歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

第3回当日!!

2014-05-13 08:30:59 | 神剣の守護者
さて、キャンパス第3回目の当日でございます。
・・・ちょっとあまり寝ていないので、ほけっとしてますが。
雨は止んで、晴れたようなのでみなさま、
飛び入り大歓迎!!ですので、ぜひにもお越しください。
お待ちしております!!


「神剣の守護者③
楠木一族最後の戦いー悪党楠木 vs 魔王織田信長!!」

5月13日(火)14:00~15:00 前橋プラザ元気21 51・52学習室






智本光隆



お前はまだ群馬を・・・その肆「天への焼華」

2014-05-12 21:15:26 | 日記
昨日でベイが今季初の4連勝!!!
4連勝って何時以来だろう?
もしかして、昭和35年日本シリーズの、
大毎オリオンズ4タテ・・・・・このネタ、ブログ開設以来使っているw


え~と・・・すみません。
何やら「赤城団事件」が期待を集めているようですが、
現在、まちなかキャンパス目前なので、
終わったらすぐに書きます。
期待に添えないオチだったら、どうしよ・・・


それはそれとして、以前に某所にて、
話題になっていたものを、季節はずれですがご紹介します。。。





グンマーののどかな日常をご覧くださいw


なお、これは一年おせわになった、
ダルマ様、招き猫様に天へとお還りいただく、神聖な儀式です。


さて、原稿ラストチェックへと・・・



智本光隆

建武中興十五社!!

2014-05-10 21:15:55 | 日記
あ、、、ブログを更新しようとした途端、
ベイスターズ優勝の場面がテレビ映った!!
・・・なぜだろう、涙が・・・



出だしが全く関係ない話になりましたが、
まちなかキャンパスはじめたある日のこと、
ある人に言われたことですが、


「智本さん、建武中興十五社って知ってます?」
「ええ、そりゃあ一応(初回の資料に湊川神社さんの写真を載せていました)」
「全部行ってみたいんだけど。何か所くらい行っています?」
「えっと・・・」



「建武中興十五社」とは・・・
「明治維新以降、「建武の中興」に関係した皇族、公家、武家に神号が贈られて追贈された。
それらは後醍醐天皇を祭神とした官幣大社・吉野神宮を筆頭にして15社を数え、
主祭神は19柱に及んだ。これらを総称して以下を「建武中興十五社」と称する」

(引用:自分の修士論文w)


そして、その一覧を載せますと、


社号     祭神       旧社格     創建(社格指定)    所在地
吉野神宮  後醍醐天皇    官幣大社   明治25年(明治34年) 奈良県吉野郡吉野町

鎌倉宮   護良親王     官幣中社   明治2年(明治6年)    神奈川県鎌倉市

井伊谷宮  宗良親王     官幣中社   明治5年(明治6年)   静岡県浜松市
  
八代宮   懐良親王     官幣中社   明治17年          熊本県八代市

金崎宮  尊良親王・恒良親王 官幣中社   明治26年        福井県敦賀市

小御門神社 花山院師賢公   別格官弊社  明治15年        千葉県成田市

菊池神社  菊池武時公・武重公・武光公  
                   別格官弊社   明治3年(明治11年) 熊本県菊池市

藤島神社  新田義貞公    別格官弊社  明治3年(明治9年)   福井県福井市
 
湊川神社  楠木正成公    別格官弊社  明治5年          兵庫県神戸市

四条畷神社 楠木正行公    別格官弊社  明治12年(明治23年) 大阪府四條畷市

名和神社  名和長年公    別格官弊社  承応・明暦年間(1652―1658)
                                ( 明治11年) 鳥取県西伯郡大山町

結城神社  結城宗広公    別格官弊社  文政7年(明治15年)  三重県津市

阿倍野神社 北畠親房公・顕家公 別格官弊社  明治15年(明治23年)大阪市阿部野区

霊山神社  北畠親房公・顕家公・顕信公・守親公  
                    別格官弊社  明治14年(明治18年) 福島県伊達市

北畠神社  北畠顕能公・親房公・顕家公  宝永20年(昭和3年)    三重県津市美杉町


※参考文献『全国神社名鑑 上下』全国神社名鑑刊行会史学センター 1977年


です。修士論文作成当時のままなので、市町村合併等で、
現在の所在地が変更の場合、ご容赦を!
(そして、改行がうまくいかない。時間ある時に直しますので)


そして、これまでに智本が参拝させていただいているのは、




北畠顕能公・親房公・顕家公の北畠神社(お世話になりました!)




