なんとなく「ほわっと」したものを読みたいと思って探していたとき、そういえば「山本周五郎」があるではないか、と思ったのである。
高校の図書館で出会ってから、なんとなく、読んではいたのだが「樅の木は残った」を読んだあたりから、特別な存在、のようになっていた山本周五郎。
特別な存在というのは、気持ちを入れ替えたいとき、ということなのか、ともかくも山本周五郎の本を手に取るときは気持ちがちょっと違う。
といいながら、そんなに読んでいないのであるが。
そういえば「藤沢周平」を読んだとき、山本周五郎の雰囲気に似ているなあ、と思ったのだ。
今回の「寝ぼけ署長」は昭和21年(1946年)12月から探偵雑誌「新青年」に連載されたものだそうで、当初は覆面作家として山本周五郎の名前は出なかったそうである。
寝ぼけ署長とあだ名される「五道三省」(ごどうさんしょう)が主人公の、推理小説といえば推理小説であるが、人情、ということが主になっているもので、謎解きは二の次のような気がする。
全部で10話である。
最初3話くらい読んだのであるが、なんだか一気に読むのがもったいなくて一夜一話で読んだのである。
この小説を読むと、敗戦後で貧しい暮らしを強いられていた日本には、美しい人情と倫理観があったことがわかる。
豊かになることと引き換えに、日本が失ったものは相当大きいものであることがわかるのである。
寝ぼけ署長が在任した期間は、管内における犯罪事件が少なくて起訴件数は他の署長時代より4割も減っている。
のだそうである。
五道署長は
「年は40か41、大変肥えた人肩などは岩のように盛り上がって、顎の2重にくくれた、下腹のせり出した、かなり格好の悪い軀つき」
で
「細い小さな眼はいつもしょぼしょぼして、動作はなんとなくかったるそうで、言葉つきはたどたどしくてはっきりせず」
「全体として疲れた牡牛」
のようなのだそうだ。
それが、事件を解決するのだが、その解決の方法は権力で押さえつけるのでもなく、悪事をことさら大きく暴き立てるのでもなく、人の将来を考えた、そして悪事をはたらいた人が自ら反省するような、そんな解決の方法をとるのである。
「不正や悪は、それを為すことがすでにその人間にとって劫罰であるか、善からざることをしながら法の裁きをまぬかれ、富み栄えているように見える者も、仔細に見ていると必ずどこかで罰を受けるものだ、だから罪を犯した者に対しては、できるだけ同情と憐れみをもって扱ってやら無ければならない」
と寝ぼけ署長は言うのである。
「・・・犯罪は懶惰(らんだ)な環境から生まれる、安逸から、狡猾から、無為徒食から、贅沢、虚栄から生まれるんだ、決し貧乏から生まれるもんじゃないんだ。決して」
もっと引用をしたいが、興味のある人はゼヒ読んでください。
当初の目的である「ほわっと」したいということは充分達成され、それ以上に得るものが多かった、今の自分にあった物語であった。
こういう出会いがあるから読書をやめられないんだよなあ。
最近「ブログ村」というところにこのブログを登録しました。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。
高校の図書館で出会ってから、なんとなく、読んではいたのだが「樅の木は残った」を読んだあたりから、特別な存在、のようになっていた山本周五郎。
特別な存在というのは、気持ちを入れ替えたいとき、ということなのか、ともかくも山本周五郎の本を手に取るときは気持ちがちょっと違う。
といいながら、そんなに読んでいないのであるが。
そういえば「藤沢周平」を読んだとき、山本周五郎の雰囲気に似ているなあ、と思ったのだ。
今回の「寝ぼけ署長」は昭和21年(1946年)12月から探偵雑誌「新青年」に連載されたものだそうで、当初は覆面作家として山本周五郎の名前は出なかったそうである。
寝ぼけ署長とあだ名される「五道三省」(ごどうさんしょう)が主人公の、推理小説といえば推理小説であるが、人情、ということが主になっているもので、謎解きは二の次のような気がする。
全部で10話である。
最初3話くらい読んだのであるが、なんだか一気に読むのがもったいなくて一夜一話で読んだのである。
この小説を読むと、敗戦後で貧しい暮らしを強いられていた日本には、美しい人情と倫理観があったことがわかる。
豊かになることと引き換えに、日本が失ったものは相当大きいものであることがわかるのである。
寝ぼけ署長が在任した期間は、管内における犯罪事件が少なくて起訴件数は他の署長時代より4割も減っている。
のだそうである。
五道署長は
「年は40か41、大変肥えた人肩などは岩のように盛り上がって、顎の2重にくくれた、下腹のせり出した、かなり格好の悪い軀つき」
で
「細い小さな眼はいつもしょぼしょぼして、動作はなんとなくかったるそうで、言葉つきはたどたどしくてはっきりせず」
「全体として疲れた牡牛」
のようなのだそうだ。
それが、事件を解決するのだが、その解決の方法は権力で押さえつけるのでもなく、悪事をことさら大きく暴き立てるのでもなく、人の将来を考えた、そして悪事をはたらいた人が自ら反省するような、そんな解決の方法をとるのである。
「不正や悪は、それを為すことがすでにその人間にとって劫罰であるか、善からざることをしながら法の裁きをまぬかれ、富み栄えているように見える者も、仔細に見ていると必ずどこかで罰を受けるものだ、だから罪を犯した者に対しては、できるだけ同情と憐れみをもって扱ってやら無ければならない」
と寝ぼけ署長は言うのである。
「・・・犯罪は懶惰(らんだ)な環境から生まれる、安逸から、狡猾から、無為徒食から、贅沢、虚栄から生まれるんだ、決し貧乏から生まれるもんじゃないんだ。決して」
もっと引用をしたいが、興味のある人はゼヒ読んでください。
当初の目的である「ほわっと」したいということは充分達成され、それ以上に得るものが多かった、今の自分にあった物語であった。
こういう出会いがあるから読書をやめられないんだよなあ。
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