南斗屋のブログ

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色川三中「家事志」文政10年8月上旬

2022年08月11日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年8月朔日(1日)(1827年)
彼岸の入り。昨夜、地方への行商から土浦に戻った。この度の行商は特別の成功。鹿嶋の神のご加護であり、店の皆の日頃のがんばりによるものである。店の者へ酒肴を出す。皆、興にのる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商中、鹿島神宮を参拝し、神事を見物しており、余裕を見せていましたが、行商成功がなせるわざだったようです。店のものへのねぎらいも忘れることがなく、従業員の士気もこれで高まったことでしょう。

文政10年8月2日(1827年)
晴れ、余熱(残暑)が甚だしい。薬種問屋の大枝清兵衛殿が江戸から来られる。以前店で働いていた寺台村の太七が本年5月に亡くなったとのこと。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
太七は、一時期三中の経営する薬種商の従業員でしたが、都合により辞め、江戸で暮らしていたようです。薬種問屋の大枝清兵衛は、太七のいとこで、太七死去の報を三中に伝えます。三中は太七の死を多いに惜しみました。三中は、太七追悼の記を日記に記しています。

文政10年8月3日(1827年)
【編集より】本日、明日と三中先生は休筆。代わって、「太七追悼の記」を2日間お届けします。昨日太七死去の報を聞き、その死を多いに惜しみました。その後「太七追悼の記」といえる長文を書いており、その一部を紹介します。
#色川三中 #家事志

「太七追悼の記」上
(太七が色川家の従業員となった経緯)
太七は寺台村(成田市寺台)に生まれ、父親のつてで働き口を求めたが、身持ちが良くない男でその働き口は辞め、その後は江戸で仕事を変えながら暮らしていた。
 午年(1822年)の夏から北条(つくば市北条)の成田屋伝兵衛のところで働き始めたが、女遊びにはまってしまい、成田屋も持て余すこととなった。そこで、成田屋から私のところに、こういう男がいるが面倒を見てやってくれないかという話があり、午年(1822年)の秋から使い始めた。
#色川三中 #家事志

文政10年8月4日(1827年)
【編集より】本日も、三中先生は休筆。代わって、昨日に引き続き「太七追悼の記」下をお届けします。「太七追悼の記」フルバージョンについてはブログに書きました。
#色川三中 #家事志

太七追悼の記・色川三中「家事志」より - 弁護士TKのブログ

(はじめに)土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、以前店で働いていた従業員太七が亡くなったことを聞いて次のように記しています(文...

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「太七追悼の記」下
太七は発明怜悧なところがあり、商売筋の鍛錬ができていて、百人に秀でていた。江戸の和泉屋吉右衛門や大枝清兵衛(太七のいとこ)と取引を始めることができたのは、太七の功績である。
 太七の才能は衆に勝るものであったが、その才を全うすることが出来ずに終わってしまったのは惜しみて余りある。悲しくまた痛ましいことである。今はただ太七のことを思い出し、名号を唱えるだけである。
#色川三中 #家事志

文政10年8月5日(1827年)
色川庄衛門の妻は長らく病にかかっており、家の者が薬をもとめて我が店に来られる。先月私が行商で不在の時も来られたが、本日も来られた。当節病状がよろしくないのだという。犀角(漢方薬)をお求めになられた。
「田の刈入れのお手伝いもしたいのだが、店に人がおらず申し訳ない。犀角一匁を一つ二つお送りしますから。」と申し上げると、喜んで帰って行かれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
犀角は文字どおりサイの角からとれる生薬。クロサイの日本での輸入が禁止されているため漢方の生薬として現代ではほぼ見ることはないそうです。漢方薬としては、体に無駄な熱が籠もり、出血、熱感、充血、発疹が出る症状を改善するために用いるとのことです。

犀角(サイカク)

犀角の取扱や販売はしていませんのでご了承ください。 採れなくなったり希少になったりして使われなくなった生薬は色々とありますが、そのひとつ犀角(さいかく)です。イン...

