寛政12年7月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年7月11日(1800年)
朝薄曇り、太陽の南中を観測。夜は晴曇り、測量(天体観測)。(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に四泊目です。日記の記載も単調です。
寛政12年7月12日(1800年)
朝曇り、日出より晴天、昼夜ともに晴天、測量。(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に五泊目です。
なぜここまでの長逗留となってしまったのかについては、明日の記事で明らかになりますが、役人の通行を待っていたからです。
寛政12年7月13日(1800年)
朝曇り、日出より晴天、太陽の南中を観測する。夜も晴天。戸川藤十郎様(御小納戸御両頭)及び大河内善十郎様が当所(ビロウ)に御到着。両公御通行のため、宿所、人馬がひっ迫しており、ビロウに長逗留とならざるをえない。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ビロウ(広尾町)に六泊目です。ビロウに長逗留となった理由がわかりました。ビロウに到着する役人を待っていたのです。チーム伊能も公用ではあるものの、御役人には敵いません。役人が通行するためには、人馬がかりだされますし、お付きの者の宿泊もありますから、宿所もひっ迫。通行を待つほかないのでした。
寛政12年7月14日(1800年)
大河内・戸川両公が朝五つ頃出立され、馬は出払ってしまい調達できないので、荷物は蝦夷人の人足にもってもらい、五つ後に出立。朝より晴天、七つ過ぎより曇天。
新道海岸を行き、モンベツにて中食。七つ半後、トウブイに着。昼夜に蚊が甚だ多く難儀している。昼でも蚊帳がないとしのぎ難い。昼は暑気強く、夜四つ後より雨。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はビロウ(広尾町)〜トウブイ(当縁;大樹町)。今の広尾町会所前から當縁神社までは約27キロです。
大河内・戸川両公がビロウを出立しましたが、チーム伊能が使える馬が出払ってしまっていてありません。やむなく人足として依頼していたアイヌ人に荷物を持ってもらうことになりました。
寛政12年7月15日(1800年)
朝より昼まで曇る。夜も白雲、雲間に測量(天体観測)。四つ後よりだんだん晴れ、深夜晴天。(トウブイに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
トウブイは現代では「当縁」。1956年までは「大字当縁村」が存在し、当縁の地名が残っていたのですが、同年に大字を字に分割・再編したために当縁という地名は消滅してしまいました。地名として消滅しても、神社の名前等には残っている場合があります。「當縁神社」や「当縁馬頭観世音」がありましたので、おそらくその周辺がチーム伊能が泊まったところなのでしょう。
寛政12年7月16日(1800年)
朝より午の刻半ばより晴れ、七つ時より曇る、少し雨また曇る。朝六つ半頃に出立。ユウトウで中食。トウブイから海岸を行き、七つ頃ヲホツナイに着。夜も曇る。仮家止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はトウブイ(当縁;大樹町)〜ヲホツナイ(豊頃町大津)。グーグルマップ上では約36キロです(當縁神社から豊頃町大津小学校まで)。
今日は中食どころとなったユウトウの明治4年の絵。リンク先の絵をみると左方に「小休所」という家屋があります。チーム伊能もこのようなところで中食を食べたのかもしれません。
寛政12年7月17日(1800年)
朝晴曇り、午の刻前より晴天、夜また同じ。午の刻に太陽を測る(南中を観測)。夜も測量(天体観測)。(ヲホツナイで逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はヲホツナイで逗留。忠敬は「夜も測量」と書いていますが、現代の感覚でいうと、夜に行っていたのは天体観測なので、「(天体観測)」と補足をしました。この天体観測は測量に欠かせない仕事(北極星の位置からその場所の経度を割り出す)ですので、伊能忠敬の頭の中では「測量」なのです。
明治4年のヲホツナイ(絵ではオオツナイ)。この絵ではオオツナイは砂洲みたいなところで、こんな場所に宿所があったのかと驚かされます。現代は埋立てられたようです。
寛政12年7月18日(1800年)
朝より七つ頃まで曇天、それより雨、夜風雨。朝六つ半後に出立。海岸をおよそ五里ほど行き、ヲコツペアツナイで中食。それより三里余りで七つ過ぎにシヤクベツに着。仮家に止宿。ヲホツナイからシヤクベツまでは七里というが、遠し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はヲホツナイ(豊頃町大津)〜シヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)。日記の中で五里+三里余りといっているので、約32キロでしょうか。出立してから程なくして雨となったので、かなり遠く感じられたようです。「遠し」というちょっと疲れた感がでる記載の仕方をしています。
寛政12年7月19日(1800年)
前夜より八つ半過ぎまで風雨、それより曇天。浪高く、丘へ浪が打ち上げること三十間(約54m)ばかりで、宿としている仮家まで一町余り(約109m)。蝦夷地往来中の大波濤である。先日16日夕方に、嶋隼之助殿という方がヲホツナイに着いた。しもべもおらず、浮腫の病気だという。本日嶋殿と出会い、浮腫の療治を談じた。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は悪天候のためシヤクベツに逗留。蝦夷地に来て以来の大波濤であると評されるほどの波の高さで、宿としている仮家まで100メートルほどのところまで波がくる様には、チーム伊能の面々も冷や冷やしたことでしょう。
寛政12年7月20日(1800年)
朝より曇天、薄曇り中に太陽の南中を観測。夜は曇天。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もシヤクベツに逗留。昨日の日記の記事で、嶋隼之助という方について触れていますが、どのような方なのでしょうか。蝦夷地ではこの時期公用での旅しか許されなかったはずですが、伴も連れず(原文は「無僕」)にどこへ向かって行くのでしょうか。忠敬はそれらには触れず(おそらく興味もない)、嶋殿の浮腫の治療法について関心をもったようです。
蝦夷地での浮腫については次の論文があります。
