次郎物語との出会いは、小さいころ観たNHKのドラマだった。
池田秀一が主人公の次郎だった。ウィキペディアで確認すると、1964年4月7日から1966年3月29日まで放送されたとなっている。
ということは、私が8~10歳のころである。内容についてはなんとなく覚えているくらいで、次郎の父:俊亮役を演じた久米明がカッコよかった。
ウィキで初めて知ったが、朝倉先生が登場していた。ということは子供時代から中学時代も描いていたこととなる。
次郎物語といえば、祖母や母から疎んじられ、乳母のお浜だけの愛にすがる、というような物語というのが印象だったので、好きな物語ではなかった。
しかし、成人してから2回ほど読んだが「なかなかどうして侮れない」を超えて「青春小説の第一番」という評価になっていった。
そして今回、キンドル版で読み直したのである。
やっぱり、最高の青春小説である。
次郎の青春時代の喜び、苦悩、漠然とした未来への希望と不安、恋、家族、取り囲む人たちなどなど、いろいろなことが必然的に描かれているのは、少年時代の次郎を知っているから思うことである。
次郎を形作っていったのは、取り囲む人々で、愛、憎しみ、怒り、無関心などの中で、次郎は成長する。
ちなみに、これらの愛、憎しみ、怒り、無関心には「大小」「強弱」「長短」「裏表」があることを、今回読んで感じた。
そして大きな愛がいいのかというと、それが時には重く感じたりするのだから、ヒトは勝手である、ということも今回あらためて感じた。
「無計画の計画」ということがこの物語で出てくる。
この「無計画の計画」という言葉が、折に触れて思い出される。
人生とは、計画をしていようが実は無計画の計画なのではないか?ということが思い浮かぶのである。
次郎は、無計画の計画を経験して、青年になった。
私は無計画の計画をしていない、というよりできない性質(たち)らしい。
それが悔しい。なんか中途半端な計画よりも無計画のほうがいいのではないかと思うのである。
また「白鳥芦花に入る」という言葉。
これは次郎の一生の師となる朝倉先生のいわば座右の銘であり、次郎にとっても自分を顧みるときに思い浮かべる言葉である。
白鳥芦花に入る、の実践はなかなか難しい。でもいつも心掛けていなければならないと思っている言葉である。
この言葉「白鳥芦花に入る」は「魏の扁鵲の長兄」とセットになって私が目指す境地になっている。
それにしても、昔の人は大人だった。
青春時代に「人生」を考える。
自分の思い描く人生と現実との大きな乖離をどう埋めようか、どう折り合いをつけるのか、そんなことを青春時代に考える。
私は今になってもまだまだだなあと思うのである。
次郎物語は5部で「これからいよいよ」という時をもって終了している。
その後、次郎はどう生きたのだろうか?
それは、我々が想像するしかないのであろうか。