千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の尊属故殺事件
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(はじめに)
・この判決は大審院明治28年11月14日判決(大審院刑事判決録1輯4巻78頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・本件は故殺事件です。現行法では殺人罪のみがありますが、旧刑法では謀殺罪と故殺罪が分かれて規定されており、謀殺罪は計画的な殺人、故殺罪は非計画的な殺人です。
・本件は養子が養父を故殺した事件であり、尊属故殺事件です。旧刑法では、「子孫、その祖父母、父母を謀殺・故殺したる者は死刑に処する」と規定されており(第362条第1項)、法定刑が死刑のみとなっています。
・本件故殺事件が起きたのは、大審院の判決からは分かりませんが、第二審の東京控訴院判決
は明治28年7月31日に言渡され、大審院判決は
2同年11月14日言渡しとなっています。
・本件故殺事件は、「千葉県印旛郡和田村米戸」(現佐倉市米戸)で起きています。
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。
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故殺の件
大審院刑事判決録(刑録)1輯4巻78頁
明治28年第1024号
明治28年11月14日宣告
◎判決要旨
・酒癖の悪い者が飲酒したという事実だけでは、その者が知覚・精神を喪失していたと推定することはできない(判旨第三点)。
(参考)罪を犯す時、知覚精神の喪失により是非を弁別できない者は、その罪について処罰されない(刑法第78条)。
・証拠調査の許否は裁判官の職権に属する(判旨第四点)。
第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院
被告人 藤崎常吉
辯護人 齊藤孝治 磯部四郎
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(緒言)
常吉に対する故殺被告事件につき、千葉地方裁判所は罪証十分であるとし、刑法第362条第1項、第115条、第43条第2号を適用し、死刑に処すとともに、犯行に使用された鉈1丁を没収し、公訴裁判費用は被告が負担すべき旨を言い渡した。
この判決に対して、被告が控訴した。東京控訴院は、この控訴を受理して審理し、明治28年7月31日に控訴棄却の判決を言渡した。
被告が上告したので、刑事訴訟法第283条に基づき、次のように判断する。
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(弁護人斎藤孝治及び磯部四郎の上告趣意について)
弁護人斎藤孝治および磯部四郎の上告趣意:
原院(東京控訴院)は、被告が普段から酒癖が悪かったこと、犯行当時に飲酒酩酊状態にあったことを認定した上で、殺人の原因は父の言葉に対して不満を抱いたとし、被告に対して死刑を言い渡した。
このような事実認定では、刑法第362条第1項「子がその父を謀殺または故殺した場合」を適用することはできない。原判決では、被告の行為が謀殺か故殺か読み取れない。
原判決が死刑を言い渡す際に適用したの、刑法第115条第2項および第362条第1項であるが、刑法第115条第2項は「養子はその養家における実子と同様である」と規定しているに過ぎないから、養子である被告に死刑を言い渡すには刑法第114条の規定も適用する必要があるところ、これを欠いた原判決は判決の理由を具備しているとはいえない。
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〈大審院の判断〉
