南斗屋のブログ

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嘉永6年1月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年02月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年1月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永6年1月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記
2月には江戸に戻ってくるよう奉行所からいわれており、本日八ツ時に長沼村を発つ。元俊医師及び今回の村の差添である組頭の五兵衛と。市右衛門が馬で送ってくれた。本日は大森宿(印西市)の角屋で泊。六ツ半到着。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
12月の審理で2月に再度出頭せよと奉行所からの指示がありました。被告人である元俊医師と五郎兵衛のほか、村の役人が差添人として同行します。
八ツ時(午後2時)という遅い出発なので、大森宿で宿泊と決めていたのでしょう。長沼村(現成田市長沼)から大森(現印西市大森)までは約18 kmです。市右衛門が馬で送ってくれました。

長沼 to 大森

長沼 to 大森



嘉永6年1月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝、組頭の五兵衛殿が大森の役所に行き、江戸へ行く手続きを済ませた。村から出るときは大森の役所で手続きしなければならないのだ。五ツ半時に大森宿を出立。鎌ヶ谷宿の鹿嶋屋で昼食。坂佐井で暮六ツとなって、大雨も降ってきたので同所泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大森宿(現印西市大森)で江戸へ行く手続き。大森には長沼村の領主である稲葉氏(山城国淀藩)の役所(陣屋)があり、村を出るときは届けを出します。
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市鎌ケ谷)で昼食を取りました。坂佐井で泊と書いてあるのですが、坂佐井が今のどこなのか同定できません。五郎兵衛たちが通っている木下街道の宿場の名前では坂佐井という宿はないのです。

嘉永6年1月30日(晦日)(1853年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半に坂佐井を出立し、九ツ時には江戸の本銀町蓮屋に到着する。蓮屋は先月も泊まった公事宿だ。
八ツ半時、元俊医師と共に大先生(大原幽学)に挨拶に行く。大先生は公事宿とは別に松下町湊川に借家を借りており、今後はここが拠点となる。
湊川で話合い。我々の宿を馬喰町山形屋にできないかとの話がでた。どうも蓮屋さんではこの裁判うまく対処できないという見立てのようだ。七ツ時、蓮屋に戻る。
荒海村の平右衛門や喜兵衛も届を出しにいって夜六つ半には宿に帰ってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸に到着。先月泊まった本銀町の蓮屋に荷物を降ろしました。
その後、五郎兵衛と元俊医師は、大原幽学らのいる松下町湊川の借家へ。大原幽学は先に江戸に到着していました。
ここで、蓮屋から馬喰町の山形屋に宿替えできないかとの話がでました。蓮屋も山形屋も公事宿ですから、弁護士の交替のようなものです。

本銀通り · 東京都中央区

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