南斗屋のブログ

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千葉県の自由民権運動

2020年09月01日 | 歴史を振り返る
 過去記事では、吉野朝吉が自由民権運動に関与していたことをとりあげました。そこでは”「総房共立新聞」からみる千葉県の自由民権運動と教育”(任鉄華)という論文を引用元としたのですが、同論文は千葉の自由民権運動の特徴についても書いています。

・「千葉の民権結社の組織化は、1879年3月長柄郡茂原駅の海鴎社を皮切りに、1881年頃までに50にも及ぶ民権結社が各地で結成されている。」
⇐夷隅の以文会の結成時期については、1879年2月説と1880年11月説とあるようですが、前掲論文では後者を採用しているようです。

・「これらの結社は、新聞雑誌の縦覧書や解話会、演説討論会の開催などを通して、西欧の新しい知識や政治思想の学習啓蒙活動を展開した。そして、県会議員・区戸長、学区取締、県庁の役人・教員など、多くの地方指導者層がこれらの民権結社の発起人、役人となり、民権運動の地域リーダーとして学習啓蒙活動を指導したのである。
 それらは当初には学習運動が多かったが、やがて国会開設請願運動へと発展していくことになる。」
⇐自由民権運動というと、国会開設運動とイコールというイメージが強かったのですが、当初は学習運動に力点が置かれていたという指摘です。当初から政治運動ありきではなく、西欧の新しい知識や政治思想の学習啓蒙活動の吸収という側面が強かったのでしょう。吉野朝吉が1881年10月以降、夷隅郡小沢村の小沢小学校で新聞解話会を行ったということ(総房共立新聞の記事)も、この点に関するものといえます。

・「教員たちが自由民権運動に参加するということは当時、全国的に見られた現象であるが、千葉県はそれの多い地域であった。各地に存在した民権結社のメンバーの中で、経歴が判明するのは215人であるが、そのうち教員は26人を数え、県会議員の38人についで、第二位であったという。」
⇐自由民権運動=政治運動と捉えると、教員の多さは不思議見えますが、自由民権運動の当初が学習啓蒙運動であったとすれば、不思議ではなくなります。教員として参加していたものは、自由民権運動が国会開設請願運動という政治活動に変化していき、また自由民権運動の激化についていけなかったものも多かったのではないか、そんな推測が成り立つような気がしました。


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