「蝦夷地警備藩士の飲用したコーヒーが健康に及ぼした影響」早川 和江
〈蝦夷地での藩士たちを脅かしたのは寒さと浮腫病(水腫病)であった.この病は「腫レ出シ後心ヲ衝キ落命ニ至ル」といわれ,罹患した者の多くは死亡したという.現代でいえば脚気,または壊血病ではないかとされている〉
寛政12年7月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年7月朔日(1日)(1800年)
朝は曇り、四つ頃より晴天、夜曇る。太陽の南中を観測する。中村氏所持の蝦夷地大絵図を一見する。(シヤマニに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は四ツ(午前10時)から日中は晴れで天候もよく、太陽の南中も観測できました。南中観測は緯度計測のためです。シヤマニ(様似)に派遣されていた中村小市郎は蝦夷地大絵図を所持しており、忠敬はこれを見ることの許可を得ています。忠敬の地図作りは、このような先人の業績にも助けられてのものでした。
寛政12年7月2日(1800年)その1
薄曇り、夜も同じ。朝五つ頃シヤマニ出立。海岸は砂に小石が交じり、又は大石を積むに似たる道で行路は難。海岸には高く尖った大岩を上下するところがあり、甚だ危うし。〈難路の記載ですが、長いため略〉
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年7月2日(1800年)その2
海辺や新道を行き、五つ頃ホロイヅミに着。最後の一里は夜になってしまった。終日難所続きで草鞋もことごとく切れ破れてしまった。素足になって甚だ困窮しているところへ、出迎えの提灯に出会った。地獄に仏の心地。〈後略〉
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の日記は測量日記中一番の長さで、本日の行程がいかに難所であったかを示しています。長いため全訳はブログに記載しました。
本日の旅程はシヤマニ(様似町)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。今の様似会所跡からえりも小学校までは約25キロです。
寛政12年7月3日(1800年)
朝より正午過ぎまで曇る。その後中晴れ、夜は晴天にて測量。(ホロイヅミに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はホロイヅミ(幌泉)に逗留。天気と夜の測量のみの記事です。昨日の疲れを癒やしたのでしょうか(昨日はこの測量旅行一の難路の記事)。幌泉町は現在えりも町といいますが、これは合併によるものではなく、改称によります(1970年改称)。森進一の「襟裳岬」は1974年のヒットなので、歌の影響というわけではなさそうです。
寛政12年7月4日(1800年)
朝五つ後まで曇天、それより中晴れ、夜曇天、夜半後より雨。朝五つ頃出立。海辺を半里ほど行き、新開山道へ入る。中食をとるところまでは、多少上下はあるけれども、平地とさして変わりはない。
その後は山坂多く難所。サル川等の大川を三つ越えて、谷あいのサルルに七つ半後に着。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は幌泉(えりも町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。グーグルマップでは約27キロ。様似から幌泉に至る道も難所だらけでしたが(7月2日条)、本日も難所でした。この難所は猿留山道として国指定史跡となっています。
《猿留山道(さるる・さんどう)は、寛政十一年(西暦1799年)に江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道(当時の全長は約30キロメートル)の一つである。》
(えりも町ホームページから)。
寛政12年7月5日(1800年)
朝小雨、五つ半過ぎより少晴れ、九つ頃より七つ前までまた小雨、夜は曇天。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日はサルルに逗留ということもあり、簡素な記事です(忠敬の日記にありがち)。昨日の旅程ですが、襟裳岬をショートカットしており(グーグルマップ参照)、測量していません。伊能図に記入されている襟裳岬周辺の測量は、忠敬が測量したものではありません。
寛政12年7月6日(1800年)
朝は曇り、午の刻は薄曇り。太陽の南中を観測。六つ半頃まで曇る、五つ前より晴れ。夜、句陳(こぐま座)、奎九(カシオペア座にある星)まで測る。八王子同心の頭、原半左衛門殿の手付三人の衆と同宿。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
八王子千人同心の原半左衛門については、6月21日条でも言及されています。原半左衛門は千人頭で、この年(寛政12年)、弟•新助と共に千人同心の子弟を100人を率いて蝦夷地に渡ってきました。
寛政12年6月21日(1800年)その2
— 断感ろーれんす (@tk23956) June 20, 2022
ユウブツの詰合は御小人目附高橋治太夫殿と原新介殿である。原殿は八王子千人同心の頭原半左衛門殿の弟である。医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会。ユウブツには蝦夷人の集落はなく、人家は会所も含めて四軒あるとのこと。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年7月7日(1800年)
朝から晴れる、午の刻に太陽の南中を観測。午後より曇る。前夜深更まで測量をしたので、本日も(サルルに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もサルル(猿留)に逗留で同所四泊目。前夜深更まで測量をしたためです。測量、天体観測、データの整理に時間を費やしており、遊んでいる様子が全くありません。忠敬はこの事業に心血を注いでいますし、好きだからここまでやれるのでしょうが、チームメンバーの他の四人は大丈夫でしょうか…と心配になるほどです。
寛政12年7月8日(1800年)
朝四つ頃まで曇る、その後晴天、七つ後より薄曇り、暑気強く夜曇天。朝六つ後出立し、新開山道を行く。ルベシベツという山中で中食。七つ頃ビロウに着。同所の御詰合は支配勘定格三浦善蔵殿及び御小人目附田口久治郎殿である。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ビロウ(広尾町)。今の日高目黒郵便局から広尾町会所前までは約22キロです。チーム伊能の出立は朝五つ(午前8時)が多いのですが、本日は朝六つ(午前6時)といつもより早い出立。サルルに四泊もしたんだから、朝早くに出るぞ!と言わんばかりの早い出立です。
