ときどき、思い出したように読んでいる、宮城谷昌光著三国志。
文春文庫で全12巻。現在やっと7巻を完了。
これ、読むのがわりと疲れるのよね。
1.漢字が難しく、読みが大変。特に人の名前と地名。したがって時々「ふりがな」の部分まで戻らなければならない。
2.これは、この物語だけではなく、日本以外の場所で展開される物語は、よく場所がわからない。したがって地図が欲しい。
3.登場人物が多く、人物の関わり合いがよくわからなくなる。
ということで、戻ってみたり、地図を見たりしているので、どうしても読むのが遅くなってしまう。
若いころはそんなことはなかった。
とにかく、先へ先へと読み進んでいた。やっぱ「勢い」があったんでしょうね。
さて、第7巻は赤壁の戦いの後、劉備が呉の孫権をうまくいなしながら独立し、諸葛孔明の勧めに迷いに迷った末「蜀」で独立しようという流れが描かれている。
といっても、劉備だけの動静、劉備側からの視点だけで描かれているわけではなく、時には呉の孫権、周瑜などの状況、魏の曹操の考えなどが十分に描かれている。
だから、時や場所が、スッと転換されるので、時々「アレ?」ということになり、立ち止まってしまう。
ホント、こんなことはなかった。
そしてもう一つ、感動する文章、コトバ、が出てきて、余韻に浸ってしまうのである。
で、その余韻の中で、眠ったりするので、先に進めない。
更には意味不明つまりネットで検索しても出てこない熟語などが登場する。
これは前後の文章からなんとなく意味は推察できるのだが、モヤモヤ感は否めない。
例えば「持循すべき道」は、なんとなく前後のつながりからふわっと感じ取れるのだが、さて、では、となるとなんだかなあ、なのである。
さて、三国志といえば大体が劉備・諸葛亮孔明が善玉で曹操が悪玉というのが大方の相場である。
しかし、本書を読むと改めて「曹操」こそが英雄であり善玉だと思う。
劉備は「是非を明確にしない。思考を行動にうつすことができない」と著者は断じている。
他の著者による三国志を読んでいたが、劉備は確かにそういうところがある。
というか、曹操以外の二人には『社会をどうするか』という明確なものがなかったと思える。
ただひたすら「てっぺん」に登るため(策や謀をつかって)努力するひとたちは今でも見ることができる。
でも、そもそもその人が描く理想の社会が、絵にかいたようなものであったり、その場しのぎであったりすることが多い。
本書の曹操は「政府と社会を腐敗させる偽善を憎んだ」ゆえに時には「大量虐殺のような極端な行為に走った」しかし「詭妄(きぼう)」はなかった、と描かれている。
いわゆる天下取りを描いた物語は数多くある。
そして天下を取った者は、大きな社会の変革を正義で行おうとした者、つまり自分の中で「公」が「私」を勝っている者、ではないかと思うのである。
但し、途中で「私」が多くなると、どこかで転ぶ。
また「仁義なき戦い」は、私と私の戦いで、ゆえに「策謀」が勝負の分かれ目になっているように思える。
仁義なきとは「私」しかないことなのだろう。
三国志に戻ると、自分が理想とする社会と多くの人が理想とする社会が近かったのは曹操なのだと思う。
しかし、曹操が独り勝ちできなかったことは、他の二人を取り巻く人々がそれなりに優秀であった、劉備や孫権一人では曹操に対抗できなくても、取り巻く人々に力があったのだろうと思う。
まだまだ12巻まで遠いが、ゆっくりと読み進めていこうと思っている。
三国志の時代は長く続かず、三人の英雄が取り巻きとともに退場していくと、別の体制に変わっていく。
これは、たぶん「秦」の始皇帝によって中国が統一されその後劉邦が「漢」を建国した「体制」が社会にそぐわなくなり、三国志の時代で混乱する。混乱の中で、さらに中国の領域が広がる、またまた混乱が生じる。
この「混乱」は、今までの体制の外側との環境との接触が、体制を変えなくてはならない、という思いを生むんだと思う。
日本も戦後の体制を基本として少しづつ環境に対応をしてきたが、もしかしたらこの体制を大きく変えなければならない時代に入っているのかもしれない。
そんなことまで、三国志を読んで思うのは、年老いて世を憂える気持ちが多くなってきたのかもしれない。
「希望」こそが前へ進む動力だなんて思っていても、実際は希望をかなえようとする大きな力がなくなってきているんだなあ。
なんだか、変な方向に行ってしまった。
で、実は酒見賢一の『泣き虫弱虫諸葛孔明』の文庫版第4巻を次に読むつもり。
これで、少しは考え方も変わるのではないか、という期待を込めて。