エッセーの前にひとつ報告を。
シゲが主演したドラマ「姿三四郎」がDVD化されることになりましたー!!
はい、おめでとさん
地デジと地上波の両方でDVDに落としてありますけども。
特典映像も撮り溜めした録画の中に入ってそうですけども。
ツタヤで予約しちゃいました!
だってーB2サイズ(!)のポスターが特典で付くっていうしー
うーん 愛 だね
はい報告終わり。
それでは、これより先がエッセーです。
今回のテーマはちょっと難しかったなー
ま、気軽にお読みいただければと。
************************************************
「私、今日、ヘンなキャラクターの絵柄のパンツを履いてるの。だから、もしもこの飛行機が事故って私に何かあったときは、スーツケースの中に可愛いパンツが入ってるから、それに履き替えさせてちょうだいね」
隣席の私に向かって、かつて、こんなアホなお願いをしてきたのは旅仲間のNちゃんだ。
どこへ旅したときの話だったか、はっきりと覚えてはいないが、海の上を飛んでいる時に出た話だった気がするので、おそらく太平洋上を横断しているとき、アメリカかカナダかカンクン、このどれかを旅した時だろう。パンツ云々の理由は、病院に運ばれて手当てを受けるとき、変なパンツじゃ恥ずかしいから、ということだった。
そんなおもしろNちゃんと初めて旅したのは、カナダだったか、ヨーロッパだったか。
他にも同期の女性はいたのだけれど、入社してからも、あまり一緒につるんだことがなかったNちゃんと、「どこどこへ行きたいね」という話になって二人で旅をして、そのうちいつの間にか、夏の長期旅行には私の隣にNちゃんがいる、というのがお約束になった。
もちろん、ほかの友人とも旅をしたことはあるが、海外となるとNちゃんとの旅が断然多い。なんというか、一緒にいることが「自然」な感じなのだ。
それはNちゃんと私が、同じ魚座のAB型だからか?と思わなくもないが、時々、彼女のマイペースにイラッとさせられることもある。(笑)
それでも、次もNちゃんと旅したいと思うのは、一緒にいて楽しいし、何ひとつ気兼ねする必要がないからだ。長いフライト中、お互いに話すことがなく、黙って別々のことをしていても、それを居心地が悪いと思ったことは一度もなく、ホテルの部屋でも、お互いがそれぞれのペースで過ごすことが自然と出来ている。Nちゃんとの旅は、家族と旅行している感覚に近い。
Nちゃん、今年の夏はどこに旅しようか?
私は子供の頃から人見知りをしないほうだ。見知らぬ人から話しかけられた場合も、普通に会話を交わすことができるし、自分から話しかけることも苦ではない。
しかし、実はそこから先のガードが自分でもあきれるほど固いのだ。
表面上は明るく笑ったりしてオープンさを装ってはいるが、その笑顔の裏で、私は目の前の相手を用心深く注意して見守っている。変な言い方だが、目の前の相手は自分にとって「味方」になるのか「敵」になるのか、探っているのだ。あたりさわりのない話をし、共通点を見つけて会話をふくらませたりしながら、自分の内面には踏み込まれないよう、しなくていい緊張までして、相手の様子を見ている。
だから、私には本当の意味で「友人」と呼べる人は数少ない。
私にとっての「友人」は、隣に一緒にいて、心からリラックスできる相手のことだ。他人が聞いたら馬鹿げたことを気兼ねなく話せる相手のことだ。抱える不安や悲しみや弱みさえ隠すことなく話せる相手のことだ。
そして、私が見返りを期待することなく、その隣にいて何かしてあげたい、助けてあげたい、そう思える相手のことだ。
そういう「友人」は、自分の身近にいる人の中でしか見つけられないのだと、私はずっと思っていた。会って、じっくり話を交わして、ある程度の付き合いを経た相手でなければ、私にとっての「友人」にはなりえないと思っていた。
今、私には、一度も会ったことがない、顔も知らない「友人」がいる。2004年にブログを始めてから、そのブログを通じて知り合った人たちだ。
お互いのブログへのコメントやメール、手紙や年賀状を通してしか話をしたことがないが、途中でブログを「ここ」に引っ越してから今までに至る「付き合い」を経て、これは独りよがりで失礼な言い方かもしれないが、「この人となら友人になりたい」と私が願った人たちなのだ。
物理的に隣近所にいるわけではない、でも、たとえ遠く離れていても、たとえ顔さえ知らなくても、自分の近くに、感覚的に「隣にいる」ことを感じられる「友人」。
もしも、あのとき、ブログを始めていなかったら私は、物理的な「隣」の人たちとしか、一生出会えずに終わったかもしれない。
今までの出会いと、そしてこれからの新しい出会いに。
ありがとう。
シゲが主演したドラマ「姿三四郎」がDVD化されることになりましたー!!