寛政12年7月9日(1800年)
朝曇天、四つ頃より終日雨、夜も同じ。
(ビロウに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はビロウ(広尾町)に逗留。四ツ(午前10時)から終日雨と天気が悪く、天体観測もできず。忠敬の不機嫌さが伝わってくるような日記の短さです。
昨日の日記で「新開山道を行く」とあるのは、幕府が新しく道路整備をした道を通ったということです。馬が通れるように山道を整備していったのです。幕府が東蝦夷地を直轄としたのは、忠敬が蝦夷地を訪れる前年のことですから、文字どおりできたての道だったはずです。
寛政12年7月10日(1800年)
朝に雨止み霧深し。昼後より少晴れ、後々小雨、七つ後より少晴れ。5月17日付の伊能三郎右衛門及び大川治兵衛殿の江戸からの書状が届いた。夜、測量。
(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「伊能三郎右衛門」は伊能忠敬の長男(伊能景敬)のこと。「伊能三郎右衛門」は伊能家の当主の名のりです。それにしても、江戸からの手紙がきっちり蝦夷地まで届くというのは、スゴいことです。そういうシステムがちゃんと出来上がっていたのですね。
寛政12年6 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年6月21日(1800年)その1
朝から七つ頃まで曇天、夜は晴曇り。
朝六つ半白老を出立。海辺一里半ほどは砂地で、歩みがたし。そこからは新道でコイトイまで4里11町の間に休み小屋が二軒ある。同所にて中食。同所よりユウブツまで4里12町。七つ半後ユウブツに着。夜晴間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月21日(1800年)その2
ユウブツの詰合は御小人目附高橋治太夫殿と原新介殿である。原殿は八王子千人同心の頭原半左衛門殿の弟である。医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会。ユウブツには蝦夷人の集落はなく、人家は会所も含めて四軒あるとのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月21日(1800年)その3
会所の側にユウブツ川が流れている。橋はなく、舟渡し。この川はシコツトウより流れており、西蝦夷のイシカリに行くには、シコツから川を下れば一日でイシカリ川にでて、3~4里下ればイシカリに着くという。陸行だと、イシカリ川まで二日かかるという。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白老(白老町)〜ユウブツ(勇払;苫小牧市)。今の白老会所跡から勇払会所の跡までは約38キロです。今日の日記は忠敬にしてはかなり長いものです。勇払で知識人(医師ほか)と話しをしており興が高じたのでしようか。
なお、勇払川が支笏湖から流れているとの記載がありますが、これは間違い。勇払川はウトナイ湖から流れています。
寛政12年6月22日(1800年)
朝晴れ、五つ後地震あり。その後薄曇り、七つ頃から中晴れで夜も同じ。
(ユウブツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日も引き続きユウブツ(勇払)に逗留。昨日の記事に原半左衛門(ユウブツの詰合)の名前が出てきました。同人は八王子千人同心のトップで、この年(寛政12年)、弟•新助と共に千人同心の子弟100人を率いて蝦夷地に渡ってきました。当時から有名な話しだったのか忠敬はこのことを書き留めています。
寛政12年6月23日(1800年)
朝曇り、八つ頃より少し晴れる。
朝六つ後ユウブツを出立。海辺にて大河三か所を渡船する。七つ半後サルモンベツに着。詰合は、御徒目付の比企市郎右衛門殿である。仮家に止宿。夜測量(天体観測)を行う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はユウブツ(勇払;苫小牧市)〜サルモンベツ(門別;日高町)です。今の勇払会所の跡から日高町役場までは約35キロです。大きな川が三箇所あり、船で渡ったとあります。ユウブツの会所の側も川が流れており、橋はなく舟渡しだったと記録されており(6月21日条)、これが手始めだったのでしょう。
寛政12年6月24日(1800年)
曇晴れ。朝五つ後に出立。海辺六里を行く。途中アツベツ川を船で渡る。他の者は歩いて渡った。八つ過ぎにニイカツプに着。会所に止宿。詰合は御普請役大竹弥市兵衛殿であり、親切に応対いただいた。
サルモンベツとニイカツプの間のカバリには蝦夷家13~14軒あり、アツベツには蝦夷家が十軒程あるとのこと。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルモンベツ(門別;日高町)〜ニイカツプ(新冠;新冠町)です。今の日高町役場から新冠会所跡までは約25キロです。アツベツ(厚別)川は、厚賀町と新冠町の境にある川で、忠敬だけ船で渡り、若者は歩いてわたったことが記録されています。
また、詰合の役人には親切な対応を受けています。必要最小限のことしか書かない忠敬ですが、親切に対応されたときは、忠敬はちゃんと日記に書き残しています。
寛政12年6月25日(1800年)
朝は晴れ、五つ後より小雨、夜は中雨。
(ニイカツプに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
天気だけの短い日記。五つ(午前8時)から雨のため、仕事にならなかったということでしょうか。じっと我慢だった、天気が悪いから休みだった、いろいろと考えることができますね。
寛政12年6月26日(1800年)
朝曇り、六つ半頃晴れ、昼前より曇天、暮より曇る。朝五つ前にニイカツプを出立。海辺三里を行き、ウセナイで中食。六里半行き、七つ後ミツイシに着。詰合は御普請役元締め宮本源次郎殿である。仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はニイカツプ(新冠町)〜ミツイシ(三石;新ひだか町)。今の新冠会所跡から三石小学校までは約30キロです。
三石に詰めている役人は宮本源次郎(孝郷)。近藤重蔵と共に蝦夷地に来ており高田屋嘉兵衛の択捉航路開発の詳細を記した著『恵登呂府渡海之記』(ヱトロフ渡海記)を著しています。
ヱトロフ渡海記 は高田屋顕彰館・歴史文化資料館に収蔵されています。
寛政12年6月27日(1800年)
