不足していることが判明いたしました。
  この診断結果を踏まえ、松本市は直ちに耐震対策や避難誘導計画の策定等に着手いたしましたが、耐震工事の完了までには数年間の期間が必要
 となる状況です。
  天守へ入場される皆様におかれましては、こうした状況及び重要文化財としての特性などをご理解のうえご入場いただくとともに、地震発生時
 には、係員の指示に従い、落ち着いて行動していただきますようお願いいたします。
  平成29年5月 松本城管理事務所長


フーム、覚悟して登れ、ということか。
まあこちらは、何度も大きな地震を経験している。揺れればじたばたしない、ということだけは大丈夫。

ということで、登り始めるが、本当に木造建築。
すごい!



途中で、外を除くと、徐々に明るくなってきている。


それにしても急な階段である。


この階段では注意書きがあるにもかかわらず、梁に頭をぶつけた。


ほんとすごい。
木造でこんな大きな城ができるなんて、実感する。




天守から外を望む。もっと晴れていればいい景色なんだろうけれども。






もう夢中ですわ。

月見櫓から本丸を


天守の真下から


どっから見ても飽きない。かっこいいです。




今度は堀の外側から、角度によって表情が変わるのがいいです。









ああ、一眼レフのカメラで撮りたい。

松本城を築城したのは『石川数正、康長』父子。
徳川家康の家老であり、酒井忠次と双璧で家康を支えていたが、小牧長久手の戦いの後、徳川家を出奔し豊臣家につかえる。
秀吉によって、松本に移封され、城を築いた。没後、嫡男康長が石川家を継ぎ、関が原では東軍に属し、戦後所領は安堵されたが、その後「大久保長安事件」により改易された。

山岡荘八の徳川家康においては、この石川数正の出奔に当たっての苦悩が描かれており、私は数正に同情したものだった。
ちなみに、この物語では、石川数正や本多重次(作左衛門)や大久保長安など、いわゆる徳川家の正統ではない家臣たちが多く描かれている。
そのあたりが、若いころは「まどろっこしい」と感じていたが、年を経るにつれ味わい深い人物として記憶に残っている。

というわけで、石川数正が築城した松本城、ということも、私の松本城愛の一因でもある。

そんなことを思いながら、そして後ろ髪をひかれながら、松本城を後にした。
今度来るときは、晴れた日で、一眼レフをもって、と思いましたです。

さて、続いて訪れたのは「四柱神社」。
「旧開智学校」という選択もあったのだが、歩いて駅へ向かう道すがらということもあり・・・



本日午後4時から茅の輪くぐりができるということで、惜しかったです。
御朱印をいただき、次へ


ナワテ通り


何と言いますか、好きな人には好きな街でしょうね。
ここで「ざるそば」を昼食として、中町通り。
どちらかといえば、こちらのほうが好みか。


ということで松本駅まで戻ってまいりました。

松本駅では、あの「あずさ」を目撃。


14時4分発「しなの11号」で長野駅まで向かう。


長野からは北陸新幹線「はくたか566号」で東京へ。
東京からは横浜関内へ。
本日は、横浜中華街で中華を食す予定。

ということで、中華はやっぱり二人では多すぎた。
山下公園あたりをぶらりとしてホテルへ戻る。



氷川丸


横浜の月


関帝廟


つづく
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八朔の雪 みをつくし料理帖 高田郁 ハルキ文庫

2017-07-09 16:20:46 | 読んだ
退職記念旅行記の閑話休題。

旅行中にまず読んでいたのがこの物語。


NHKで黒木華主演で放送されているのを見て「じゃあ読んでみようか」と思ったもの。
ドラマはドラマで面白いが、さて原作はどうなのさ?ということ。

私が知らなかっただけなのだが、この物語は多くの人に読まれているとのこと。
では、それはなぜなのか?
ウィキペディアでは、山本周五郎の小説に感激して時代小説家になった、とあった。
山本周五郎に感動して書いたもの、であれば面白いと思う。

本作「八朔の雪」はシリーズ第1巻。
4つの物語が収められている。

狐のご祝儀-ぴりから鰹田麩(かつおでんぶ)
八朔の雪-ひんやり心太(ところてん)
初星-とろとろ茶碗蒸し
夜半の梅-ほっこり酒粕汁

大阪の名の知れた料理屋「天満一兆庵」の主・嘉兵衛と御寮さん・芳が、奉公人の澪をつれて江戸へ下る。
店が火事に遭い、江戸で店を開いている息子・佐兵衛を頼ってきたのだ。
しかし、佐兵衛は行方知れずとなっていた。
嘉兵衛は失意のうちに亡くなり、澪は御寮さんと二人で生きていく。