原判決には、被告が「(前略)一度は同室の炉のそばで寝ていたが、先ほど孫左衛門が少しく激しい言葉を言ったことを思い出して不満となり、憤懣を抑えられず、突然同人を殺害しようという考えが生じ、すぐに起き上がり」とあり、殺害の念が生じた事由は明白であり、かつ、その行為が刑法第362条の故殺であることは明瞭である。
被告と孫左衛門は養父子の関係にあり、親族の扱いは実子と同じとされる刑法第115条を適用しているから、適用法条の欠如もない。
したがって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。
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(被告常吉の上告趣意について)
被告常吉の上告趣意:本件は刑法第78条により処罰されるべきものであるにもかかわらず、それに反した判決が言い渡されたことは不当である。
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〈大審院の判断〉
原判決は、被告が犯罪当時に知覚・精神を喪失していたことは認定していないから、被告の主張は、原審が認めなかった事実に基づいて不服を訴えているに過ぎず、適法な上告理由にあたらない。
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(弁護人両名の拡張上告趣意第一点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第一点:原審の判決は理由を示さない不法がある。
被告常吉は普段から非常に酒を好み、酩酊すると粗暴な行為をすることは原審もこれを認定している。被告は、犯行当時は大量に酒を飲み、知覚を失っていたと弁解し、各証人も、被告が大量に酒を飲んだと証言している。被告本人の弁解どおり、飲酒によって知覚・精神を喪失し、これにより是非を弁別できない状態での行為であったならば、刑法第78条により宥恕を受けるべきである。弁護人は医師による鑑定を請求したが、原審はこれを採用しなかった。原判決が酒癖があるという事実を認めながら、知覚・精神の喪失の有無について判断を示さなかったのは、理由を示さない不法な判決である。
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〈大審院の判断〉(判旨第三点)
弁護人の主張の趣旨は明瞭ではない。判決をしなかったことと、判決に理由を付さなかったことは、別の問題である。知覚・精神の喪失の有無について判決をしなかったことを、「理由を付さない不法な判決」とするのは、訴訟法上まったく意味をなさない。
弁護人の主張は、あるいは、原審で知覚・精神の喪失が一つの争点となっていたので、それについて理由の中で示されていないことを不法だといいたいのかもしれない。しかし、原審が犯行の事実を認定し、有罪としているのであるから、知覚・精神を喪失していなかったことを示す必要はない。
弁護人の主張は、被告に酒癖があるという事実を認めた以上、知覚・精神の喪失の有無を特に示すべきだというのかもしれない。しかし、「酒癖がある者は飲酒した際に知覚や精神を喪失する」との法律上の推定はなく、酒癖のある者が飲酒して、実際に知覚・精神を喪失したか否かは専ら事実認定に属するものである。原審は、その事実がないと認めて有罪判決をなしたのであるから、特にその事実がない旨の理由を付す必要はない。また、知覚・精神を喪失したかどうかは事実認定に属するものであり、医師の鑑定に依拠するか否かは、専ら原審の職権に属する。よって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。