朝五つ後より晴れ、昼前後晴れ、八つ後より曇晴れ、七つ後より曇る。雲間に測量。(ミツイシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は三石に逗留。天気と「雲間に測量」としか書かれていない素っ気なさです。
〈三石会所について〉
三石場所が【寛政11(1799)】に幕府の直領となった際、それ以前の「運上屋を三石会所」としたもの。
文化6(1809)の文献では、運上屋時代からある棟行11間、梁間4軒の建物に、享和3(1803)に座敷を増築した会所と、旅宿、厩舎、板蔵、渡船、漁船などがあったと記録されている。
寛政12年6月28日(1800年)
朝四つ頃まで霧深く、以後晴天。
朝六つ半頃出立。海辺三里を行き、ウラカワで中食。さらに二里行き、八つ頃ムクチに着。会所に止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はミツイシ(三石;新ひだか町)〜ムクチ(浦河町)。ムクチが、今のどこに当たるか調査すれどわからず。松浦武四郎「蝦夷日誌」では、もともとの名前は「ムコチ」で今は訛ってムコベツ(向別)になったといっているので、向別川近くにある堺町小学校を目安としました。今の三石小学校から堺町小学校までは約20キロです(海辺三里+二里なので距離はあっています)。
寛政12年6月29日(1800年)
朝中晴れ、四つ後より晴天。朝五つ後ムクチ出立。三里行き、シヤマニ着。詰合は御普請役の中村小市郎殿である。会所に八つ頃に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はムクチ(浦河町)〜シヤマニ(様似;様似町)。グーグルマップでは約17キロ。様似では様似会所跡が地図にも掲載されています。その所在地も〈様似町会所町1〉。地名にも〈会所〉が残っています。
中村小市郎は、北海道最初の官営道路ともいうべき様似山道開削の責任者で、開削後は、シャマニ会所の詰合に就任しています。なお、様似山道の南側の海岸線を通る現在の山中トンネルの愛称は「小市郎トンネル」と命名されているそうです。
(6月は29日までです)
(はじめに)
今回紹介するのは、寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記です。
伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、5月22日に函館に到着。その後、海岸に沿って東に進み、7月2日はシヤマニ(様似町)を出立し、ホロイヅミ(幌泉;えりも町)まで進みました。このルートは難路であり、この日の日記は蝦夷地測量日記随一の長さとなっています。
伊能忠敬は日記であまり自分の感情を表に出さないのですが、到着が夜になってしまったこともあり、出迎えの提灯に「地獄に仏の心地」と記しています。
【寛政12年7月2日】(1800年)
薄曇り、夜も同じ。朝五つ頃シヤマニ出立。海岸は砂に小石が交じり、又は大石を積むに似たる道で行路は難。海岸には高く尖った大岩を上下するところがあり、甚だ危うし。
また、干潮のときを狙って走らなければならないところがある。蝦夷人を案内人としているけれども、折節潮が満ちて渡ることが難しい。渡っているときに潮に濡れてしまって、三〜四町(300〜400m)も戻らなければならない。
蝦夷人だけが往来する念仏坂という険阻なる山越えをして、ポロマンベツという川へ出た。この川を越えて十四五町行きヲトロシヤンナで中食。
海辺や新道を行き、五つ頃ホロイヅミに着。最後の一里は夜になってしまった。
終日難所続きで草鞋もことごとく切れ破れてしまった。素足になって甚だ困窮しているところへ、出迎えの提灯に出会った。地獄に仏の心地。この迎えの提灯は、御詰合支配勘定の佐藤茂兵衛殿が支配人へ出迎えるようにと指示してくださったものであった。
行程は七里であるが、実際には八里余りもあったであろう。潮がひいたところでもわたることができなかったところもあったし、新開山道といえども行路難のところもあった。仮家に止宿。
寛政12年6 月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年6月11日(1800年)
ヤマセ風で曇天。雲間に太陽の南中を観測。その後暑くなったので、単物を服する。レブンケの詰合出役の小屋から別の仮屋へ移る。詰合支配御勘定の田辺安蔵殿が本日ご出役のためである。明日ヲムシヤが催されるため。本日はレブンケに逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はレブンケ(豊浦町礼文華)に逗留し、観測を行いました。ヤマセ風が吹くか吹かないかで気温が上下します。暑くなれば単物ですみます。レブンケには会所はまだ出来ておらず、「小屋」が役所として使われていたようです。会所⇒小屋⇒仮屋のランクで、この夜は仮屋泊まりのチーム伊能です。
寛政12年6月12日(1800年)
朝五つ後晴天、太陽の南中を観測。夜は曇天。本日レブンケ近隣の蝦夷人を集め、田辺氏が蝦夷人に盃を給わった。これをヲムシヤという。本日田辺氏へ、我らが江戸へのぼるための御用状をお願いした。
(レブンケに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は、ヲムシヤの儀式があったため礼文華に逗留。ヲムシヤとは、近隣の蝦夷人を集め、詰合支配御勘定の田辺氏が蝦夷人に盃を振る舞うこと。他の文献では「当初は交易に伴う挨拶儀礼」ともあり、交易を始めるための儀式だったようです。後には交易や漁労の終了時の慰労のための行事として年中行事化していったそうな。
寛政12年6月13日(1800年)
終日曇天。朝五つ頃レブンケを出立。田辺安蔵殿もアブタへお帰りになられるので、途中から一緒になる。アブタへの道は山越えが大難所であり、海辺の道も入りまじる。ヤマセ風にて冷たく、袷を服した。
七つ半後アブタへ着き、会所に止宿。宿所は田辺氏の居間の奥。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はレブンケ(豊浦町礼文華)〜アブタ(虻田;洞爺湖町)。今の礼文華小学校から虻田小学校までは約19キロです。礼文華〜大岸までは海岸沿いですが、それ以降は山の中の道です(「山越えが大難所」)。田辺安蔵はアブタの詰合支配御勘定であり、ヲムシヤのためにレブンケに出張していたのでしょう。
寛政12年6月14日(1800年)
朝より午後まで曇天、八つ前より終夜晴天、夜に入って寒し。諸星と太陰(月)を観測する。(アブタに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアブタ(虻田)逗留。八つ(午後2時)前から晴れたので、夜、天体観測ができました。夜中測量の図が残っています(後の測量旅行のときのもの)。太陽暦だと7月か8月のはずですが、「夜に入って寒し」。昨日もヤマセ風で袷を着ていましたから、寒空での天体観測です。