ここで、この物語を貫く一つの謎・お題がでてくる。
「佐兵衛はなぜ行方不明になったのか、今どこにいるのか」

澪は、源兵衛に見込まれた「舌」の持ち主で、通常女は料理人とはなれないのだが、天満一兆庵で料理人として仕込まれる。
その「腕」と「心根」を神田明神下御台所町の蕎麦屋「つる家」の店主・種市に見込まれて、つる家を手伝い、料理を作り始める。
この物語をつらくぬ「料理帖」は、澪が作る料理、大阪仕込みの料理をいかに江戸の人たちの好みにするのか、そして人の心を打つ料理とはなにか?
ということであろうと思われる。

更に、澪の幼馴染の行方、江戸一番の料理店「登龍楼」との闘い、謎の武士・小松原(澪をみて『見事な下り眉』といった)正体は
などなど、縦糸横糸がうまくかみ合って、一つ一つの物語が語られていく。

また「旭日昇天」とか「雲外蒼天」という言葉、登場人物たちそれぞれが持つ『過去』が、複雑に絡み合うのだが、山本周五郎調ともいう「人情」が、悲惨ともいうべき物語をオブラートにくるんでいるので、さわやかである。

そして、一話ごとに必ず泣かされるところがある。

この本は、主に列車の中で読んでいたのだが、涙をこらえるのに大変だった。
一人きりで読んでいれば涙を隠す必要などないのだが、多くの人のいるところで読むものではないなあ、と思った。

以前の私であれば、このような筋立て(つまり泣かせる)は『あざとい』といって敬遠していたところであるが、近頃は「なんでもオッケー」というか「あざとさ」を許せるようになってきた。

このあたりは、成長なのか老化なのかはわからないけれど・・・
まあいいんでないか。

ということで、第2巻以降も読み進めていこうと思うのだが、ドラマの黒木華は原作とイメージがぴったり重なり、本を読んでいても顔が思い浮かぶのであった。

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馬籠・妻籠 -退職記念旅行その5-

2017-07-09 16:20:28 | 観た、聴いた
名古屋に一泊し、続いて向かうのは「馬籠(まごめ)」「妻籠(つまご)」
中山道の宿場町がそのまま残っているということで、ぜひ行ってみたいところでした。
ある意味、今回の旅でもっとも期待していたところです。

名古屋土産でぜひ欲しかったのが「ういろう」しかも『一口サイズ』。大きいのではなくてという意味。
あまり好きではないという人が私の周りでは多いが、一口サイズだといいと思うのだが。
で、売ってました。駅で。購入!(土産用と自分用)

それから「きしめん」を食べたかったのですが、なかなかチャンスがなかった。
名古屋駅のホームに立ち食いのきしめん屋さんがあったのですが、なにしろ朝九時。さすがに食べられなかった。
その後、多くの人が名古屋できしめんを食べるなら、そこ!ホームの店!
と聞き、残念でした。無理にでも食べていればよかった。

名古屋駅発9時「しなの5号」


9時49分中津川駅に到着。

この旅で思っていたというか感じていたのは、どこに行っても「外人さん」が多い。ということ。
で、馬籠とか妻籠は外人さんはいないでしょう、なんて思っていたら、なんと中津川で一緒に降りた人たちに白人の大きな人たち。
どうもビジネスでいらっしゃったようですが、いたるところで見かけますねえ外人さん。
「インバウンド」できているんじゃないですかねえ。

というわけで、中津川駅で「レンタカー」に乗り込む。
そして、馬籠へ向けて出発。

カーナビに目的地を入れて出発したのですが、なんだか変な道に入ってしまいました。
細い道、急なカーブ、勾配がきつい。
でも、周囲には民家があり、道端にはバス停。
「なんだ、なんだ」といい、「戻ったら?」といわれ、「どうしようか」と思ったら、割と大きな道へ接続。安心。

