南斗屋のブログ

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文政10年8月下旬色川三中「家事志」

2022年08月30日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年8月21日(1827年)晴
夜五つ前(午後8時)に与兵衛が(水戸から)帰宅。どうも与兵衛の仕事ぶりはよろしくない。明日朝早く江戸に立たせる。そのための書状をこの夜認めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は江戸出張から一昨日(19日)に土浦に戻ってきましたが、三中はその仕事ぶりが気に入りません。昨日(20日)早朝には水戸への日帰り出張を命じました。その出張から今日与兵衛は戻ってきましたが、また明日には江戸に出張。しかも「朝早く立たせる」と言明しています。

文政10年8月22日(1827年)
寅の刻五刻(午前5時頃)に与兵衛、江戸へ出立す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員与兵衛の受難は続きます。昨日(21日)に水戸から帰ってきたのに、本日休む間もなく午前5時頃には江戸へ。現代であれば、これほどきつい仕事のさせ方をしたら、法律違反ですし、ハラスメントといわれるでしょうが、文政の時代にはそんなものはありません。三中は真面目な男なのですが、それだけに一旦こうと思ったら、曲げないところがあり、部下にとっては働きにくかったでしょう。与兵衛がどこまでもつのか心配です。

文政10年8月23日(1827年)
昼時、阿見村大隠居(三中の親戚)来る。「村内の出入りのことで江戸へ行っていたが、帰村したのでこちらにも寄った。川口(三中の祖父)にも顔を出さなければ。江戸から呼出しがあったらまた行く。」等と慌ただしく話して帰ってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の親戚の阿見村の大隠居がやってきました。「村内の出入り」というのは、出入筋(民事訴訟)のことでしょう。管轄の関係なのか江戸で民事裁判が行われているようです。当事者だけではなく、村の関係者も差添人として出頭しなければならなかったので、その関係で大隠居も江戸まで行っているのかもしれません。

文政10年8月24日(1827年)
奥州棚倉領堺村から一人の浪人が店にやってきた。
「村の平蔵という者は大酒呑みで、飲めば乱れて喧嘩口論し、人を傷つけたことも度々であった。しかし、土浦から酒を嫌ってやめる薬を買ってきた者がいて、それを平蔵に飲ませたところ、それ以降酒を呑まなくなり、酒を見れば吐くまでになってしまった。」
確かに、以前そのような薬を調合して持たせたことがある。その後どうなっただろうと思っていたが、今日このようなことが聞けたことは喜ばしいことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代にも禁酒に効果のある薬があり、それを三中が調合したという記事ですが、実際に薬効があったのかにわかには信じられません。当時はそのように信じられていたのでしょうが…。

文政10年8月25日(1827年)
米四への債務の件で、これまで仲介者なども交えて協議をしてきたが、債務整理の方向性がようやく見えてきた。沈南蘋の三幅対は手放さざるを得ないようだ。この掛物は曾祖父から伝えられた家の重器であり、多くの文人墨客がこれを見に来た。しかし、このような重器は大夫以上の士人がもっているべきものであり、普通の民家がもつべきものではないのだろう。このような物を好まぬ子孫に残しても何の用にもならない。好む子孫に残しても驕を教えるだけである。ここで手放すのは致し方なのないことなのだろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
沈南蘋(しんなんびん)は中国清代の画家。日本にも2年間弱滞在し、円山応挙・伊藤若冲などに多大な影響を及ぼしています。三中は頭では分かっていますが、心情的には手放すのが惜しく、その言い訳を日記に書き記しているようです。

文政10年8月26日(1827年)
北条(現つくば市)の市村半右衛門殿(遠縁の親戚)が死去されたと聞く。なんとも悲しい。半右衛門殿は身上が衰えてしまい、3年前の四月から連絡が途絶えていた。2年前に父が亡くなったときにも何の連絡もなかった。酒毒で亡くなったと聞く。酒は慎むのが第一である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
まだ若い三中(26歳)ですが、酒の害については恐れています。酒を呑むのは安逸をむさぼっているからとも考えていたようで、別のところでは「(江戸の太平が)二百年続き人々は閑暇無事を楽しみ、その楽に淫して酒宴遊事にふけっている。酒で身を終わる者が幾百人いるであろうか。」とも慨嘆していました。
もっとも、三中自身は酒が大変お好きなようで、酒を飲みすぎていることも。今日の日記は酒好きゆえの自らへの戒めでしょうか。

文政10年8月27日(1827年)
日記の記載なし
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中殿は日記をお書きになっておりません。どうやら御不快を覚えられたようです。明日の記事をお待ちください。

文政10年8月28日(1827年)
夜九つ(午前0時)過ぎに表戸を打ちたたく者あり。色川庄右衛門(おじ)の妻の病気が重いとのこと。早速参るべきであるが、少々体調を崩しており出かけられなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
電話もない三中の時代は、急を知らせるには夜中に表戸を叩くほかありません。義理のおばさんの危篤。本来はすぐにでも駆け付けるべきものですが、昨日来の体調不良の影響からか、すぐにおじさんのもとに駆け付けることができませんでした。

文政10年8月29日(1827年)
色川庄右衛門(おじ)の妻が七つ(午前4時)過ぎに死去したとの知らせ。おじのところに行くと、組合衆は、「今日葬式を出そう」という。当日に葬儀をするなど思いもよらず、金銭も持ち合わせがない。明日にするよう交渉したが、組合衆は、「そんなら勝手にしろ。四日でも五日でも延期したらよいではないか。全く気分が悪い。」と罵っている。聞き苦しいにもほどがある。なんとか都合をつけ本日七つ(午後4時)過ぎ出葬。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の義理のおばさんが亡くりました。おじさんの五人組の組仲間は、明日が晦日だからか、「今日葬儀を出そう」と無理難題をいいます。明日にしてほしいと三中が言っても、葬儀に協力しないことをちらつかせ、全く人情味がありません。昔も今もひどい人間はいるものです。

文政10年8月晦日(30日)(1827年)
亭午(正午)、谷田部の佐助(従業員)の請人が来て、以後給金を三両に増金していただきたいこと、金子二分を前借りしたいとの話しがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員からの賃金増額と給料前借りの話しがありました。本人からではなく、請人からです。請人は身元保証人なのですが、このような賃金の増額も本人にかわってやっていたようです。確かに、こういうのは本人からは言いにくいことなので、第三者が間に入った方がよいのかもしれません。


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