寛政12年6月15日(1800年)
朝曇天、五つ頃より晴天、夜も同じ。太陽の南中を観測。田辺氏の所持する東蝦夷の図面を写すために(アブタに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「田辺氏」は、今月11日から日記に出てきている詰合支配御勘定の田辺安蔵のこと。虻田に東蝦夷の図面を持っており、虻田に詰めている役人です。測量のみならず、既にある地図情報の収集もチーム伊能の仕事であったことも分かります。
寛政12年6月11日(1800年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) June 10, 2022
ヤマセ風で曇天。雲間に太陽の南中を観測。その後暑くなったので、単物を服する。レブンケの詰合出役の小屋から別の仮屋へ移る。詰合支配御勘定の田辺安蔵殿が本日ご出役のためである。明日ヲムシヤが催されるため。本日はレブンケに逗留。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月16日(1800年)
朝薄曇り、五つ後より晴天。
朝五つ後アブタを出立。三里半行き中食。ウス(有珠)へ出、野地を通り、海岸多し、山道もあり。七つ後モロランへ着。ここはエトモに詰合の松田仁三郎殿の管轄であり、仮家は残っていない。夜薄曇りの中で測量。朝夕袷を服し、襦袢も用いる。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアブタ(洞爺湖町)〜モロラン(室蘭市)。今の虻田小学校から室蘭の地名発祥の地までは約26キロでいけますが、現代のルートはほとんど海岸を通らないルートです。日記では「海岸多し」といっているので、車道を作りにくい海岸の方を通ったのでしょう。そうでないと地図作りもできませんし。
寛政12年6月17日(1800年)その1
朝四つ頃まで曇天、その後晴天。
朝六つ半後モロランを出立。山へ登り、海辺へ出、また山へかかり、峠を三つほど越え、野原を行く。鷲別の山中で中食。また山を越え、海辺へ出、ポロベツへ七つ頃着。会所に止宿。夜、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月17日(1800年)その2
ポロベツの会所はシラヲイに詰合の御普請役長嶋新左衛門とエトモに詰合御小人目付松田仁三郎殿の双方の管轄である由。もっとも、長嶋氏がもっぱら担当しておられるように見える。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はモロラン(室蘭市)〜ポロベツ(登別市幌別町)。グーグルマップでは約20キロ。モロランは室蘭なのですが、今の市街地とは位置がズレています(エトモの方が今の市街地に近い)。マップでは〈室蘭の地名発祥の地〉をモロランとしてました。
日記なのに、忠敬は主観的な思いは殆ど語りません。本日の記事も同様。〈山へ登り、海辺へ出、また山へかかり、峠を三つほど越え、野原を行く。(中略)また山を越え、海辺へ出る〉と客観的に道程の大変さを表現します。
寛政12年6月18日(1800年)
(ポロベツに)逗留。朝五つ後より小雨、午後少しく晴天、それより夜まで曇り。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日はポロベツ(登別市幌別町)に逗留ですが、珍しく天気のことしか書いてありません。休みだったのでしょうか?それにしても、休みらしい休みもなく、徒歩で進み、観測までするとは並のことではありません。忠敬もですが、これに付いていくチームの面々(5名)もすごい。
寛政12年6月19日(1800年)その1
朝曇天、四つ過ぎより小雨、後曇り、夜半より雨。六つ半後、ポロベツを出立。海辺は砂が柔らかく歩行難。山へ登り、またそれより少し下って野原。草が伸び一丈ほどもある。山二つ越えてまた海岸。海岸で長嶋新左衛門殿に出会う。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月19日(1800年)その2
新道を一里余り行くと白老であり、大河には船渡しがある。七つ半に白老に着。
長嶋氏が留守支配人に申し置いていただいたので、白老の会所本陣に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はポロベツ(登別市幌別町)〜白老(白老町)。グーグルマップでは約26キロ。長嶋新左衛門殿は白老詰合の御普請役です(6月17日条)。長嶋氏は白老の会所からポロベツ方面にむけて出張。長嶋氏の留守支配人への指示により、チーム伊能は快適な会所本陣に宿泊できました。
寛政12年6月20日(1800年)
朝より雨天、午前止み、その後曇天、七つ後より晴れ。夜、測量。(白老に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日は白老(白老町)に逗留ですが、この日も天気と測量の記事だけです。奥州街道に比べると蝦夷地は道が整備されておらず、道のりの大変さが記事に表れることもでてきました(6月19日条)。単に旅をしているだけではなく、測量をしながら移動しているのですから、過酷な旅であることは間違いありません。
寛政12年6 月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年6月朔日(1日)(1800年)
この日朝から七つ後まで晴天、夜四つ後より雨、夜半より大雨。朝六つ後大野村を出立。同村より少し先に一ノ渡村があり、村上嶋之丞殿が在宅していたので訪問。内浦嶽(駒ヶ岳)の麓のスクノッペという山の間に休むところ一家あり(その手前には大沼、小沼がある)。その後、鷲ノ木村に七つ半頃に着。同所で止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
村上島之丞宅を訪問。村上は蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。林蔵は村上従者として蝦夷地に来ています。この日に伊能忠敬と間宮林蔵は初めて会ったのではないかと推測されています(測量日記には間宮林蔵の名前はでてこない)。測量日記に名前が出てくるのは、役人か忠敬の印象の残る人だけですから、このときはまだ間宮林蔵の名前を記載するほどではなかったのでしょう。
村上島之丞はこのとき著作『蝦夷島奇観』執筆中でした。同書は、2021年に現代語訳と解説が出版されています。