はい、おめでとさん
地デジと地上波の両方でDVDに落としてありますけども。
特典映像も撮り溜めした録画の中に入ってそうですけども。
ツタヤで予約しちゃいました!
だってーB2サイズ(!)のポスターが特典で付くっていうしー
うーん 愛 だね
はい報告終わり。
それでは、これより先がエッセーです。
今回のテーマはちょっと難しかったなー
ま、気軽にお読みいただければと。
************************************************
「私、今日、ヘンなキャラクターの絵柄のパンツを履いてるの。だから、もしもこの飛行機が事故って私に何かあったときは、スーツケースの中に可愛いパンツが入ってるから、それに履き替えさせてちょうだいね」
隣席の私に向かって、かつて、こんなアホなお願いをしてきたのは旅仲間のNちゃんだ。
どこへ旅したときの話だったか、はっきりと覚えてはいないが、海の上を飛んでいる時に出た話だった気がするので、おそらく太平洋上を横断しているとき、アメリカかカナダかカンクン、このどれかを旅した時だろう。パンツ云々の理由は、病院に運ばれて手当てを受けるとき、変なパンツじゃ恥ずかしいから、ということだった。
そんなおもしろNちゃんと初めて旅したのは、カナダだったか、ヨーロッパだったか。
他にも同期の女性はいたのだけれど、入社してからも、あまり一緒につるんだことがなかったNちゃんと、「どこどこへ行きたいね」という話になって二人で旅をして、そのうちいつの間にか、夏の長期旅行には私の隣にNちゃんがいる、というのがお約束になった。
もちろん、ほかの友人とも旅をしたことはあるが、海外となるとNちゃんとの旅が断然多い。なんというか、一緒にいることが「自然」な感じなのだ。
それはNちゃんと私が、同じ魚座のAB型だからか?と思わなくもないが、時々、彼女のマイペースにイラッとさせられることもある。(笑)
それでも、次もNちゃんと旅したいと思うのは、一緒にいて楽しいし、何ひとつ気兼ねする必要がないからだ。長いフライト中、お互いに話すことがなく、黙って別々のことをしていても、それを居心地が悪いと思ったことは一度もなく、ホテルの部屋でも、お互いがそれぞれのペースで過ごすことが自然と出来ている。Nちゃんとの旅は、家族と旅行している感覚に近い。
Nちゃん、今年の夏はどこに旅しようか?
私は子供の頃から人見知りをしないほうだ。見知らぬ人から話しかけられた場合も、普通に会話を交わすことができるし、自分から話しかけることも苦ではない。
しかし、実はそこから先のガードが自分でもあきれるほど固いのだ。
表面上は明るく笑ったりしてオープンさを装ってはいるが、その笑顔の裏で、私は目の前の相手を用心深く注意して見守っている。変な言い方だが、目の前の相手は自分にとって「味方」になるのか「敵」になるのか、探っているのだ。あたりさわりのない話をし、共通点を見つけて会話をふくらませたりしながら、自分の内面には踏み込まれないよう、しなくていい緊張までして、相手の様子を見ている。
だから、私には本当の意味で「友人」と呼べる人は数少ない。
私にとっての「友人」は、隣に一緒にいて、心からリラックスできる相手のことだ。他人が聞いたら馬鹿げたことを気兼ねなく話せる相手のことだ。抱える不安や悲しみや弱みさえ隠すことなく話せる相手のことだ。
そして、私が見返りを期待することなく、その隣にいて何かしてあげたい、助けてあげたい、そう思える相手のことだ。
そういう「友人」は、自分の身近にいる人の中でしか見つけられないのだと、私はずっと思っていた。会って、じっくり話を交わして、ある程度の付き合いを経た相手でなければ、私にとっての「友人」にはなりえないと思っていた。
今、私には、一度も会ったことがない、顔も知らない「友人」がいる。2004年にブログを始めてから、そのブログを通じて知り合った人たちだ。
お互いのブログへのコメントやメール、手紙や年賀状を通してしか話をしたことがないが、途中でブログを「ここ」に引っ越してから今までに至る「付き合い」を経て、これは独りよがりで失礼な言い方かもしれないが、「この人となら友人になりたい」と私が願った人たちなのだ。
物理的に隣近所にいるわけではない、でも、たとえ遠く離れていても、たとえ顔さえ知らなくても、自分の近くに、感覚的に「隣にいる」ことを感じられる「友人」。
もしも、あのとき、ブログを始めていなかったら私は、物理的な「隣」の人たちとしか、一生出会えずに終わったかもしれない。
今までの出会いと、そしてこれからの新しい出会いに。
ありがとう。