寛政12年8月11日(1800年)
朝曇天、霧あり、四つ頃より雨天。朝五つ頃ノコベリベツ出立。ヤブイニで中食。その後、雨で強風。船に乗るが、大風雨でずぶ濡れ。七つ頃アツケシへ着く。夜五つ後に雨やむ。道のりは七里という(岡が五里、海川が二里)。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はノコベリベツ〜アツケシ(厚岸町)。道のりは七里(約28キロ)。雨で強風の中、船に乗ったためずぶ濡れ。その後の陸路も雨の中。
当時の厚岸(アツケシ)の様子。
「寛政3年(1791年)に記された『東蝦夷道中記』には、厚岸場所の産品として、ラッコ・アザラシ・シカの皮、熊胆、ワシの羽、干さけ、魚油、干たら、にしん、塩カキ、塩くじらなどがあげられている。生産高およそ3千石とあり、近年になって昆布も生産されるようになったと記されている。」
寛政12年8月12日(1800年)
朝曇り、四つ前から晴天。先触れを出す。(平山)宗平をバラサンに登らせ、ヲアカン、メアカンを測量させる。(アツケシに)逗留。
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本日はアツケシ(厚岸町)に逗留。同所からエトモ(絵鞆;室蘭市)までの先触れが出されています。先触の内容は、馬二匹、人足三人を用立ててほしいというもの。この要請は往路と同様です。先触れは長いのでブログに書きました。
「(平山)宗平をバラサンに登らせ」とあり、厚岸にあるバラサン岬に若者を登らせています。眺望のあるところで測量させるためでしょう。道は今でも荒れているということなので、当時はかなり大変だったのではないかと思います。国泰寺は文化元年(1804年)に設置されているので、忠敬が訪れたときはまだありません。
寛政12年8月13日(1800年)
朝から曇天。朝六つ半ころアツケシを出立。乗船し海を渡って、四つ半頃善宝地に着く。アツケシから海上三里で善法地である。そこから直ちに出立し、シヨンデキで中食。七つ半頃コンブムイに着。善法地からアツケシまでは五里。暮から雨、夜に入って大雨。本番屋に止宿。
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本日の旅程はアツケシ(厚岸町)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。往路では善法地(ゼンホウジ)〜アツケシの船の手配がうまくいかず、善法地に逗留せざるをえませんでしたが、復路は船の手配も万全で一気にコンブムイまで来ました。海上三里+五里=八里(約32キロ)。
寛政12年8月14日(1800年)
朝曇り、五つ前出立するも小雨。四つ頃止んで曇天。干潮を利用して、海岸を通る。難所。新道も少し通る。四里の道のりである。八つ過ぎクスリに着。会所で一緒になった客と座敷で止宿。御詰合菊池宗内殿と面談した。
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本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜クスリ(釧路;釧路市)。四里(約16キロ)。滅多に愚痴らない忠敬が、往路では「遠い」と嘆いたルート。海岸を干潮時に通る必要あり(満潮時には通れない)。復路では「難所」とだけ記しています。
整備されたルートだと一日40キロを平気で歩く忠敬が、現代のルートで15キロのところを「遠い」というのですから、難所のほどがしれます。
寛政12年8月15日(1800年)
朝曇天。五つ頃出立。四つ頃から九つ頃まで少晴れ。八つ頃から霧が深く、暮にかけて甚だしい。夜大曇り。七つ半頃(シラヌカに)着。クスリからシラヌカまで七里。会所に止宿。今日の行路は海岸ばかりであった。中食はヲタノシケにてとる。
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本日の旅程はクスリ(釧路;釧路市)〜シラヌカ(白糠町)。七里(約28キロ)。ひたすら海岸を通るルートであったようです。往路のシラヌカでは、八王子千人同心の吉田元治と天文談議をしたことが記載されていたのですが、復路では特記事項がありません。 https://maps.app.goo.gl/xhvzWkDwWNf62T4o9
寛政12年7月22日(1800年)②
