南斗屋のブログ

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太七追悼の記・色川三中「家事志」より

2022年08月03日 | 色川三中
(はじめに)
土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、以前店で働いていた従業員太七が亡くなったことを聞いて次のように記しています(文政10年8月2日付)。

〈晴れ、余熱(残暑)が甚だしい。薬種問屋の大枝清兵衛殿が江戸から来られる。以前店で働いていた寺台村の太七が本年5月に亡くなったとのこと。〉

三中は太七の死を多いに惜しみ、同月11日「太七追悼の記」ともいえる長文を書いております。太七は寺台村(現・成田市寺台)出身。どこにでもいそうな男性であり、酒を飲んではトラブルを起こす欠点の多い人物でしたが、三中はその才能を買っていたようです。

【太七追悼の記】
 午年(1822年)の秋から未年(1823年)の5月にかけて店で働いていた寺台村出身の太七は、その後上野で奉公していたと聞いていたが、本年(1827年)5月に死去したと大枝清兵衛(色川家の取引先)から聞いた。惜しむべし、哀れむべし。
 太七は寺台村(成田市寺台)に生まれ、父親のつてで働き口を求めたが、身持ちが良くない男でその働き口は辞め、その後は江戸で仕事を変えながら暮らしていた。
 午年(1822年)の夏から北条(つくば市北条)の成田屋伝兵衛のところで働き始めたが、女遊びにはまってしまい、成田屋も持て余すこととなった。そこで、成田屋から私のところに、こういう男がいるが面倒を見てやってくれないかという話があり、午年(1822年)の秋から使い始めた。
 太七は発明怜悧なところがあり、商売筋の鍛錬ができていて、百人に秀でていた。江戸の和泉屋吉右衛門や大枝清兵衛(太七のいとこ)と取引を始めることができたのは、太七の功績である。
しかし、気風がよろしくなかった。酒を飲めば後を引き、日が暮れてから夜が明けるまで飲む。飲めば必ず間違いをしでかす。人を人とも思わぬようなところもあった。そんなことから、嫌われてもいた。
 未年(1823年)の5月、太七がよろしからぬことを行ったので、やむなく暇を出した。その後、話しだけは聞いていたが、まさか上野で病死するとは思わなかった。
 大枝清兵衛に「大酒を飲む男であったので、それでなくなったのですか」と聞いたが、「いえ、痰労というようなものだったようです」とのことであった。
 太七の才能は衆に勝るものであったが、その才を全うすることが出来ずに終わってしまったのは惜しみて余りある。悲しくまた痛ましいことである。今はただ太七のことを思い出し、名号を唱えるだけである。
 

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