カーナビが距離優先になっていたらしく、そういう道を走ったようです。

で「馬籠」到着。
あれ?人がいない。







店の多くが、というかほとんどが休みでした。

それにしても、急坂だわ。途中、団体さんとすれ違ったが、この人たちは「下る」だけなんだろうな。
とりあえず、展望広場、まで登る。



ここから「妻籠」まで歩く人がいるらしい。というか、ハイキングコースとのこと。約3時間歩くらしい。
これは一日がかりの日程でないと無理だわ。

軽装の人たちが登っていく。途中で引き返すんだろうか。

天気は曇りで、それほど暑くもなくていいのだが、なんか寂しい。
あじさいの花が丁度いいところだった。





「馬籠脇本陣」の史料館に入館する。
入館者は我々二人のみ。
展示室で史料を見た後、この史料館の目玉「玄武石垣」を拝見。
「玄武」とは「亀」のこと。ちょうど亀の甲羅のような石垣です。



続いては「藤村記念館」



島崎藤村は馬籠宿の旧本陣に生まれた。
とあるので、ここは本陣跡なのだろう。

高校のころ、藤村の詩に「かぶれた」ことがあった。七五調の詩のリズムというか響きが好きでした。

で、この記念館にあった写真では、昔、ここ石畳ではなかったんですね。
今はきれいに石畳の道になっていますが、写真を見ると土の道で、乾けばほこり、雨が降ればぬかるみ、旅人は大変だったでしょう。
そういえば、来る途中「昔の石畳」というところがあった。





丁度昼時。「そば」を食べよう、そして「ごへい餅」も。



おいしくいただきました。



馬籠に別れを告げて、妻籠へ向かいます。
途中、歩いている人たちを見かけましたが、どうも大変そうでした。

妻籠は木曽川の支流「蘭川」沿いの宿場町。
その蘭川のほとりの駐車場に車を止め、いざ、宿場町へ。

発電所がありました。


いよいよ町の中に入りました。
馬籠との違いは、急坂ではないということ。
したがってゆったりとした気分で歩けます。
そして静かです。







ほんとうに静かです。店もあまり開いていないし。





本陣跡


のんびりと歩いていたら、少しあめがぱらついてきました。






妻籠から、木曽川のほうへ向かい国道19号線を中津川に向かう。車を走らせていると、左右は山。
葛城ユキの「木曽は山の中です」を思い出す。
 ♪ 木曽は山の中です 誰もきやしません ♪

そういえば、馬籠は岐阜県で妻籠は長野県。平成の大合併で、馬籠の長野県木曽郡山口村が、岐阜県中津川市と合併したのである。
なんというか「斜面」の違いで、山口村は中津川市との関係が深かったんでしょうね。
そもそも、境界をどこにするかというのは人間の勝手なことであって、境界付近にいるからそれを自覚して生活しているなんてことはあまりなく、何かの時に境界を意識するんだと思うのだが・・・

というわけで、木曽の南玄関口である道の駅「賤母」に立ち寄り、中津川に到着したのは15時。
喫茶店で休憩をしていると雨が降り出した。すぐやんだが、なんだか一区切りがついたよう。

15時49分発しなの17号にのり中津川から松本へ。

つづく
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名古屋城 -退職記念旅行その4-

2017-07-07 14:11:14 | 観た、聴いた
伊勢市を離れるときには、雨が上がり、近鉄特急が走り出した時には青空が見えた。

厳かとか清冽とかという形容詞よりも「重い」という感じが強かった伊勢でありました。これは多分に雨のせいであります。

さて、名古屋についてホテルに荷物を預け、最初の目的地である「名古屋城」に行きます。
その前に、列車の中でサンドイッチをつまんだものの、腹ごしらえが必要。
ということで、ホテルの近くにあったラーメン店に入った。

名古屋に来てまで何も博多ラーメンを食べることもないだろう、と思ったのであるが、空いた腹には勝てず、まっ手っ取り早く済ませよう。

食券を購入し店に入ると、隣と仕切りがあるではないか。
行政相談あるいは借金の申し込みのようである。

で、食券を出すと「こちらに記入ください」といって、目の前の簾のようなものが落とされた。
何のことやらわからなかったが、まあとりあえず記入をしてボタンを押す。記入した紙を受け取り、いよいよ融資審査か。なにやら「幸せ!」という声が聞こえる。新興宗教か?伊勢神宮にお参りしてきたというのにどういうことだ。

と、ラーメンが来た。豚骨の博多ラーメンである。少し辛い、がうまい。「フーン」と思いながらすすったが、この旨さの感想を誰かと分かち合いたい「おいしいね」と言いながら食べたい。