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(弁護人両名の拡張上告趣意第二点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第二点:原判決が刑事訴訟法第198条の規定に違反する不法なものであり、同法第268条に基づき破棄されるべきである。その理由は、被告人が免責のための立証を行う権利を有することは当然であるだけでなく、立法者もこの権利の行使を忘れさせないよう特に注意を払い、刑事訴訟法第198条において、担当裁判官が毎回、被告人に立証の権利があることを告知するよう命じているからである。これは、一方当事者の立証だけでは公正な審理を保つことが難しいためである。
この法の趣旨からすれば、被告人や弁護人が免責の立証をしようと申し立てた場合、裁判官にはこれを全て排斥することは許されないはずである。裁判官による排斥が許されるのであれば
、第198条の規定は無意味となってしまう。
被告人の飲酒が度を過ぎたもので、知覚・精神を喪失したか否か問題は、有罪・無罪を分ける重要な点である。弁護人は被告人と共に、被告人の心神に酒量がどのような影響を及ぼしたかを、適切な専門家に鑑定させることを申請しており、このことは原審の公判記録から明らかである。
裁判官は証拠の取捨については全権を有するが、立証を遮断する権限などは持っていない。
しかるに、原審が鑑定申請を却下したことは、刑事訴訟法第198条の規定に違反する裁判である。
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〈大審院の判断〉
証拠が必要かどうかは原審の裁判官の職権によって決定されるものであり、したがって証拠調べを許可するか否かもまたその職権に属する。本論旨はこの職権に対する不服であって、適法な上告理由とはいえない。
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(弁護人両名の拡張上告趣意第三点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第三点:原判決は、無効かつ違法な証拠を用いて有罪とした違法な裁判であるというものである。原判決では、有罪の証拠として藤崎タケおよび藤崎ヨリの予審調書を摘示している。しかし、この調書は無効かつ違法なものであると言わざるを得ない。刑事訴訟法第20条は、官吏や公吏が作成する書類には、その所属官署の印章を使用しなければならず、これを使用できない場合には、その理由を記載する必要があると規定している。この規定に反した書類は無効となる。
予審調書には、「千葉県印旛郡和田村米戸の藤崎常吉宅において作成したため、庁印を用いず」と記載されているのに、千葉地方裁判所の署名と押印がされている。よって、この調書がどこで作成されたのかは明確ではなく、無効なものである。このような記載にもかかわらず官署の印が押してあるから違法でないとするならば、法律に「官署の印を使用できない場合云々」という規定を設ける必要はないし、出張先で作成された調書は後日、官署の印を押せばよいということになる。
調書の作成場所において所定の要式を具備しなければならないのは、調書の信用性を確実にするためであるから、官署の印を使用できない場合について特別な規定が設けられているにもかかわらず、当該調書のようなものであっては、官署で作成されたのか、出張先で作成されたのかが明確でないので、その信用性は失われ、有罪の証拠とすることはできない。要式を具備しないときは無効となるのであるから、要式が不明確となるような事項を付け加えることも無効を生じさせるものと言わざるを得ない。
もし付記された事実の通りであれば、官署の印が必要な理由はなく、また、裁判所で作成されたものであるならば、場所の付記があるべき理由もない。このように不正確な調書であるため、無効かつ違法な証拠を用いて有罪とされたことは、違法であると言わざるを得ない。
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〈大審院の判断〉