『現代語で読む蝦夷島奇観 アイヌ絵文献』的場光昭
本日の旅程は大野村(北斗市)〜鷲ノ木村(森町鷲ノ木)。今の大野小学校〜鷲ノ木小学校は約29キロ。
寛政12年6月2日(1800年)
朝より雨天、夜も同じ。よって、(鷲ノ木村に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は鷲ノ木村(現・森町鷲ノ木)に逗留です。同村周辺は江戸時代初期より、箱館周辺の漁民がニシンなどを求めて出稼ぎに来た所。寛政12年(1800)、箱館六ヶ場所一円の人口が次第に増加したため幕府は鷲ノ木を和人地と定めています。忠敬が来たのは丁度この年です。
(森町ホームページより)
寛政12年6月3日(1800年)
朝曇天、坤風が度々吹く、雨あり、夜もまた同じ。(本日も鷲ノ木村に)逗留。この日三厩村庄屋忠兵衛方より書状を送ったとの触れがあった。なお、箱館からも添触があり、大方位盤銅具を継送するという。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
坤風は南西の風のこと。本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(3泊目)。三厩村の庄屋忠兵衛というのは、チーム伊能が三厩に滞留していたときに、毎日不出帆書付を書いていた庄屋です(5月18日条)。
寛政12年5月18日(1800年)その2
— 断感ろーれんす (@tk23956) May 17, 2022
滞留のときは毎日、三厩(現・青森県外ヶ浜町)の庄屋忠兵衛が不出帆書付を提出する。
(その写し)
覚
今日、丑寅又は申酉、子丑の風で、出帆ができませんでしたので、このことを申し上げます。
以上
庄屋忠兵衛 判#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月4日(1800年)
朝六つ頃まで大雨、それより度々中雨、七つ半頃より夜まで中晴。雲間から測量(天体観測)を行う。(鷲ノ木村に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(4泊目)。もっとも、天候は回復傾向で夕方からは晴れ、測量(天体観測)も雲間から行っています。明日には鷲ノ木村を出立できそうです。
寛政12年6月5日(1800年)
朝より七つ頃まで晴れ、その後薄曇、夜五つ後より中晴れ。この朝五つ後に鷲木を出立し、ヲトシベ村にて中食。海辺を行き、七つ後山越内に着。同所に詰めている湯浅三右衛門殿の支配人伊藤茂座衛門の別家甚之丞方に止宿。五つ後より四つ頃まで測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲ノ木村(森町鷲ノ木)〜山越内(八雲町山越)。今の鷲ノ木小学校〜山越小学校までは約25キロ。内浦湾沿いを通るルート(「海辺を行き」)。五つ後(午後8時過ぎ)から四つ頃(午後10時)まで天体観測を行っています。昼間移動しながら測量、夜も天体観測。データの整理もあるはず。息抜きはいつしているのでしょう…。
寛政12年6月6日(1800年)
朝曇り、四つ後より晴れ。太陽の南中を観測。七つ後より曇る、夜は雨。(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
山越内には、1801(享和元)年、山越内関所が作られ、蝦夷地と和人地(日本民族が暮らす土地を指した言葉)の境として、和人が蝦夷地に入る取締業務をしていましたが、忠敬が訪れた寛政12年(1800年)はその前年であり、まだ山越内関所はありません。もっとも、「山越内」と漢字表記で村の名前が記されていることや、役人が詰めていることから、和人の統治が進んでいたことは窺えます。
寛政12年6月7日(1800年)
晨中雨、五つ後より晴天、夜は曇天。昨日の雨で行先の川々が増水しており、歩行が難渋するとのことであり(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
晴れてはいたものの、昨夜来の雨で川の増水を回避するため本日も山越内に逗留。山越漁港からは駒ヶ岳が見えるので、チーム伊能の面々もこの山を見ていたことでしょう。
八雲町山越漁港から見る駒ヶ岳さん pic.twitter.com/D7OEcz5XIn
— らるたん (@larutan0427) June 28, 2021
寛政12年6月8日(1800年)
朝より晴天、夜また同じ。朝六つ後に出立。海辺を行き、四里程で中食。七つ半前にオシヤマンベに着く。会所に止宿。夜測量を行う。折柄甚暑もあり、ここ九日ほど単物を着て過ごす。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜オシヤマンベ(長万部町)。今の山越小学校〜長万部町役場までは約36キロ。内浦湾沿いを通るルート。北海道とはいえ、さすがに甚暑。最近は単物で過ごせます。
https://maps.app.goo.gl/J9UZVmevrAA6eHCR6
「会所」について。忠敬が測量に来る一年ほど前のこと、寛政十一年(一七九九)八月幕府は、東蝦夷地知内村から以東を直轄し、東蝦夷地の場所請負人を廃し、道路を開き会所を建て、駅馬を備え、官船を造って運輸を便利にするという政治方針を確立しています。長万部には1800年には会所があったことが分かります。
寛政12年6月9日(1800年)
朝曇り、五つ頃より晴れ。太陽の南中を観測する。夜は曇り。本日、湯浅三右衛門殿が出張先のアブタから帰ってこられたのに出会った。湯浅殿は山越内・小砂満辺に詰めておられる方である。本日はヤマセ風も吹いて涼しく、袷を着る。(オシヤマンベに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はオシヤマンベに逗留。晴れて、太陽の南中観測も行っています。昨日までは甚暑でしたが、今日は涼しく、気温の上下動がありますね。。役人の湯浅三右衛門との山越内及び長万部に詰めている役人です(6月5日条にも名前が出てきています)。
寛政12年6月5日(1800年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) June 4, 2022
朝より七つ頃まで晴れ、その後薄曇、夜五つ後より中晴れ。朝五つ後に鷲木を出立、ヲトシベ村で中食。海辺を行き、七つ後山越内に着。同所に詰めている湯浅三右衛門殿の支配人伊藤茂座衛門の別家甚之丞方に止宿。五つ後より四つ頃まで測量(天体観測)。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年6月10日(1800年)