後で、調べたところ「一蘭」という超有名店だったのですね。
いやいや、食事というかラーメンの食べ方も変わりましたねえ。「味集中システム」ですか。

子母澤寛の「勝海舟」という小説の中で、勝海舟が益満休之助に『今まで一番まずかったものとうまかったものはなんだ?』と聞いたとき、益満は『一番まずかったのは裃を着ていただいた御前料理、一番うまかったのは嬶(かかあ)と差し向かいで食べた茶漬け』と答えた。
高校の時にこの物語を読んで、いつかは差し向かいで茶漬けを食べたいと思ったものでした。

つまり、うまいまずいは、料理の技術だけではないと思うのですが・・・いかに。

なんといいますか今は食べる側にも「ラーメン道」みたいなものがあるのですかね。

まあ驚きのラーメンを食した後、タクシーで名古屋城へ向かいます。
運転手さんが観光案内をしながら城にむかい、ちょうど「ブラタモリ」で名古屋を2週続けて放送したので、そのあたりで盛り上がりました。

ブラタモリを見る前から、名古屋城と熱田神宮の2カ所をなんとか見ることができないものかと、計画を練ったのですが、どう調整しても「どっちつかず」になりそうだったので、名古屋城を選択しました。まあ次の機会にはぜひ「熱田神宮」に行きたいと思います。
というか、名古屋周辺は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にちなんだところが多くて、行きたいところはいっぱいあるんです。
私は、徳川家康のファンなので、岡崎に行ってみたい、と思っていたら、タクシーの運転手さんが『岡崎は徳川家康一辺倒です』と割と苦々しげにおっしゃいました。(はあ、そうですか、ですね。)

さて、名古屋城到着です。
あのう、名古屋城っていたるところから見えるものだと思ってましたが、今までずっと見えなかったんですね。
このあたりは、現地に行かないとわからないものです。

正門をくぐるとすぐに、名古屋城といえばという「金のしゃちほこ」実物大がありました。
ただただ「はあー」ですね。

名古屋城です。ブラタモリの看板もありました。



続いて現在復元工事中の本丸御殿。建築しているところを見ることができました。






実は姫路城の修復工事見たかったんですが、この現場を見ることで満足しました。

そして、一部公開中の本丸御殿へ。




こういうのもいいですよね。

お城は、どちらかといえば外側から見たほうがいいです。
内部はあまり感動しませんからね。
そういう意味で、この本丸御殿、ため息がでます。できることなら、この畳の上で昼寝をしてみたい。

さて、いよいよ本丸です。




カッコいいです。

でも近づくと「コンクリート製」であることがわかります。
本丸内部に入ると「エレベーター」がありました。コンクリート製のいいところです。
内部では各種の展示がありました。

最上階から見た市街の風景です。
晴れました。



本丸を見て歩くと、わりと疲れるんですね。それに暑くもなってきたし。
ということで、外に出ていったん休憩。
それから「不明門」から外に出て、改めて名古屋城を仰ぎ見ます。









名古屋城からは「ノリタケの森」に移動しました。
閉館までギリギリの時間でした。





で、ここで私失敗しました。
ノリタケの森ミュージアムの中は撮影OKだったのですね。
気づいたときには遅かった。

アジアからの観光客の団体がおりまして、にぎやかに見ていました。いかにもお金持ち風でしたよ。
また、日本人カップルがバチバチと写真を撮っていました。
そこで分かったんですね。写真OK。撮っておけばよかった。

そのカップルのうち女性が「わたし、このままずっとここにいたい」とおっしゃっていましたが、同感です。
素晴らしかった、飽きませんね。

で、渋々ながら、というか閉館時間だったので、ミュージアムを後にしました。

つづく




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伊勢神宮内宮 -退職記念旅行その3-

2017-07-07 10:04:31 | 観た、聴いた
朝、5時。

天気予報のとおり、外は雨。かなり激しい。

宿(伊久)で、早朝食「かたぱん」を二人で一枚いただき、傘を借りて、いざ出発。

雨は強い。
しかし、気持ちはいい。
すがすがしい、というには少し湿っぽい。

おはらい町に入る新橋から望む景色


そしておはらい町 ホント誰もいません。(白い雨具の人は警備員?のような人)