藤崎タケおよび藤崎ヨシノの調書にはその末尾に「藤崎常吉の家において作成したるをもって」とあり、調書の作成場所は明確である。この場合において所属官署の印が押されていなくても、当然ながら調書は有効であるから、たまたま官署の印が押捺されていたたとしても、そのために調書が無効とはならない。
刑事訴訟法第20条は、官署の印を使うべき場合にそれが使われないと無効になるという制裁を定めているが、有効な場合に官署の印を使ったとしても無効になるとは規定していない。予審調書に「庁印を用いず」と記載していながら、実際には庁印が押されているのは、いささか不正確であるとはいえるが、これは調書の証明力に関する問題であって、これを証拠として採用するかどうかは事実審理を行う裁判官の職権に属するものであり、調書自体の有効性には関係ない。よって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。
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(弁護人両名の拡張上告趣意第四点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第四点:原判決が藤崎幸太郎の証言を採用して有罪を認定したのは違法な裁判である。その理由は、原審は藤崎幸太郎の陳述を証拠として有罪を認定したが、幸太郎の配偶者であるシケは、被告常吉の実父である大野長右衛門の妹であり、さらにシケも長右衛門も、実の父親は小出五右衛門であることが別紙証明書により明らかである。したがって、証人である藤崎幸太郎は刑法第114条第5の「父母の兄弟姉妹およびその配偶者」に該当し、刑事訴訟法第123条第2に違反した不法な判決である。
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〈大審院の判断〉
弁護人は証明書を3通提出しているが、上告審は第二審の審理を経た一件記録につき事実に関する調査を行わず、新たに提出された証拠につき事実の審理を行わない(判旨第四点)。
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(結語)
以上の理由により、刑事訴訟法第285条の規定に従い、次のように判決する。
本件上告はこれを棄却する。
明治28年11月14日大審院第一刑事部公廷において、検事岩田武儀立会し宣告。
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〈原文〉
故殺ノ件
大審院刑事判決録(刑録)1輯4巻78頁
明治二十八年第一〇二四號
明治二十八年十一月十四日宣告
◎判决要旨
法律ハ酒癖者ノ飮酒シタル事實ヲ以テ知覺精神ノ喪失ヲ推測スルコトナシ(判旨第三點)
(參照)罪ヲ犯ス時知覺精神ノ喪失ニ因テ是非ヲ辨別セサル者ハ其罪ヲ論セス(刑法第七十八條)證據調ノ許否ハ裁判官ノ特權ニ屬ス(判旨第四點)
第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院
被告人 藤崎常吉
辯護人 齊藤孝治 磯部四郎
右常吉ニ對スル故殺被告事件ニ付明治二十八年七月三十一日東京控訴院ニ於テ千葉地方裁判所カ罪證充分ナリトシ刑法第三百六十二條第一項同第百十五條第四十三條第二號ヲ適用シ死刑ニ處シ犯罪ノ用ニ供シタル鉈壹挺ハ之ヲ沒収シ公訴裁判費用ハ被告ノ負擔タルヘキ旨言渡シタル判决ニ服セス被告ノ爲シタル控訴ヲ受理シ審理ノ末本案控訴ハ之ヲ棄却スト言渡シタル判决ニ服セス被告ヨリ上告ヲ爲シタルニ依リ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ審理スル左ノ如シ
