寛政12年8月朔日(1日)(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽の南中を測る。八つ後より曇る、夜は晴れ。御役所に御用状を出すついでに、江戸への書状を届けていただくようお願いする。同心の丹羽氏は本日もアツケシにおられた。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能が測量を行っているのは、前年に幕府が直轄とした東蝦夷地。この領域では宿駅制度が行われていますので、幕府公用であれば、前触・添触で人馬の供給を受けられる仕組みが整っています。書状の伝達もこの仕組みで届けられ、忠敬の書状も宿駅間をリレー式で運ばれて江戸に到達することになります。
寛政12年8月2日(1800年)
朝から曇天、夜から暁まで大風雨。五つ前出立。入海と川を二里渡り、そこからさらに二里行ってヤブイに着く。中食。そこから三里ノコベリベツに着。合わせて七里。ここはアツケシ持ちの番屋である。同心の関谷氏も同伴された。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アツケシ(厚岸町)〜ノコベリベツ(浜中町)。日記では「合わせて七里」とあり約28キロ。ノコベリベツは浜中町円朱別としました。角川日本地名大辞典では「(近世)江戸期から見える地名。東蝦夷地アツケシ場所のうち、釧路地方東部、風蓮川支流ノコベリベツ川流域。」とあり、特定には至っていないのかもしれません。
寛政12年8月3日(1800年)
朝少晴れ、昼晴曇り。朝五つ前に出立、三里余り行き、ヲイナヲシにて中食。そこから三里程行き、八つ半頃アンネベツに着。夜晴天、測量(天体観測)。番屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、ノコベリベツ(浜中町)〜アンネベツ(浜中町姉別)。本日は「番屋」に泊まっています。番屋には、番人の詰所という意味と、ニシン・サケ漁などの漁夫の泊まる小屋の意味がありますが、ここでは後者の意味でしょうか。ノコベリベツも番屋であり(8月2日条)、この辺りはまだ建物が整備されなかったのかもしれません。
寛政12年8月4日(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽を測る。八つ後より曇る、夜は薄曇り。アンネベツはネモロの管轄である。ネモロより迎えの船を待つ。測器をしまうが、風の関係で船が来ない。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアンネベツに逗留。アンネベツ(浜中町姉別)はこの当時ネモロ(根室)管轄でした。チーム伊能は船で根室に行く予定ですが、ここでも風待ち。やはり渡船はこの時代風待ちがつきものです。
寛政12年8月5日(1800年)
朝から晴天、午の刻に測量。七つ過ぎから夜は曇天。この日も(ネモロからの)迎え船は来ず。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
アンネベツ(浜中町姉別)三泊目。今日もネモロ(根室)からの迎え船は来ません。
チーム伊能、我慢の日々です。このような時でも愚痴も言わず、淡々と日記を書き続けるのが伊能忠敬流。
寛政12年8月6日(1800年)
朝から晴天、昼に太陽を測る。七つ頃ネモロの御詰合がニシベツに御出役につき、ニシベツから迎船が来た。諸器具をしまって乗船の用意をしたが、遅い時刻に船が着いたので、引き続き(アンネベツに)逗留。夜は少し曇る。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もアンネベツ(浜中町姉別)逗留。四泊目。ネモロ(根室)からの船を待っていましたが、今日も来ず。一方、ニシベツ(別海町本別海)からの迎え船が来ました。このままネモロからの迎船を待っていても埒が明かないと判断したのでしょう、ニシベツに向かうことにしました。しかし、着船が遅く、出航は明日に。
寛政12年8月7日(1800年)
朝から四つ頃まで霧深し、後晴天。朝五つ後に出立。川船で三里余りフウレントウに着く。そこから草原平地を十町ばかり行き、海岸に出て、さらに二十七町余りでニシベツに九つ過ぎ着。仮家に止宿。なお、ニシベツはすべて仮家である。夜晴れ、測量す(続)。
#伊能忠敬 #測量日記
(承前)ネモロの御詰合がニシベツに御出役されており、ネモロへ行きたいとのお伺いを立てる。「現在ネモロは鮭引網漁の最中で会所には誰もいない。」と仰られた。よって、ここニシベツから引き返すこととした。八つ後からクナシリ島、ネモロ等の方位を測る。ニシベツに逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、鮭漁猟で人手が少なく、送迎の船が手配できないようでは、為すすべがありません。ここニシベツが、伊能忠敬最北端かつ最東端の地となりました。ツイートは日記を要約しています。フルバージョンも別に作りましたので、興味のある方はご参照を。
本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)。グーグルマップは、姉別小学校跡地〜第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。
寛政12年8月8日(1800年)
朝から晴天。今朝、御詰合及び支配人から、飛脚でアツケシに我々の出立のための迎船の触れを出していただいた。我々からも先触れを出した。昼、太陽の南中を観測。昼過ぎから十間縄でクナシリ、ネモロ、ノツケ等の方位を測る。夜は薄曇り。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町)からの帰り支度が進みます。お役所は迎船を要請し、忠敬は先触を出しています。人足7人用意されたしとの内容。馬を要請していないのは、アツケシ(厚岸)までは船利用だからでしょう。測量器具等の荷物を人足だけで運ぶとなると、7人必要だったのですね。先触の写し全文はブログで紹介しました。
寛政12年8月9日(1800年)
朝から夜まで晴天。朝五つ前にニシベツを出立。海辺廿七町は原と野地。さらに十町ばかりでフウレントウに至る。船に乗り、一里余り行く。さらにウレシ川を三里余り、アンネベツに七つ半後に着。道のりで五里。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ復路が始まりました。本日の旅程は、ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)〜アンネベツ(浜中町姉別)。往路と同様ニシベツ〜フウレントウは徒歩(馬は使えず)、フウレントウ〜アンネベツは川を船で航行します。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。
寛政12年8月10日(1800年)
朝から暮まで曇天、夜も同じ。暮六つ二三分に少し地震有り。朝五つ頃アンネベツを出立。ヲイナヲシで中食。八つ後ノコベリベツへ着。道のりは六里というが、足では五里七丁ほどであった。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ノコベリベツ(浜中町)。この道のりは六里(約24キロ)とされていましたが、チーム伊能の測量結果では五里七丁(21キロ弱)であったと記しています。誤差を減らすため復路でも測量していたのでしょう。