内宮正面、宇治橋に到着




境内に入ってもだれもいないので、入ってよかったのだろうかと、不安になる。





これで晴れていたら、いやせめて曇りでもいい。と、人はなんて勝手なんでしょうねえ。

手水舎で清めたあと、五十鈴川御手洗場へ。
雨で濁っているかなと思ったのですが、それほどではなく、ただ流れは速かったです。
雲がずっと下まで降りてきていて、幻想的であります。


そしていよいよ、正宮へ。
近づくにつれて、こちらの気持ちもあるのでしょうが、空気が変わりますね。
背筋がスッと伸びるような、そんな緊張感があります。





厳かな中、お参りをしてきました。
正宮では、他の人もいましたが、祝詞をあげる人、毎日来ている人、そういう何と言いますか「伊勢神宮参拝のプロ」のような方々と参拝しますと、なお緊張しますね。
腰の折り方、拍手のしかた、堂に入ってます。
我々は、素人なりにお参りです。

内宮では御帳(幌とも書くらしい)が舞い上がることはありませんでした(雨が降って湿気が強ければ上がることはありませんよね)

なんか、雨が強くなってきています。


「荒祭り宮」から「風日祈宮」を参拝し、ひざから下はずぶぬれ状態。
さあ、帰ろうと思ったところ「御池」
木がないので、池の上だけ明るい。


最後に一礼をして帰ります。


帰りのおはらい町もだれもいません。途中、いい匂いがしてきました。仕込みをしていたのでしょう。


おかげ横丁の入口ではまねき猫が雨にうたれていた


さて、宿についてみると膝から下はずぶぬれ状態でありました。

ひと風呂浴びて(そういえば、この宿ではずっと一人で風呂に入っていました)、朝食をゆっくり摂り、雨のやむのを待ちましたが、やむ様子もなく天気予報も雨ということで、それでは、ということで、もう一度内宮へ行きました。

さすがに今度は昼間なので、人はいました。


まっすぐ、神楽殿へ行き、御饌を申し込み、御朱印をいただく。
今回の御饌は4組、うち2組は安産祈願でした。我々は例によって「家内安全」をお願いする。

この「家内安全」って、なんか漠然としていますが、家内安全のためには社会の安寧や世界の平和がなければならないので、実は大きな願い事ではないのかと思っていたのです。でも、よく考えてみると「安産祈願」だって平和な社会がなければだめだし。
つまりは、個人の平和を願うということは、イコール世界の平和なのではないか、なんて考えたのでありました。

しかし、「商売繁盛」の場合は、競合する会社などの場合は神様はどうするんでしょうか?

そんなことを考えながら宿に戻り、宇治山田駅までのタクシーに乗り込んだのでした。

宇治山田の駅に着いた頃から、空は明るくなり雨がやみました。

次に伊勢に来るときは「晴れ」の神宮を参拝したいものです。

つづく



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伊勢神宮外宮 -退職記念旅行その2-

2017-07-05 11:15:43 | 観た、聴いた
さて、駅に到着。
目の前の路をまっすぐ行けば「外宮」

だけど、誰も歩いていない。これではまるで「田舎の駅」
こんなことでいいのだろうか?
もっと人がいてもいいのではないのか?

またしても疑心暗鬼の中、歩き始める。
だって、どの本もネットの情報も人が多くて、活気のある店があって・・・
なのに、店は休んでいるのか開いていないし。
観光客はポツリポツリ・・・

で、外宮前の「浜与本店」で何かを食べるか土産を探そうかと思っていたのであるが、休みかと思うくらい誰もおらず、入りづらい。
腹も減ったしのども乾いた。
後ろを振り返ると「ひりょうず」という幟と「地ビール」の幟。

というわけで、若松屋に入り「ひりょうず」カウンターで仕切られている伊勢角屋麦酒から生ビール(ペールエール)を注文し、とりあえず一服。

いやあうまかった。
二見興玉神社で身を清めてはきたものの、やっぱりここはアルコール消毒が必要。

というわけで、続いて外宮の「表参道日除橋」を渡り

「手水舎」で清め、第一鳥居で一礼、そしていよいよ境内へ。

外宮の中も思っていたより人が少なく、やっぱり時季外れに来たんだと実感。
なにも人が多いのがいいわけではないのだが、なんとなく・・・ね。

神楽殿の前を通って、まっすぐ「正宮(しょうぐう)」へ行く。
なんとなく、空気が変わるというか緊張感がただよう。
平成25年の遷宮をからまだ間もないので、印象としては「新しい」