— 断感ろーれんす (@tk23956) July 21, 2022
原氏の手付同心である吉田元治殿が旅宅へ来て、天文のことを談じ合った。ご自身でつくられた天球をお持ちになった。春海子の方図及び円図を用いており、細工が大いに良い。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年8月16日(1800年)
朝五つ前少晴れ、五つ後より霧がでて深暮に至る。朝五つ出立。海岸三里廿四町を行き、九つ半後シヤクベツに着。仮家に止宿。
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本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜シヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)。三里廿四町(15キロ弱)。「海岸を行き」とあり、ひたすら海岸を歩くルート。
寛政12年8月17日(1800年)
前夜より風雨が続いており、(シヤクベツに)逗留。雨は午前中には止み、夜は晴れ。
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本日はシヤクベツ(現・釧路市音別町尺別)に逗留。シヤクベツから先は川が合流している地点を通らねばならず、増水の危険もあります。雨の中を行くのは危険との判断でしょう。
寛政12年8月18日(1800年)
朝から中晴れ、夜も同じ。朝六つ半に出立。道のり七里でシユツベツ・キナウシ両川が合している。水量が多く、本道は通行できない。道なき山を登って難所を通り、至峻の山を下りて海岸へ出る。アツナイの岬では岩に登る。平地に下りたところで中食。そこからヲコツペの難所を越え、海岸を歩行し、七つ時にヲホツナイに着。仮屋止宿。
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(コメント)
本日の旅程はシヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)〜ヲホツナイ(豊頃町大津)。グーグルマップ上では38キロ。シヤクベツから七里(28キロ)の川の合流地点から本道通れず。昨日の雨で増水したため。迂回し、道なき山を登り、至峻の山を下ります。さらにヲコツペの難所、海岸の歩行。いやはや大変です。
本日の止宿地ヲホツナイ(豊頃町大津)ですが、河鍋暁斎の「絵馬カムイノミの図」があります。河鍋暁斎(1831~1889)は、幕末から明治初期にかけて江戸の日本画壇で活躍した人物。絵馬は、アイヌの人々の生活風俗を主題として描いており、当時十勝場所の漁場持を努めていた福島屋杉浦嘉七の配下の船頭によって、明治5年(1872)に大津稲荷神社に奉納されたものと推測されています。
寛政12年8月19日(1800年)
霜大いに降り、地は凍って寒し。天気は晴れだが、蒙気多し。夜もまた曇晴れ。朝六つ半に出立。ユウトウで中食。海岸六里十一町行き、七つ頃トウブイに着。仮家に止宿。冷気のため蚊が一切いない。
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(コメント)
本日の旅程はヲホツナイ(豊頃町大津)〜トウブイ(大樹町)。「地は凍って寒し」と冬のような気候です。ニシベツからUターンする決断が早かったのは正しかったようです。
「昼夜に蚊が甚だ多く難儀している。昼でも蚊帳がないとしのぎ難い。」(7月14日条)と書いていたのに、わずか一ヶ月で「冷気のため蚊が一切いない」までに。湿気は多いのですが、地が凍るほどですから、蚊もいなくなってしまいました。
寛政12年8月20日(1800年)
大霜で道路は悉く凍る。水たまりも凍って、氷の厚さは一、二分ほどある。朝から中晴れ、蒙気多く夜も同じ。朝六つ半頃出立。モンベツで中食。海岸を七里〇六町行き、七つ半頃ビロウに着。仮家に止宿。ここは鰤多し。
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(コメント)
本日の旅程はトウブイ(当縁;大樹町)〜ビロウ(広尾町)。道路も水たまりも凍る寒さ。「ビロウは鰤多し」。これまで日記では産品・食材へ言及ほとんどなく、このような記載は珍しい。食べ物にさほど興味ないのでしょう。