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渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

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(千葉地方裁判所所長を務めた渡辺暢判事)
渡辺暢は千葉地方裁判所にて所長を務めていた判事です。
松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)には、明治27年9月5日時点の千葉地方裁判所判事リストが掲載されています。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
從七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
渡辺暢は所長判事 として、千葉地裁のトップを務めていました。当時の千葉地方裁判所は新築されたばかりで、威容を誇っていたようです。
「地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」(同書)。
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(初期の千葉の感化院への関与)
渡辺暢判事は、千葉での感化院(現在の児童自立支援施設)の活動に関与しています。

千葉感化院は明治19年11月28日に開所しましたが、明治24年に資金面の都合などから組織改変を行うこととなりました。運営母体は「感化院慈善会」の新会則の改正起草委員三名の一人に、渡辺暢判事が着いています(過去記事「千葉感化院」)。
因みに、他の二人は両名とも千葉の弁護士会に所属していた弁護士です(岩崎直諒、宇佐美佑申)。
「感化院慈善会」の前身である「千葉感化慈善会」の本会長には当時の千葉県知事(船越衛)が着いていますから、渡辺暢判事が感化院の活動に関与していたのも、千葉地方裁判所所長としてのものであったと思われます。
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(渡辺暢判事の経歴)
渡辺暢判事の経歴は以下のとおりです(大正4年時点の『人事興信録』データベース)。
《千葉県士族渡辺佐兵衛の長男。
安政5年(1858年)4月8日生。
明治9年(1876年)に法学徒となり、明治17年(1884年)に司法省法学校を卒業し、法律学士の称号を得て判事補となる。
翌明治18年(1885年)判事となり、従七位に叙せられる。千葉重罪裁判所勤務、同地方裁判所部長、東京控訴院判事、千葉、仙台、横浜、東京各地方裁判所長などの役職を歴任。明治41年(1908年)2月には韓国政府に招かれて大審院長となり、明治42年(1909年)11月には統監府判事に任命され、明治43年(1910年)朝鮮総督府判事。大正4(1915)年1月時点では朝鮮高等法院長を務めていた。》

『人事興信録』データベースは大正4年時点ですので、渡辺暢が朝鮮高等法院長であったことまでの記載となっていますが、ウィキペディアには、判事定年後の経歴として、「1924年(大正13年)1月2日、貴族院勅選議員に選任され、死去するまで在任した。」とあります。

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(東山千栄子の回想)
この渡辺暢判事、女優東山千栄子の父親です。東山千栄子は、『女優の運命 日経ビジネス人文庫 私の履歴書 映画・演劇1』において当時のことを回想しております。当時の裁判官の生活等が分かる貴重なものといえます。
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(東山千栄子による渡辺暢の千葉地裁所長時代)
東山千栄子は千葉で生まれ育った時のことを次のように回想しています(前掲書)。
「千葉で生まれた私は、父の転勤にしたがって、仙台、横浜と移り住みました。
千葉市で住んでいましたのは、もとは庄屋の屋敷だったという、土蔵がいくつかあ るような大きな構えで、その裏手はすぐ海岸になっていました。
土地がら、私たち兄弟の遊び仲間は、近所の漁師や農家の子供たちばかりで、私もいっしょになって、まっくろになって遊びまわりました。あのあたりの海は遠浅でしたので、貝をとって遊んだり、海にはいって泳いだり、小舟に乗ったりして遊びまし た。また、すぐ上が兄でしたから、男の子たちといっしょに竹馬に乗ったり、とんぼ釣りをしたり・・・・・・女の子のくせに、私はずいぶんおてんばでした。母にかくれて、兄たちといっしょに、駄菓子屋へ通ったことも覚えております。」

東山千栄子は1890年(明治23年)生まれです。回想では「千葉市で住んでいました」とありますが、正確にはまだ千葉「町」です(千葉市の市制施行は1921年(大正10年))。
渡辺判事一家が住んでいたのは、元庄屋の屋敷で、土蔵がいくつかあるような大きな構えをしており、その裏手はすぐ海岸になっていたところとのことです。渡辺暢は当時千葉地裁所長の職にあったことから、所長官舎だったのでしょう。具体的な場所はわかりませんが、海が近いということから、裁判所からは少し離れたところであると思われます。


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(東山千栄子による渡辺暢の仙台地裁所長時代)
渡辺暢判事は千葉地方裁判所所長から仙台地方裁判所所長に転任となります。