外玉垣南御門。脱帽をして、バックを下ろし、お参り。
二拝二拍手一礼

顔を上げたとき、神前の御帳(みとばり)が風でこちら側に舞い上がり、正面(内玉垣南御門)が見えました。
感激しましたねえ。

帰ってきてから調べましたら
『「とある場所」で「とある白い布」がメクれると「天照大御神の白い風」』
ということが昔からあるようで、
その現象が起きたのでしょう。といっても、風が吹いたということは感じましたし、外宮ですけどね。

それでも、何と言いますか、これまで生きてきたことが肯定されたような或いは「よしよし」と肩をたたかれたような感じでした。
夫婦そろって『ありがたい』と思いました。

それからちょっと驚いたことがありましたが、正面を左右どちらかに外れると、門というか塀越しに正殿(正確には正殿の屋根)を拝むことができるのですが、そこで「祝詞(のりと)」をあげている人がいる、ということです。

日本人なら簡単な祝詞を覚えておくべきなのか、そんな思いでした。

そして別宮にお参り。「多賀宮」「土宮」「風宮」






静かななかに厳粛な空気が漂います。

そして、神楽殿に赴き、御朱印をいただき、さらに御饌(みけ=御祈祷)を申し込み「家内安全」を願うこととしました。
申し込み後、控室でお待ちください、ということで、控室にいると、我々の前にもその後にも誰もおらず、結局、われわれだけでお祈りをしていただきました。
なんとなく、特別感があり、ありがた度が増しました。
ただ、お神酒の量がちょっと少なかったかな(笑)

御饌が終了し「お神札」と「神饌」をいただきました。

すこし、雨がぱらついてきたので休憩所へ入り、それでは「せんぐう館」を見ましょう!
と、思ったら、なんと、月1回(第4火曜日)の休館日でした!

それでは「神宮美術館」へ行きましょう、ということで歩き始めたのですが、美術館は午後4時で入館終了、ということと、道を間違えたということからあきらめ、バスで宿へ向かうこととしました。

実は、美術館のほかにも別宮の「月読宮」「倭姫宮」「月夜見宮」にも行きたかったのですが、時間的に難しかったです。
もし、また伊勢に来る場合には、これらの別宮を含めて日程調整しよう。

で、バスですが「内宮」行きに乗りまして、おはらい町を下見して宿に向かうこととしました。

内宮でバスを降りたときはもう5時になろうという時でしたから、あまり人もおらず、店じまいをする最中でした。
そういう状況でしたので割とのんびり散策することができました。



おかげ横丁の入口ですが、ほんと、誰もいません。


宿も近いということで、ほっとしましたし、お土産に買っていけるものでもないので(日程の都合上)有名な「赤福」に行き、赤福食べました。





我々が最後でした。

その後宿に到着、温泉に浸り、お酒を飲んで、疲れを癒しました。

さて、明日はいよいよ内宮へ。早朝参拝する予定です。
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伊勢・二見浦 ー退職記念旅行その1ー

2017-07-04 14:49:10 | 観た、聴いた
3月31日に夫婦そろって退職し、ほぼ40年の公務員生活に別れを告げた。
我が地方では、退職をすると夫婦で旅をする、という風習(?)があり、退職後は多くの人から「どこに行くの?」と聞かれていた。

しかし、こちらは4月1日から新たな仕事を始めるわけで、家庭の事情もあり、まあ落ち着いてからぼちぼちと、と思っていた。
そうしたら、思いがけず子供たちと母からプレゼントという形で旅行、という提案があり、ありがたく「のった」のである。

そうなると、問題は「行先」である。
我々夫婦は、一度は行ってみたいところとして「伊勢神宮」と「出雲大社」を挙げていたのだが、無事に退職することができたことに感謝するため「伊勢」を選択したのでありました。
それぞれ別々に希望を述べるといろいろと面倒なことになるので、とにかく「伊勢神宮参拝」を中心とした旅程を組んだのであります。

通常、伊勢へ行くとなれば「伊勢・志摩」ということで、お伊勢参りと志摩の観光というセットが考えられるが、どうも「志摩」は派手すぎるということもあり、志摩方面にはいかないこととした。

それから共通して行きたいところは「馬篭・妻籠」ということになり、それではそのあたりをつないで行こう。
では、私としては「名古屋城」「松本城」を見たい!といいはり、次のような旅となったのでありました。

