寛政12年8月21日(1800年)
朝から晴れる、霜降る、蒙気多し、夜薄曇り。朝六つ半後出立。ルベシベツにて中食。行路は山多く、海岸少なし。五里廿四町でサルルに七つころ着。本番屋に止宿。往路と帰路では追分から道を異にし、海岸からサルルに入ったので、難所となった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はビロウ(広尾町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。難所。昭和初期に「黄金道路」と呼ばれる道路が作られるまでは難を極めていたルートです。
黄金道路について。黄金道路のいわれは、「まるで黄金を敷き詰められるほど、建設に莫大な費用が掛かった道路だ」とのこと。
寛政12年8月22日(1800年)
朝曇天、後中晴れ、夜曇天。朝六つ半サルルを出立し、アツヒで中食。道のり六里廿七町で、七つ半ホロイヅミに着。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。道のり六里廿七町(約27キロ)。猿留山道(現在は国指定史跡)を通ったはずです。往路では「山坂多く難所」との所感あるも、復路では記載なし。淡々とした記事です。
寛政12年8月23日(1800年)
朝曇天、暮に至って微雨あり。朝六つ半に出立。海岸三里ホロマンベツで中食。そこから新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。海辺へ出、半里ほど歩き、暮六つ前にシヤマニ着。道のりは七里。夜は雨。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はホロイヅミ(幌泉;えりも町)〜シヤマニ(様似町)。七里(約28キロ)。「新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。」とあり、今回の測量旅行中最大の難所。
往路の日記では、今回の測量旅行中最大ののボリュームで描写されていました。
往路の難所の様子(7月2日条)
寛政12年8月24日(1800年)
朝から曇り、九つ頃より晴れ、後また曇る。夜も四つ頃まで薄曇り。夜深晴、測量(天体観測)(シヤマニ逗留)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
シヤマニに逗留。逗留の理由は書いていません。昨日の難路の疲れを癒すためでしょうか。夜の天体観測は、土地の緯度を知り、地上測量による誤差を補正するためのものです。忠敬は「測量」と書いていますが、現代語訳では(天体観測)と補いました。
寛政12年8月25日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシヤマニを出立。道のり三里で午の時にムクチに着。中食はなし。会所脇の新宅に止宿。ミツイシの詰合宮本源次郎殿が御出役であった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシヤマニ(様似;様似町)〜ムクチ(浦河町)。「会所脇の新宅」に宿泊。ミツイシの詰合の役人(宮本源次郎)が会所に泊まるため、チーム伊能はその脇の新宅の方に泊まらざるをえなかったようです。
寛政12年8月26日(1800年)
朝から暮に至るまで晴天。朝五つ前ムクチ出立。浦川にて中食。七つ前にミツイシに着。道のり五里。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はムクチ(浦河町)〜ミツイシ(三石;新ひだか町)。往路のミツイシでは仮屋に止宿していましたが(6月26日条)、復路では「会所に止宿」と待遇が良くなりました。ミツイシ詰合の宮本源次郎殿がムクチに出張中で(8月25日条)、会所が空いていたからでしょう。
寛政12年8月27日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝六つ半前ミツイシを出立し、ウセナイで中食。七つ前ニイカップに着。道のり六里半。粗建ての新宅で、造作や壁がないところに止宿。夜大いに寒し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はミツイシ(三石;新ひだか町)〜ニイカツプ(新冠町)、道のりは六里半(約26キロ)。造作や壁がないところに宿泊で、夜はひどい寒さ。往路では快適だったのに。〈「会所に止宿。詰合から親切に応対いただいた。」(6月24日条)。〉
寛政12年8月28日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝五つ前に出立し、アツベシで中食。七つ前サルモンベツに着。道のり六里。この夜、御詰合の比企市郎右衛門殿から御酒をいただく。(佐原の)領主津田公からご依頼があったとのご挨拶があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はニイカツプ(新冠;新冠町)〜サルモンベツ(門別;日高町)。道のり六里(約24キロ)。詰合は比企殿で往路同じ。今回は酒食の饗応あり(往路では「仮家に止宿」)。態度の変化は、佐原の領主津田公の忠敬推しがあったからです。上からの押しに弱い役人の世界というのは、200年前も同じです。
佐原の領主津田公(津田山城守)について。このとき西丸小姓組番頭を務めています。西丸小姓組は、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊で、小姓組のひとつ。任務は将軍の世継ぎの住居で、また禅譲後の住居である江戸城の西の丸を守ること。出世コースの足がかりとなるポスト(田沼意次は、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢されたことで出世した)。
寛政12年8月29日(1800年)
朝から四つ半ころまで白雲、後晴れ、夜は快晴。朝六つ半前に出立。四里十二町行きムカハで中食。七つ後ユウブツに着。八里三十町。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルモンベツ(門別;日高町)〜ユウブツ(勇払;苫小牧市)です。道のりは八里三十町(35キロ強)。往路のユウブツでは、医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会したことや、石狩川の話しを記録していたのですが(6月21日条)、復路はユウブツでの記事は全くありません。帰りを急いでいるかのような忠敬の日記です。 https://maps.app.goo.gl/yboUBQMbk9zm2w7h8
8月30日
#伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。
寛政12年8月は小の月であり、30日はありませんでした。
8月31日
旧暦31日は存在しないため、 #伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。