「学齢がきて、師範の付属小学校に入学しましたが、そこは一学期だけで父の転任のため仙台市に移りました。」(東山千栄子前掲書)
「師範の付属小学校」というのは、千葉師範学校の付属小学校のことで、現在の千葉大学教育学部附属小学校です(同校の歴史が同校ホームページに述べられています)。
明治20年代には学校は4月入学になっていたので、夏には渡辺判事は仙台地方裁判所所長に転任となったようです。

東山千栄子は仙台の冬についての思い出を語っています。渡辺暢判事もこの仙台の寒さを体験したのでしょう。
「仙台の冬は、私にとってはじめての冬らしい冬だったので、寒い記憶が残っています。雪は降り積もり、道は凍ってつるつるすべるので、通学するのにも、よほど注意して歩かないと、すてんと転んでしまうのです。そのかわりに、割った竹をげたの台 につけた代用スケートを、子供たちははきました。私も、たちまちそれで学校へ往復 し、すべったりして遊べるようになりました。
寒いものですから、学校へ持ってゆくお弁当も、お弁当箱に詰めたのではいざ食べるときには凍りついて、ふたがあかなくなったりするのです。ですから子供たちは、芯に焼いた塩ざけをいれたお握りのまわりを焼いてもらい、それを渋紙につつんで、 ふところにいれたり、背中にしょったりして雪のなかを喜んで通学したものでした。 大きな、ひとつのお握りのほかほかしたあたたかさがなつかしく思い出されます。」(東山千栄子前掲書)
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(東山千栄子による渡辺暢の横浜地裁所長時代)

渡辺暢判事の仙台地方裁判所所長在任は1年にも満たない期間であったようです。
「しかし、春を迎えるころには、また父の任地が横浜市に変わりました。私は戸部小学校に転校し、掃部山に近い伊勢町の官舎で暮らすことになりました。」
「高台になっているこの一画には、知事さんをはじめとして県庁の人たち、裁判所や警察の人たちのための官舎が二筋の通りに秩序よく整然と並んでおりました。観艦式の夜、この官舎からながめた満艦飾の港の美しい灯を忘れられません。」(東山千栄子前掲書)

横浜地裁所長に転任した渡辺暢判事一家は、「伊勢町の官舎」で暮らすことになりました。「伊勢町」は現在の横浜市西区伊勢町で、京急線戸部駅の南側の高台に広がる街です。掃部山は、「昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎が建てられていた他、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから鉄道山と呼ばれていました。」とのことであり、「その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有に」なったとあるので(横浜市ホームページ)、鉄道技師の官舎の後、井伊家が買い取るまでに裁判所の官舎などがあったものと思われます。

横浜は現代よりも異国情緒たっぷりの土地柄でした。
「横浜は、貿易港として直接外国につながっているため、そのころからずいぶんハイカラな街でした。まだ東京にはなかったアイスクリームもありましたし、チョコレー トやバナナなど、珍しいおいしいものがいろいろ売られておりました。また南京街にゆけば、中華まんじゅうもおいしゅうございました。 海岸の高台は居留地と呼ばれて、各国の領事館や貿易商の屋敷などが立ち並んでお りました。美しい洋服を着た若い夫人たちが、はでなパラソルをかざして、かわいら しい子供を連れてテニス・コートのあたりに集まったり、中国人のアマさんが、青い 目をしたお人形のような赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩していたり、十字架の立ち並ぶ、段々になった外人墓地があったり・・・・・・異国情緒満点でした。」(東山千栄子前掲書)

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(横浜地裁所長は舞踏会にも出席)
横浜地裁所長当時、渡辺暢判事は舞踏会に招待され出席しています。横浜という土地柄なのでしょう。

「父は舞踏会に招かれ、あのかわいらしい舞踏会の手帳をよくおみやげに持って帰ってくれました。もちろん父はダンスはできなかったのでしょう、お相手のお名前など は書き込んでありませんでした。そういうのは、あちらこちらの領事館などの場合だったのでしょうが、中国人の富豪にお呼ばれしたときには、はでな色彩の、いかにも 中国風の絹に、毛筆でりっぱに書かれたメニューをいただいて来たりいたしました。」(東山千栄子前掲書)
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(まとめ)
判事の経歴や事績はともかく、どのような暮らしをしていたのかは記録に残りにくいものですが、渡辺暢判事の場合はその子東山千栄子の回想により、当時の生活を垣間見ることができました。東山千栄子は、この後他家に養子となり、渡辺家の回想は以上となります。
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