朝五つ後まで小雨、その後中晴れ、また七つ後より曇る。本日五つ後までは寒く、袷の上に襦袢。四つ後よりは単物で問題なし。朝六つ過ぎ(六つ半後)出立。霧深く、海辺三里ほどで新道峠にかかる大難所。七つ頃にレブンケに着。詰合出役の小屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。今の長万部町役場〜礼文華小学校までは約27キロです。これまでは海岸沿いの道を通って来ればよかったのですが、現在の長万部町静狩で山に阻まれ海岸沿いから山の中を通って行かざるを得ません。これが「新道峠にかかる大難所」。
日本一の秘境駅といわれている小幌駅は、静狩駅と礼文駅の間にあります。
寛政12年5 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年5月21日(1800年)
朝より九つ後曇り、また少晴。福嶋から四十八瀬といわれる小川を数十度越えてわたり、知内に至る。知内までが松前藩領で、知内川を境として、御用地(幕府領)となる。木古内まで行き、止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月22日(1800年)その1
朝薄曇り、五つの地より晴天、夜は曇る。朝六つ後に出立。札苅、泉澤、茂辺地、富川、三谷、有川を通り箱館に七つ頃着。宿地蔵町の伊藤茂左衛門の倅幸治郎宅。到着後役所に届を提出。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月22日(1800年)その2
届の内容。
書付をもって申し上げます。
一 私儀、先月19日江戸表を出立し、今月10日津軽領三厩へ着。11日から18日まで風待ちをし、19日に渡海致しましたが、風がよろしくなく松前領吉岡村へ着船致しました。19日、20日と風待ちを致しましたが、箱館までの渡海の見込みがたたないため、よんどころなく陸路にて今日到着致しました。以上、お届けいたします。 以上
申5月22日 伊能勘解由
蝦夷御掛 御役人中様
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月22日(1800年)その3
届けは、箱館御詰相御支配水越殿、支配勘定寺田殿、御普請役小林殿、布山殿、御先手組同心井上殿に回覧された。この日、御添触を小林氏に渡した。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月23日(1800年)
朝より九つ後まで曇り、七つ頃まで晴れ、七つ過ぎより曇り、夜もまた曇天。逗留。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月24日(1800年)
朝五つ頃まで小雨、九つ頃まで曇り、夜また同じく曇り。逗留。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月25日(1800年)
朝五つ半頃まで曇り、後晴れ、また七つ頃より小雨、夜も曇る。雲間に少しの間測量。そのころまでヤマセ風が吹く。今朝、同行してきた下人の長助が病気を理由に達ての願いということで暇を願ったので、御役所へ伺って長期休暇を許可した。路用金一分を渡し、三厩への乗合船に乗せた。この日も逗留。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月26日(1800年)
朝五つ後まで晴れ、九つ後まで小雨、七つ後より曇る、暮より五つ頃まで小雨、それより中雨南風なり。
逗留。役所へ添触を願い置いた。津軽家の笹森勘解由といわれる箱館詰めの役人、竹内甚左衛門殿より書状を持参され、宿所へお見舞い下された。南部領や津軽領を旅行していた時から、朝暮は寒いので、重服である。この日、太陽を測る。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月27日(1800年)
朝より四つ半頃まで曇天、それより晴天、夜も度々曇る、南風。午中太陽を測り、夜もまた少しの間測量をする。本日すこぶる暑く、昼は単物を着、夜は袷を着るだけですんだ。逗留。亀田御役所へ蝦夷地出立を届でる。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月28日(1800年) 土用
朝五つ後まで曇る、それより晴天。江戸を出立してからこれまでにない上天気である。しかし、遠くに見える山々には白雲が多い。箱館山に登って所々の方位を測る。夜も晴れて測量する。箱館御役所へ蝦夷地出立を届出、先触を出す。
寛政12年5月29日(1800年)
朝より暮まで晴天。朝五つ後箱館を出立、亀田御役所へ届を出す。道中は甚だ暑い。大野村へ七つ後に着き、止宿。この日箱館より間縄で方位測量をしたが、途中時間がなくなり、足間で大野まで測った。夜曇天であったが、雲間から測量した。
#伊能忠敬
#測量日記
寛政12年5月晦日(30日)(1800年)
大野村逗留。朝曇る、五つ後より昼夜晴天、夜に測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(はじめに)
寛政12年閏4月19日に江戸を出発した伊能忠敬は、函館に5月22日に到着。函館で
測量や諸手続きを行い、国後を目指します。手続きのうち、先触、添触等というものがあります。
伊能忠敬の測量日記5月28日条にそれらの写しが記載されているので、現代語に訳してみます。
【先触】
先触 箱館からクナシリまで 伊能勘解由
覚
一 馬 壱疋
一 人足 三人
右は、この度の蝦夷地での測量の御用のためです。我ら上下五人は翌29日に函館を出立してクナシリまで行く予定であるので、書面の人及び馬をいささかの遅滞もなくお定めの賃銭で用立てください。渡海・川越え・止宿についても、差支えのないように。一か所に3~5泊することもあり、さらに天気次第では宿泊を延期することもあって、アツケシやクナシリ辺りまでは行くことができないこともあるので、その点を心得て執り行ってください。以上
申五月廿八日 伊能勘解由
箱館よりクナシリまで
右村々場所々々
名主 支配人 中
(先触について)
先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
次に役所の添触の写しを見てみましょう。
【役所の添触】
覚(御添触の写し)
一 馬 壱疋
一 人足 三人
右は、この度の蝦夷地での御用のためのものである。伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人であるが、蝦夷地に御用のために派遣された者である。書面の人及び馬は、本人の申し出があり次第、いささかの遅滞もなくお定めの賃銭で用立てるように。渡海・川越え・止宿についても、差支えのないように。一か所に3~5泊することもあるので、その点を心得て執り行うべきこと。 以上