東大阪市の福田漢方薬局



文政10年8月6日(1827年)
本年、雨らしい雨が降らず、水田は悉く渇水。草履を履いて稲を刈り取り、そのまま田へ仮干しをし、稲こきをし、藁焼きをするなどを、田でできるということは稀であり、何十年に一度のことである。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
三中の田は湿田なのでしょう。乾田が現代では当たり前になっているので、この記事を読んでも今ひとつピンとこないのですか、湿田では乾いた田での稲刈り、仮干し、藁焼き自体が何十年に一度の驚くべきことのようです。

乾田と湿田の違いとは

田んぼは大きく分けて、「乾田」と「湿田」に分かれています。田んぼなのに「乾」田?田んぼは湿ってるものじゃないの?そんな疑問にお答えします。

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文政10年8月7日(1827年)
昨日は隣主人の母堂の一周忌であった。昨日は萩のはなもち一重を、本日は餅一重をいただいた。我が家からは、仏前のかんぴょうを2わ遣わした。巳の刻参りを行う。寺で酒を勧められて思いのほか手間取り、七つ時に帰宅した。寺で文政十年の詔書の写しを拝覧した。かけまくもあなかしこ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
隣主人の母堂の一周忌の行事。このコロナ禍により、通夜や葬儀ですら身内だけで簡略に済ませるという傾向が一層強まりましたが、文政の時代には双方で贈り物をし、故人を偲んでいました。
 文政十年の詔書は、以前三中はこれを見て感動していたのですが(5月10日条)、本日もこの写しを見て感激しています。歴史的意義を有する詔書(吉田松陰にも影響を与えた)は、SNSも無い時代にはこのような形で人々に共有されていったのでした。

文政10年8月8日(1827年)
・本日は巳で成であるので、夕方天道大黒天と金祭りを行い、茶を供した。
・矢口嘉兵衛に、隠居(祖父)の書状を下総の与市へ持っていくよう依頼していたが、矢口の娘が病気で難渋しているとのことであるので、日延べをすることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「本日は巳かつ成の日である」というのが、暦には全く興味のない私にはピンとこなかったのですが、巳かつ成の日は富む(金になる)との言い伝えがあるようです。不忍池弁天堂では、巳成金(みなるかね)大祭が現在でも行われています。
「巳(み)」は暦の十二支、「成(なる)」は十二直

文政10年8月9日(1827年)
夜に入ってから、近江屋小兵衛から防風と柴こが無事届いたとの書状が届いた。防風は20個、柴こは2個。当年は病人が多い一方で、仕入れが少なく、和薬はいずれも高値となっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・防風・柴こはいずれも漢方薬。「柴こ」は「柴胡」(サイコ )のこと。
 柴胡剤は西洋医学の風邪薬・胃薬にあたり、抗アレルギー薬・気分安定薬・睡眠薬・消炎鎮痛薬・肝臓の薬・便秘薬となります。
・近江屋小兵衛は伝馬町組から唐和薬種十組問屋に所属する江戸の大店の薬種商。通常は問屋から薬を仕入れるのですが、今日の日記に出てきた防風と柴こは色川家から近江屋に出荷されています。

文政10年8月10日(1827年)
明日、下総の与市へ書状と礼物を遣わすので、夜燈火のもとで次のような文を認めた。
「この春には大変お骨折りいただき平常に服したのは大慶の至りでした。その後、二つ三つ思いどおりにはいかないこともあり、仕事の方も五月から変事が多いのです。売上をあげ債務を返済しようと努力しているところですが、この軽薄な世の中では、これまで積み上げたことも無為となりそうですので、父祖恩顧の者(与市のこと)の助力を得たいのです。」
#色川三中 #家事志
(コメント)
7月中旬から下旬にかけての行商は大成功でした。店を回していくには従業員を率いて仕事を回してくれる人物が必要ですが、与市の代わりとなるものがおりません。与市を呼び戻したいとの一念から、燈火のもとで文を書く三中でした。


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