辯護人齋藤孝治磯部四郎上告趣意ハ原院ハ被告ニ對シ死刑ヲ言渡シタリト雖モ其判决ヲ見ルニ被告カ平素酒癖アル事實及ヒ犯罪行爲アリタル當事ハ飮酒酩酊シ在リタル事實ヲ認メ而シテ其殺害ノ原因ハ父ノ言語ニ對シ不平心ヲ起シタリト云フニ過キサレハ其事實情况刑法第三百六十二條第一項ニ規定セル子カ其父ヲ謀殺故殺シタルモノト自ラ異ナルノミナラス被告ノ所爲ハ謀殺故殺二者孰レノ所爲ナルヤ原院判文之ヲ知ルニ由ナシ加之ナラス原判决カ死刑ノ言渡シアル法條ノ適用ヲ見ルニ刑法第百十五條第二項第三百六十二條第一項ヲ明示シタルニ過キサルニ刑法第百十五條第二項ノ規定ハ養子其養家ニ於ケル親屬ノ例ハ實子ニ同シト云フニ止マルモノナレハ養子タル被告ニ對シ死刑ヲ言渡スニハ右法條ノ外尚ホ刑法第百十四條ノ規定ヲ適用セサレハ判决ノ理由ヲ具備セルモノト云フヘカラスト云フニ在レトモ◎原判文ヲ査閲スルニ「(前畧)一旦同室ナル爐ノ傍ニテ寢臥シタルモ先キニ孫左衛門ノ言語少シク劇シカリシヲ追懷シ不平心ヲ起シ憤懣ニ堪ヘス忽然同人ヲ殺害セントノ念ヲ生シ直チニ起キ上リ云々」トアレハ其殺害ノ念ヲ起シタル事由明白ニシテ且ツ其所爲刑法第三百六十二條ニ謂フ所ノ故殺タルコトモ明瞭ナリ而シテ被告ト孫左衛門ハ養父子ノ間柄ニシテ其親屬ノ例ハ實子ニ同シトノ同法第百十五條ヲ適用スル已上ハ第三百六十二條ヲ適用スルニ於テ理由ノ闕如スル處一モ之レアルコトナシ故ニ本論旨ハ毫モ上告適法ノ理由ナシ
被告常吉上告趣意ハ本案ハ刑法第七十八條ニ依リ處斷スヘキモノナルニ之ニ反シタル判决ヲ與ヘラレタルハ不當ナリト云フニ在レトモ◎原判文ヲ見ルニ被告カ犯罪ノ當時知覺精神ヲ喪失シタリトノ事實ヲ認メアラサレハ本趣旨ハ必竟スルニ原院ノ認メサル事實ニ基キ漫ニ不服ヲ唱フルニ過キサレハ上告適法ノ理由トナラス
辯護人兩名ノ上告趣意擴張第一點ハ原院ノ判决ハ理由ヲ付セサル不法ノ判决ナリ其理由ハ本件ノ被告常吉ハ平素甚タ酒ヲ嗜ミ酩酊スルトキハ粗暴ノ行爲アリトハ原院ノ認ムル所ナリ而シテ被告本人ノ辯解ニ因レハ凶行ノ當時ハ多量ノ飮酒ヲ爲シテ知覺ナカリシト云ヒ各證人ノ申立ニ因ルニ多量ノ飮酒ヲ爲シタル申立ヲ爲シ居レリ若シモ被告本人辯解ノ如ク飮酒ノ爲メ知覺精神ヲ喪失シ因テ是非ヲ辨別セサル者ノ所爲ナルニ於テハ刑法第七十八條ノ宥恕ヲ受クヘキモノナリトス故ニ原院ニ於テハ辯護人ヨリモ醫師ノ鑑定ヲ請求シタルニ之レヲ採用セスシテ酒癖アル事實ヲ認メナカラ知覺精神喪失有無ノ判决ヲ爲サヽリシハ理由ヲ附セサル不法ノ判决ナリト云フニ在リテ◎其趣旨ノアル處甚タ明瞭ナラス判决ヲ爲サヽルト判决ニ理由ヲ附セサルトハ自ラ別問題ニ屬ス故ニ知覺精神喪失有無ノ判决ヲ爲サヽリシハ理由ヲ附セサル不法ナリト云フハ全ク訴訟法上意味ナキ文詞ナリ或ハ原院ノ審理中知覺精神喪失ノ事實有無カ一ノ爭點トナリタルニ之ニ對シ理由中判示セサルハ不法ナリト云フノ意ナラン乎原院ハ凶行ノ事實ヲ認メ有罪ノ判决ヲ爲ス已上ハ特ニ知覺精神ヲ喪失セサリシコトヲ示スノ要ナシ又或ハ酒癖アル事實ヲ認メタル已上ハ知覺精神喪失有無ノコトヲ特ニ判示スヘキモノナリトノ意ナラン乎法律ハ酒癖アル者ハ飮酒スルトキハ知覺精神ヲ喪失スルモノナリトハ一應ノ推測ヲモ爲サヽルヲ以テ酒癖アル者飮酒シタリトモ果シテ知覺精神ヲ喪失シタルヤ否ヤハ全ク事實ノ認定ニ屬ス故ニ其事實ナシト認メ有罪ノ判决ヲ爲ス已上ハ特ニ其事實ナキ旨ノ理由ヲ(判旨第三點)
附スルヲ要セス且ツ知覺精神ヲ喪失シタルヤ否ヤハ全ク事實ノ認定ニ屬スル已上ハ醫師ノ鑑定ニ依ルト否トハ全ク原院ノ職權ニ屬ス要スルニ本論旨ハ上告適法ノ理由ナシ』其第二點ハ原院判决ハ刑事訴訟法第百九十八條ノ規定ニ違背シタル不法ノモノナルヲ以テ同法第二百六十八條ニ從ヒ破毀セラルヘキモノト信ス其理由ハ被告人ニ免責ノ立證ヲ爲ス權利アルコトハ勿論ナルノミナラス立法官ハ此權利ノ施行ヲ遺忘セシメサルコトニ特ニ注意シ刑事訴訟法第百九十八條ヲ以テ當局裁判官ヨリ毎事被告人ニ立證ノ權利アルコトヲ告知スヘシト命令セリ