伊勢神宮参拝~名古屋城~馬篭・妻籠~松本城
そして最終日は首都圏へ戻り、鎌倉を最終地点としたのでありました。

というわけで、これから何回続くかわかりませんが、その旅の模様とか感じたことなどをつづっていこうと思っているのであります。

さて、旅立ちの前夜6月26日に天気予報を見ると、行先は「曇り時々雨」もしくは「雨時々曇り」でありました。
私はほぼ完ぺきな「晴れ男」そして我が妻は「雨女」
そして梅雨時。
これは天気については仕方がないと、まあ「雨のナンタラ」というのもそれなりに風情があるのではないか、と思い(この夫婦はポジティブが身上です)
折り畳み傘を荷物に詰め込んだのであります。

6月27日、どんよりとした雲が立ち込める朝、出発です。
最寄りの東北新幹線の駅まで車で向かい、いよいよ出発。若干寒い。
始発電車なので、新幹線通勤の人が多いのでありますが、この日はなぜか「観光スタイル」の中高年が多い。
新幹線に乗り込むと、本当に、観光客が多かったのであります。

無事、東京駅に到着し今度は東海道新幹線に乗り換え。
こちらはビジネスマンがほとんどで、すこーしだけ「遊んでて申し訳ないね」という気持ちになるが、心の大部分は「人が仕事をしている時に遊んでいるというのはホントにいいものだ!」と叫んでいる。

これまでも何回か二人で旅をしているが「富士山」が見えたためしがない。
今回も、これまでと同様に富士山は見えない。

ちなみに今回の旅の友の文庫本は「みをつくし料理帖-八朔の雪-」(高田郁)である。
しかし、何かに向かっているときは心がざわついて読書に専念できない。

そうこうしている(窓の外を見たり、居眠りしたり)うちに名古屋駅到着(10時48分)!

ここで、近鉄に乗り換える。
近鉄の「伊勢志摩ライナー」のデラックスシートなのだ。
11時10分発で目的地の伊勢市駅には12時32分到着。
考えようによっては、なにも普通のシートでも十分、ということもあるが、これから先乗ることもあるまいと、選択したのだ。







快適でしたねえ。このままずっと乗っていたかった。
この先に風光明媚な景色が広がるかと思うと、ちょっと残念でしたね。

というわけで、伊勢市駅に到着です。


ここの手荷物預かり所では、宿まで荷物を届けるサービス(有料です)があり、それを利用して大きな荷物は宿に送り、我々は身軽になりました。
そして向かったのは「二見浦」であります。
いろいろな情報によると、伊勢神宮参拝は「二見興玉神社」で身を清め、続いて「外宮(豊受大神宮)」そして「内宮(皇大神宮)」と回るのが正式とのこと。
その情報に従って、伊勢市駅から二見浦へJRで向かったのであります。

伊勢市駅に到着した時から思っていたのでありますが、参宮線に乗り込むと、いよいよ不安になってきました。
「誰もいない!」
2両の車両に乗っている観光客は我々のみなのである。

二見浦駅に到着してもガラガラで、いったいどうしたんだろうか?もしかしてきてはいけない時期だったのだろうか?でもそんなことはどの情報を見ても書いていなかった。

で、駅から神社・夫婦岩まで歩くかタクシーかで迷ったのだけれど、どれくらいの時間でいけるのか不安だったので、タクシーにした。
タクシーの運転手さんから、事情を聴取!
まず、この季節には観光客が極端に少ない、そして今日は平日、天気も良くないし。
ということで、ガラガラなのだということ。

ガラガラの街を抜け、二見浦到着。
ホントに人がいません。



二見興玉神社の前の茅の輪をくぐり(左回りに1回、右回りに1回、そして真ん中から1回)お参りをして、御朱印をいただく。

ちなみに、私、近年は御朱印を集めています。

そして夫婦岩を見学。


タクシーの運転手さんに帰りはタクシーもいないので、もし使うのであればということで、電話番号を教えてもらったのですが、歩いて駅へ向かうことにした。実はもっと滞在時間が長くなるのかと思っていたのですが、何にもないので、帰ることにしたのです。
途中、お土産屋さんとかの通りを歩きましたが、ほとんど閉まっていたので、ただ歩くだけでした。

二見浦駅から伊勢市駅に戻り、いよいよ「外宮」であります。

つづく

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