嘉永6年12月下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。
嘉永6年12月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿は御地頭へ帰村の届けをしに行った。小生は、平右衛門殿と蓮屋(公事宿)へ御礼及び暇乞いの挨拶。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
裁判関係者の帰村手続きは、①奉行所での帰村許可、②村の領主・地頭への届けの二段階が必要です。五郎兵衛以外は本日②の手続き。五郎兵衛は昨日②を済ませてしまいましたので、今日は公事宿への挨拶です。
嘉永6年12月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に幸左衛門殿と二人で高松様方へ挨拶に行く。力蔵様はお留守。正午過ぎ戻る。
髪結いしてから、勘定調べ。深夜までかかる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村間近なため、五郎兵衛らは高松家へ挨拶。午後からは勘定調べ(経費の帳面作成)。五郎兵衛はこういうのは苦手なのでしょう。深夜までかかってしまっています。
嘉永6年12月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝より掃除。幽学先生と伊兵衛父は村に戻らず、借家に残ることに。小生らは帰村のため昼前に出立(幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿、平右衛門殿同道)。扇橋から船で行徳へ。「しがらき」で泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学は江戸に居残り。奉行所からは「村の預り」とされているので、ホントはダメなはずですが。五郎兵衛らは江戸を出立。扇橋⇒行徳ルートで、行徳の「しがらき」泊。
昨年末の帰村時も同じ宿でした(嘉永5年12月14日条)。
嘉永5年12月14日(1852年)#五郎兵衛の日記
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 13, 2022
昨晩は大先生(大原幽学)の宿所に泊まったので、朝五ツ時に蓮屋に戻る。元俊医師は蓮屋と色々と相談。
九ツ時(正午)出立。両国のあわゆきで昼食。六ツ半時(午後7時)、行徳(千葉県市川市)に到着。しがらきという宿に泊まる。#大原幽学刑事裁判
嘉永6年12月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝起きると大雪。行徳を昼前に出立したが、嵐になり、誠に難渋。やむなく八幡の中村屋で火を焚きしばらく暖まり、昼飯。白井には夕方に着き、藤屋泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
朝起きると大雪!昼に八幡までしか辿りつけず、暖をとらないといけないほどの寒さ。白井で宿泊せざるを得ませんでした(昨年は昼までに白井宿についてました)。
嘉永5年12月15日(1852年)#五郎兵衛の日記
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 14, 2022
六ツ半時に行徳を出立。白井宿で昼食。大森宿には七ツ時に着く。御領主の稲葉様の御役所に届けを行い、御返翰も頂戴した。
既に六ツ時となっていた。木下宿に六ツ半着。川内屋という宿で泊まる。#大原幽学刑事裁判
白井宿の藤屋には本年10月3日にも泊まっています。渡辺崋山も同宿に宿泊したことあり。
今回の宿は白井(現白井市)の藤屋。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。この藤屋には渡辺崋山も宿泊しています。https://t.co/Zdp5OY866w
— 断感ろーれんす (@tk23956) October 3, 2023
嘉永6年12月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に白井を立つ。大森まで駄賃を頼み、正午着。小生は大森の御役所で手続きし、他の者は木下まで先に行ってもらった。御役所にご返翰を出したが、いつまで経っても御沙汰なし。
やむなく宿まで戻り、木下まで飛脚で書面を遣わして、幸左衛門らには先に帰ってもらうことにした。夕方に大森の御役所の用向きがようやく終わる。一人で帰り、五つ半(午後9時)に帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日が大雪だったので、道には残雪があったことでしょう。淀藩の役所がある大森宿までは駄賃を払って馬を頼んだのでしょう。五郎兵衛が役所での手続きを引き受けたものの、役所の手続きが遅く、一人で夜道を帰らなければならなくなりました。今回はついてない五郎兵衛です。
五郎兵衛は嘉永6年12月26日(1853年)〜嘉永7年1月27日まで日記を付けていません(帰村しているときは日記をつけていないため)。
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 は1月28日から再開となります。