以前、横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」について記事を書きました(過去記事)が、それ以降、BC級戦犯でも日本人の弁護士が弁護人としてついていたようだが、どのような弁護士が一体どういう弁護活動をしていたのか、ということが気にかかっていました。
気にかかっているだけでちっとも前に進めなかったので、わかるところから情報を集めて見ることにしました。
それで手にとったのが、李鶴来「韓国人元BC級戦犯の訴え」(梨の木舎)です。
内容を要約すると以下のとおりです。
・李鶴来は朝鮮人軍属として、戦犯裁判を経験した。
・裁判が行われた地=シンガポール。
・チャンギー刑務所にて拘束される。
・弁護士は、日本から来た国選弁護人で杉松富士雄氏であった。
・証人として岡田曹長を申請したのだが、杉松弁護士は、「岡田という人はいない」という返事であり、本当に岡田曹長を探してくれたのかどうかと思った。
・そこで李氏は仕方なく石井大佐を証人として申請し、石井大佐との打ち合わせの面会を依頼したが、杉松弁護士は自分だけ会って、李氏にはその機会が与えられなかった。
・岡田曹長の証人申請もできず、石井大佐との打ち合わせもできず、絶望的な気持ちになった。
・杉松弁護士に捕虜収容所の組織と命令系統を説明しようとしても、事件に直接関係内からと話を遮られた。
・私が「人員」といったつもりでも、弁護士は、「賃金」と聞いたのか、「君の日本語は非常に下手だ」と不機嫌な表情をしていた。
・杉松弁護士には、民族的な偏見や軍隊の階級による先入観があるように感じられ、不信感は膨れ上がっていった。
・石井大佐が証人として出廷してくれたことには感謝しているが、証言が自分と食い違い、石井大佐の証言では自分が有罪となってしまうので、検事の弁論内容はよくわからないまま終わってしまった(逐一の通訳もなかった)。
・杉松弁護士は、被告は最末端の軍属で権限はなかった、重刑を科すべきではないと情状酌量を求める弁論を行った。
・判決は死刑判決であったが、その後減刑となり20年の刑となった。
・減刑の理由は後で知ったのであるが、杉松弁護士も弁護人として判決破棄を求める嘆願書を判決の10日後には提出してくれていた。このことは内海愛子先生の「キムはなぜ裁かれたか」に書かれている。
李氏は杉松富士雄弁護士には良い感情を抱いていなかったようですが、杉松弁護士は職責を果たしていたようです。
杉松弁護士の説明不足は否めないように思います。
実際、どの程度説明していたかはわかりませんが、李氏には説明不足に映ったのでしょう。戦後75年を経た現代の刑事弁護のレベルからすれば、被告人への説明不足は弁護活動しては失敗となりますが、当時はこの程度の説明不足は気にされなかったのでしょうか。
なお、戦犯の生活には教誨師が重要になるのですが、李氏の教誨師は田中本隆(のち田中日淳)という名のお坊さんで、東京池上本門寺の貫主も務められた僧とのことです。
追記
気にかかっているだけでちっとも前に進めなかったので、わかるところから情報を集めて見ることにしました。
それで手にとったのが、李鶴来「韓国人元BC級戦犯の訴え」(梨の木舎)です。
内容を要約すると以下のとおりです。
・李鶴来は朝鮮人軍属として、戦犯裁判を経験した。
・裁判が行われた地=シンガポール。
・チャンギー刑務所にて拘束される。
・弁護士は、日本から来た国選弁護人で杉松富士雄氏であった。
・証人として岡田曹長を申請したのだが、杉松弁護士は、「岡田という人はいない」という返事であり、本当に岡田曹長を探してくれたのかどうかと思った。
・そこで李氏は仕方なく石井大佐を証人として申請し、石井大佐との打ち合わせの面会を依頼したが、杉松弁護士は自分だけ会って、李氏にはその機会が与えられなかった。
・岡田曹長の証人申請もできず、石井大佐との打ち合わせもできず、絶望的な気持ちになった。
・杉松弁護士に捕虜収容所の組織と命令系統を説明しようとしても、事件に直接関係内からと話を遮られた。
・私が「人員」といったつもりでも、弁護士は、「賃金」と聞いたのか、「君の日本語は非常に下手だ」と不機嫌な表情をしていた。
・杉松弁護士には、民族的な偏見や軍隊の階級による先入観があるように感じられ、不信感は膨れ上がっていった。
・石井大佐が証人として出廷してくれたことには感謝しているが、証言が自分と食い違い、石井大佐の証言では自分が有罪となってしまうので、検事の弁論内容はよくわからないまま終わってしまった(逐一の通訳もなかった)。
・杉松弁護士は、被告は最末端の軍属で権限はなかった、重刑を科すべきではないと情状酌量を求める弁論を行った。
・判決は死刑判決であったが、その後減刑となり20年の刑となった。
・減刑の理由は後で知ったのであるが、杉松弁護士も弁護人として判決破棄を求める嘆願書を判決の10日後には提出してくれていた。このことは内海愛子先生の「キムはなぜ裁かれたか」に書かれている。
李氏は杉松富士雄弁護士には良い感情を抱いていなかったようですが、杉松弁護士は職責を果たしていたようです。
杉松弁護士の説明不足は否めないように思います。
実際、どの程度説明していたかはわかりませんが、李氏には説明不足に映ったのでしょう。戦後75年を経た現代の刑事弁護のレベルからすれば、被告人への説明不足は弁護活動しては失敗となりますが、当時はこの程度の説明不足は気にされなかったのでしょうか。
なお、戦犯の生活には教誨師が重要になるのですが、李氏の教誨師は田中本隆(のち田中日淳)という名のお坊さんで、東京池上本門寺の貫主も務められた僧とのことです。
追記
李鶴来氏は、本年(2021年)3月21日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。