自分の身の回りに起こる全ての出来事には意味がある。と言われると、良い事は確かにそうだな。と思い、自分にとって悪い出来事に対しては懐疑的になるんじゃないだろうか? しかし、物事には良いも悪いもあるという二つの方向性の理解から、実は良い事しかない!とする一方向性的な理解に徹するならば、一見すると不幸や不運に思う出来事でさえもその先にあるより大きなラッキー(幸運)に続く一つの道の風景なのだとする理解は、新時代の幸福論なのか? あるいはただ単なるアホなのかもしれない。
人通りは少ないが、車の通過はそれ程少なくない路上駐車場。
最近はいつもこの辺に止めているんだよねぇ。
やっ!
...
空のくすんだ色と、ボディのくすんだ色、そして周りの景色のくすんだ冬景色で写真だと分かりにくいのですが。
やられました。
石か何かを投げられた様子です。
誰かの悪戯ですね。
エンジンを掛けて暖機をしていると、呼んでもいないのに地元の親しいポリスがやってきた。
レポートするか?
って聞くから、
...じゃーする。
このランクル、そしてこのオヤジは変わり者という事で地元の警察に目を付けられている事がよく分かった。
おい、しっかりパトロールするんだぞ!
こういった事が起こると考えるんだよね。こういう現象をどう捉えようか? あるいはどう消化しょうか? などと。もしこの車が愛情の無いただ走りゃーいい的な日常の足ならば、警察を呼んで、声のトーンを上げて、『ヒデー事をやられた、犯人を捕まえてくれっ。』て頼むのであろうが、ランクルの場合は違う。これはひょっとしたら、という声が僕を慎重にさせる。パートナーである愛するランドクルーザーが打たれたのは身代わりだったのかも知れない、などと。家族や知人の誰かが怪我をするはずだったが、ランクルが身代わりになってくれた。かなり妄想的ではあるが、そういう感じがしたのだ。愛する相棒であるランドクルーザーは主人が受ける大難を小難にする。傍から見るとアホ臭い解釈ではある。
そう考えたお陰で心が壊れる事は無かった。
早速ガラスを交換する。(いやー、60のフロントウインドーってまだ市場にあるもんですねぇ)
消えたものは修理代の数百ドルのお金です。
しばらく、食卓のおかずは減りますな、
壊れたのが物で良かったという気持ちはあります。
もしも、この出来事に意味があるとすれば、それはこうやってここに所感を書いて置けた事であろうか、
或いは、こうやって泣き寝入りしちゃーいかん、というマイナス的な例を示したという事なのだろう。