盖シ片訟以テ審理ノ公平ヲ保ツコト難キカ故ナラン乎是ニ由テ之ヲ觀レハ苟モ被告人若クハ其辯護人ヨリ免責ノ立證ヲ爲サント申立ツル已上ハ裁判官ハ悉ク之ヲ排斥スルノ職權ナカル可シ他ナシ若シ之ヲ排斥スルノ職權アルモノトセハ前記第百九十八條ノ規定ハ徒法ニ屬スルヲ以テナリ抑本件ノ被告人飮酒度ヲ過キテ知覺精神ヲ喪失スル者ナルヤ否ヤノ問題ハ有罪無罪ノ相岐ルヽ點ナルヲ以テ辯護人等ハ被告人ト共ニ被告人ノ心神上ニ酒量ノ及ホス可キ影響如何ヲ相當技術家ニ鑑定セシメラレンコトヲ申請シタル事實ハ原院ノ公判始末書ニ徴シテ明瞭ナリ裁判官ハ既ニ差出シタル證據ヲ取捨スルノ全權ヲ有ストハ聞知スル所ナリト雖トモ立證ノ途ヲ遮斷スル職權ヲ有セラルヽモノトハ被告人ノ曾テ信セサル所ナリ然ルニ原院ニ於テ右立證ノ申請ヲ排斥セラレタルハ刑事訴訟法第百九十八條ノ規定ニ違背シタル裁判ト信シテ疑ハサル次第ナリト云フニ在レトモ◎證據ノ必要ナルト否トハ原院ノ職權ヲ以テ定ムル處ナレハ從テ證據調ノ許否モ亦其職權ニ屬ス本論旨ハ右ノ職權ニ對スル不服ナレハ上告適法ノ理由トナラス』其第三點ハ原院判决ハ無効且違法ノ證據ヲ以テ斷罪ノ具ニ供シタル違法ノ裁判ナリ原院判决ハ有罪ノ證憑トシテ藤崎タケ藤崎ヨリノ豫審調書ヲ明示セリ然レトモ此調書ハ無効且違法ノモノト云ハサルヘカラス刑事訴訟法第二十條ノ規定ニ依レハ官吏公吏ノ作ル可キ書類ニハ其所屬官署ノ印ヲ用ユルコトヲ要シ而シテ若シ之ヲ用ユルコト能ハサル塲合ニ於テハ其事由ヲ記載スルコトヲ要シ此規定ニ反スルトキハ其書類ノ効ナキモノナリ今右調書ヲ閲スルニ「千葉縣印幡郡和田村米戸藤崎常吉宅ニ於テ作成シタルヲ以テ廳印ヲ用ヒス」トアルニ拘ハラス千葉地方裁判所ノ署名押捺シ在リ然レハ此調書ハ孰レノ處ニ於テ作成セラレタルモノナルヤ明確ナラサル無効ノモノナリ若シ右記載アルニ拘ハラス官署ノ印ヲ押捺シテ違法ニ非ストセハ法律ニ於テ「官署ノ印ヲ用ユル能ハサル云々」ノ規定ヲ設クルノ要ナク出張先作成ノ調書ハ後日ニ於テ官署ノ印ヲ押捺シテ可ナルノ結果ヲ生スルニ至ル然レトモ調書作成ノ塲所ニ於テ定式ヲ具備スルハ其調書ノ信表力ヲ確然ナラシムルニ要アルヲ以テ官署ノ印ヲ用ユル能ハサル塲合ニ對スル特別ノ規定ヲ設ケタルモノナルニ該調書ノ如クナルトキハ官署ニ於テ作成シタルモノナルヤ出張先ニ於テ作成シタルモノナルヤ正確ナラス其信表力ナキモノナレハ斷罪ノ具ニ供スヘキモノニ非ス要式ノ不足ニシテ無効ヲ生スル已上ハ其要式ヲ不明確ナラシムル事項ノ附加ハ亦無効ヲ生スルモノト謂ハサルヘカラス實ニ附記ノ事實ノ如クナレハ官署ノ印ノ存スヘキ理由ナク又裁判所ニ於テ作成セラレタルモノナレハ其塲所ノ附記アルヘキ理ナク不正確ナル調書ナルニ此無効且違法ノ證據ヲ以テ斷罪ノ具ニ供セラレタルハ違法ト云ハサルヘカラスト云フニアレトモ◎藤崎タケ藤崎ヨシノ調書ヲ閲スルニ其末尾「云々藤崎常吉宅ニ於テ作成シタルヲ以テ」トアレハ其作製ノ塲所明瞭ニシテ此ノ塲合ニ於テ所屬官署ノ印ヲ用井サルモ當然有効ナルモノナレハ偶官署ノ印ヲ押捺スルモ爲メニ其調書ノ無効トナルヘキ理由アルコトナシ刑事訴訟法第二十條ハ所屬官署ノ印ヲ用ユヘキ塲合ニ之ヲ用井サルトキニ無効ノ制裁ヲ附スルモ用井サルモ有効ナル塲合ニ之ヲ用ユルトキ無効ナリトノ規定ヲ爲シタルニアラサルコト明瞭ナリ唯「廳印ヲ用ヒス」ト記載シ而シテ廳印ヲ用井アルハ聊カ不精確ノ嫌ナキニアラスト雖トモ此全ク右調書ノ證據力ニ關スル事柄ニシテ之ヲ採ルト採ラサルトハ事實承審官ノ職權ニ屬シ調書自體ノ有効無効ニハ關係アルヘカラス故ニ本論旨ハ上告適法ノ理由トナラス』其第四點ハ原院判决カ藤崎幸太郎ノ證言ヲ採テ斷罪ノ具ニ供シタルハ違法ノ裁判ナリ其理由ハ原院ハ藤崎幸太郎ノ陳述ヲ採テ斷罪ノ證トセラレタレトモ右幸太郎ノ配偶者シケハ被告常吉カ實父大野長右衛門ノ妹ニシテシケモ長右衛門モ其實父ハ小出五右衛門ナルコトハ別紙證明書ニ明カナリ故ニ證人藤崎幸太郎ハ刑法第百十四條第五ニ所謂「父母ノ兄弟姉妹及ヒ其配偶者ニ該當スルモノニシテ刑事訴訟法第百二十三條第二ノ法律ニ違ヒタル不法ノ判决ナリト云フニ在リテ◎證明書三通呈出スルモ上告審ハ第二審ヲ經由セシ一件記録ニ就キ事實點ニ關シ調査スルコトナキニアラサルモ新タニ呈出スル證據物ニ付事實ノ審理ヲ爲スヘキモノニアラス(判旨第四點)
右ノ理由ニ依リ刑事訴訟法第二百八十五條ノ規定ニ從ヒ判决スル左ノ如シ
本件上告ハ之ヲ棄却ス
明治二十八年十一月十四日大審院第一刑事部公廷ニ於テ檢事岩田武儀立會宣告ス