土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年8月11日(1827年)雨
・(仕事で)与兵衛を江戸に遣わす。
・店の従業員だった寺台の太七が亡くなったことを思い出し、先日大枝清兵衛から聞いたことも含めて書き記す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・与兵衛は三中の行商(先月)にも同行。行商の途中で一人で別のところに行かされていましたから、三中から期待をかけられている存在のようです。8月上旬には水戸に出張に行かされ(8日に帰宅)、中二日しかも雨の中を江戸へ出張させるとは、なかなか厳しい経営者です。
・太七が亡くなったことについては、8月2日に大枝清兵衛(太七のいとこ)が土浦に来た時に聞いており、本日の日記で太七追悼の記を書いています。
文政10年8月12日(1827年)雨
七兵衛を下総へ遣わす。下総にいる与市を呼び戻すための書状と贈り物を持っていかせた。昨日出立予定であったが、昨日は雨天で、七兵衛が病後でもあったことから、本日出立とした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商に成功したため、薬種業の売り上げは上向きになりそうです。ここで従業員をつかって、着実に経営状況をよくしたいところですが、いかんせん従業員の駒が揃いません。今は、与兵衛を酷使していますが、このペースで使っていたら、与兵衛もダウンしてしまうでしょう。与市を呼び戻すことが課題となっており、そのための使者として七兵衛を与市の居住地(千葉県匝瑳市)に遣わしました。
文政10年8月13日(1827年)曇
町御奉行所からのお触れ。
《松平陸奥守様の養母信恭院様御死につき、公方様、内府様、昨十日から定式の御忌服をなされたので、普請は止めるに及ばないが、鳴物は本日から十三日まで停止せよ。
亥八月十一日》
#色川三中 #家事志
(コメント)
信恭院は、紀州藩主徳川治宝(はるとみ)の娘で、8月8日没(満32歳)。公方様(時の将軍徳川家斉)、内府様(将軍後継者徳川家慶)が忌服しているのは、御三家当主の子が亡くなったからでしょう。普請は停止しなくてよいが、鳴物は三日停止のお触れです。
文政10年8月14日(1827年)雨
辰の初刻に、本町いせや佐兵衛殿から琴殿(三中の遠い親戚)死去との知らせあり。佐兵衛方に行き悔やみを述べた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
誰それが亡くなった、悔やみを述べた等という記事は頻回に登場します。三中の生きていた時代には、親戚か否か、付き合いの深浅により、どこまで礼を尽くすかが変わってきますので、後に続くもののために日記を書き綴っているのでしょう。
文政10年8月15日(1827年)風雨終日
いせやの不幸の葬礼に、はかまで出るか近隣とも相談したところ、はかまを付けて出ることとした。暴風の中、申の下刻(午後5時)葬礼に参列。はかまをつけてでるが、暴風雨であり、全員衣服が水に入ったのと同様となった。衣服は悉く水となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「いせやの不幸」は8月14日の記事にある琴殿(三中の遠い親戚)の死去のこと。葬礼に袴をつけてでたのに暴風雨に見舞われ、ずぶぬれの葬儀となってしまいました。
文政10年8月14日(1827年)雨
— 断感ろーれんす (@tk23956) August 13, 2022
辰の初刻に、本町いせや佐兵衛殿から琴殿(三中の遠い親戚)死去との知らせあり。佐兵衛方に行き悔やみを述べた。#色川三中 #家事志
文政10年8月16日(1827年)
細井氏から返事が届いた。
〈お便りにあったように秋風が吹くにつけても、貴君のことをこちらで思い出さないときはありません。萩の葉の起き伏しにもお心を悩まされているとのこと、嬉しくも奥ゆかしくもあることです。〉〈店での御病人が多いとのこと、心苦しいこともあるでしょうが、生業が忙しいとの証左でもあるのでしょう。私の方も、貴君の家に泊めてもらってこの方俗事にばかりうち暮らし、物のあわれというものも深く知らないで暮らしております。〉
〈本日は最中の月(旧暦8月15日)ですが、残念ながら貴君のところにいくことができません。親しくお話ししたいものですが、本日は御返しのためにのみ筆をとりました。
雨のふりけるに
おもひわふ秋の最中の月よりも君かみかげのみまくほしさに〉
(コメント)
風流仲間の細井玄庵からの便りが届きました。人からの便りなので、手元に残っているはずですが、日記に書き記すとはよほど心に沁みた便りだったのでしょう。
細井氏とは4月以来会ってはおらず、会いたいとの気持ちもつのってのことでしょうか。
1827年4月25日(文政10年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) April 24, 2022
・細井玄庵(風流仲間)が来て、たっての頼みということで一晩泊めた。
・隣りのおもと殿(隣主人横田権右衛門の妻)が疱瘡(天然痘)に罹った。菓子を整えて見舞いに行く。#色川三中#家事志
文政10年8月17日(1827年)寒露 曇り、北風はげし
夕方、七兵衛が下総より帰ってきて、与市の書状をもってきた。雨嵐で14日と15日の両日、与市方で滞留したとのこと。(七兵衛)六日間泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、与市を再び土浦に呼び寄せたいと考えています。従業員の七兵衛は8月12日土浦を出発、与市(今の千葉県匝瑳市在)のもとへ書状などを持って行きましたが、当地で雨嵐に見舞われ、滞留を余儀なくされました。なお、寒露は10月上旬頃(本年は10月8日)ですので、約1か月半旧暦とずれています。
文政10年8月18日(1827年)快晴
牛渡村の新兵衛から話があった小供が、今日近所の者に連れてこられた。母は先年亡くなっており、父は身持ちがよくないのだという。年は14歳。名は豊次郎というが、「豊」の字は差し支えるので、「久助」と呼ぶことにした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
身寄りのない子が色川家の小供としてやってきました。数え年14歳。今の中学校1年でしょうか。家族に恵まれず、他家で働くしかない様子。「豊」の字が差し支えというのは、おそらく奉公人としてはふさわしくないという意味かと。「久助」という呼び名となりました。
文政10年8月19日(1827年)
午の刻(正午)に与兵衛が江戸から戻ってきた。九日泊。江戸での仕事には不手際があり、再度江戸に遣わさなければならない。そう思案していたところへ、水戸に遣わしていた件についても不手際が見つかった。まずは、水戸に遣わし、戻ってきたらすぐに江戸に遣わす。大事な仕事を任せたのだが。この者に任せたのは間違いであったか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛に対して不満ぶちまけの記事。与兵衛は、行商の際に同行させており、ある程度信頼していただけに裏切られたと思ったのでしょう。でも、そんな考え方ではブラック経営者になっちゃいますよ。
文政10年8月20日(1827年)
・与兵衛は寅の刻(午前4時)に水戸に向けて出立した。
・巳の刻(午前10時)、小供の久助がいない。店の者に尋ねにいかせたが、尋ねあたらず。ついに帰らなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日江戸から戻ってきたばかりの与兵衛ですが、本日早朝に水戸出張にでかけていきました。ここまでやらせるとは、三中もブラック経営者の仲間入りです。
一昨日に来た小供の豊次郎改め久助ですが、嫌になってしまったのか店からいなくなってしまいました。来てから三日目です。昨日は三中も相当機嫌が悪かったはずですし、そういうことも含めて嫌になってしまったのでしょうか。