申五月 箱館御番所 御印
箱館よりクナシリまで
右村々場所々々 名主 支配人
(添触について)
添触の作成名義は、箱館御番所です。内容はほとんど先触と変わらないので、先触の内容を公証する役割を果たします。先触と添触で内容が異なっていてはダメなのです。
先触と違うのは、伊能忠敬が何者かということを紹介している点。「伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人である」となっており、この時点では伊能忠敬は幕府の役人にはなっていません。それでも測量の仕事は公用として認められていました。
今風にいうと、伊能忠敬はフリーランス(浪人)であって、公務員(幕府の役人)ではないのですが、伊能忠敬の測量プロジェクトは幕府の公認で、幕府が同事業を委託し、必要経費の一部を助成金として交付するということになりましょうか。
添触は役所名義のものと、村役人名義のものとがあります。後者は次のようなものです。
【村役人から各宿への添触】
(箱館の村役人から先触の奥へ)添触
一 伊能勘解由様のお先触のとおり、村々宿々は遅滞なく継立を行ってください。もっとも村々でご逗留もあることでしょうから、お先触が届いたら、次に継送りを行ってください。 以上
箱館月番 矢川四郎左衛門 印
長谷川太左衛門 印
申五月廿八日
大野村から久奈志利(クナシリ)まで
以上の①本人の先触、➁役所の添触(ご証文)、③村役人から各宿への添触が、当時の公用旅行者の三点セットといわれるもので、これらが揃って公用旅行がスムースに行われるのです。
(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)
【寛政12年5月23日付け、伊能勘解由(忠敬)から伊能三郎右衛門(景敬)宛書簡】
(はじめに)
この書簡は伊能忠敬が第一次測量で往路箱館(函館)に到着して比較的すぐに、自分の息子(長男)である敬景に送ったものを自由訳しました。現代からみると、とても息子にあてた手紙には見えません。当時家の当主に宛てた手紙は皆こんな感じだったのか、それとも忠敬の性格なのかよぬわかりませんが、とにかく当時の忠敬の心情と生真面目さ(これでも真面目な点は結構カットしています)がよく伝わる手紙です。
【書簡】
先月23日に江戸で出された書状、本日箱館の旅宿に届き、拝見致しました。益々のご壮健ぶりお目出度く存じます。当方出立の際は千住宿のはるか先までお送りいただき、おそれいりました。
さて、徒歩での旅程は天気があまり良いとはいえませんでしたが、足止めとなることもなく、朝は比較的遅く出立しても、宿に着くのは七つころ(午後4時)でありました。しかし、5月10日に三厩(青森県外ヶ浜町)に着いてから、東風が毎日吹き、渡海ができません。18日まで風待ちしました。
19日も風が良いとはいえませんでしたが、これ以上逗留するのも船頭や宿に迷惑かと思い、乗船致しました。目的地は箱館であったのですが、風が良くないため、吉岡(北海道福島町)という箱館よりも松前ち近い村(松前までは三里)に着いてしまい、この日はここで一泊せざるを得ませんでした。
翌20日、吉岡から箱館まで船で行こうと昼まで風待ちをしたのですが、この日もやはり東風でした。この風は青森、三厩、箱館あたりではヤマセと申しまして、この風が長く続きますと作物にも大きく影響し、土用中にまで吹きますと、その年は凶作になるといわれております。
そのようなわけで箱館まで22〜23里ほどの陸路を行かざるをえず、箱館には昨日(22日)夕方にようやく到着した次第です。宿泊場所は地蔵町の伊藤幸治郎という御用宿です。
ここ箱館に到着するまでには天体観測するよう日夜心に掛けておりましたが、何分にも天気がよくありません。南部や津軽(岩手や青森)では毎日曇天、松前や箱館(北海道)ではヤマセ風が吹き続き、天気の回復を待っていてもすぐに曇ってしまいましたが、同行の者が頑張ってくれまして、7、8箇所は観測できました。それにしても、北へと進むごとに北極星が高くなっていくのは、天体の不思議と感心した次第です。
箱館の御役所にご挨拶に行き、「蝦夷地の測量に取り掛かります」と申し上げますと、御役所からは、「蝦夷地を百里も測量するというのはかなり難しいぞ。箱館をこの時期に出立するのがそもそも遅い上に、今年の蝦夷地の天候がよろしくない。今年は閏月があったから、南部辺り(岩手)でも9月中旬頃には雪が深くなって通る道が難渋するかもしれぬ。」とのお話しがありました。確かに北の地は寒く、御役所の方は綿入れを着ております。国元(佐原)では袷一つで過ごしていることでしょう。
このような状況ですので、江戸には9月中旬頃は戻るようにせねばと考えております。
同行の者ですが、4名は壮健であり、良くやってくれています。しかし、長助はブラものでして(無頼者?)、このまま同行するのは覚束ないのではないかと心配です。
私のすべきところは測量、これだけです。この点は、出立の際にも申し上げまさたし、箱館まで来ましてもその思いは変わりありません。食事保養を心がけ、健康を保ち、秋の末には目標を達成したいというこの点だけを専一に考えております。
三郎右衛門様におかれましてもご健康に気をつけて壮健でおられるよう願ってやみません。
追伸 なおなお親族方やご懇意にしている方によろしくお伝えください。お栄(忠敬の内妻)は秋までそちら(佐原)に長逗留させお世話になります。
伊能忠敬は第一次測量の際に北海道(当時の言葉では「蝦夷地」)を訪れます。幕府の蝦夷地統治の拠点である函館(当時のは「箱館」)に到着したのは寛政12年5月22日(1800年)になります。その際、伊能忠敬が幕府に提出した届けの内容が忠敬の日記に記録されています。着到届けといわれるもので、江戸から函館までの旅程が簡潔に記されています。
当時統治と交易を扱っていた蝦夷地取締御用掛になるかと思います(届けの宛名も「蝦夷御掛」とされています)。この御用掛は1802年には廃止され、蝦夷奉行、さらに箱館奉行となっていますので、蝦夷地取締御用掛はこの時期だけの短い間に存在した役所です。
(届けの内容)
書付をもって申し上げます。
一 私儀、先月19日江戸表を出立し、今月10日津軽領三厩へ着。11日から18日まで風待ちをし、19日に渡海致しましたが、風がよろしくなく松前領吉岡村へ着船致しました。19日、20日と風待ちを致しましたが、箱館までの渡海の見込みがたたないため、よんどころなく陸路にて今日到着致しました。以上、お届けいたします。 以上
申5月22日 伊能勘解由
蝦夷御掛 御役人中様
「伊能勘解由」とは伊能忠敬のこと。隠居後は、「勘解由」と自称していました。