結城宗広公の結城神社。




新田義貞公の藤島神社。
・・・戦前の群馬県人が、少々複雑な感情を持つという・・・


ちなみに、鎌倉宮(護良親王)は小学校の修学旅行と、
大学生のころの2度行きましたが、写真がみつからなかった。
それと、楠木正行公の四條畷神社、尊良親王・恒良親王の金崎宮は、
実はすぐ側まで行ったんですが、
諸般の事情にて立ち寄れず。残念・・・


こう考えると、自分もまだ半分も行っていないなぁ。
そう、そして忘れてはいけないのが、




楠木正成公の湊川神社!(こちらも色々お世話に・・・)
『神剣の守護者』での正具の「(伊勢)神宮に詣でてまいるのよ」とのセリフ、
そう、今年もそろそろ25日ですね。
藤島神社も同様ですが、写真見てお分かりの通り、
行ったのはフィルムカメラ時代。
久々に行きたいなぁ・・・




話しの舞台は伊勢になりますが、
是非、来週のキャンパス第3回も神明御加護を!!



智本光隆

残り物の・・・城!!

2014-05-09 23:30:06 | 日記
昨日、整体にいってはじめて左肩に針を打った・・・
なので、今日はいささか肩が動く。
なにせ、、この間までまったく動かなかった。ストレスかねぇ・・・
この効果、いつまで続くかなぁ。
せめて、13日のキャンパスまでは持って(懇願)


ちなみに、ちょっと前に担当の整体師さんが、
アメリカに旅立ってしまいまして・・・(いや、マジで)
で、、、新任の方は数年前の高校時代、
都大路の風になった方でした。
高校駅伝の3区(宝ヶ池折り返し)、近所に住んでいたんでよく見たな。



・・・と、帰りに13日キャンパスの案内状を、
郵便局にて送付していたら、、、



発見!!


いろいろな事情で、
1月頃によく使っていた「日本の城シリーズ第1集」
これが、最後の1シートだそうです。
岡山城がなかなか良い感じです。
・・・そして唯一、行ったことないのが岡山城。
次から82円になるのね・・・



智本光隆

神剣コラム第6回ー「禁闕の変」―

2014-05-07 01:26:18 | 神剣の守護者
神剣コラム第6回のお時間でございます!
なにそれ?って方が多いような気もする(汗
何せ、前回の第5回が2月9日・・・大雪の前です。


え~・・・本コラムは『神剣の守護者』の,
バックグラウンド解説として始めたのですが、
私が「まちなかキャンパス」の講師となり、
話の内容がもろかぶり!
状態なため、止む無く停止しておりました。


キャンパスは来週13日で第3回ですので、
2回目までの内容は、そろそろ書いてもよいかもと。
しかし・・・キャンパスの為に改めて勉強し直すと、
過去の5回の粗さが目立つ。。。
あとで、こっそり直そうか・・いっそ、書きなおす?



9、追い詰められた「後南朝」

前回(2月なんですが・・)、「禁闕の変」の直前まで話を進めたかと思いますが、
そもそも、この事件はどうして起こったのか?

南朝最後の天皇・後亀山天皇が崩御したのは1424年のこと。
実はこの2年前に、その子の小倉宮恒敦(初代・小倉宮)が没しています。
この時期、旧南朝勢力「後南朝」は「両統迭立」の実現を求め続けるも、
それは持明院統、そして室町幕府に無視され続け・・・
後亀山上皇の崩御が引き金のようにその4年後、
孫の小倉宮聖承(恒敦の子)が伊勢に飛び出して、
北畠親房の曾孫・満雅と共に反乱をおこします。


しかし、、、初戦こそ勝利するも、満雅は敢え無く敗死。
小倉宮も京都へと戻り、10年後の嘉吉3年・・・1443年に没してしまう。
これにて、大覚寺統の直系は断絶します。


京都の公家が「南北両朝元弘・建武以来、不安休まらざるの処、
近年論争なく干戈止む。今すでに皇統自然に帰す。天運の理、神慮といふべし」

(『建内記』嘉吉3年5月9日条)


と、書き記す程です。
これを書いているは万里小路時房・・・
後醍醐天皇の最側近、万里小路藤房の玄孫なんですけどね。
一緒に松の木の下で雨を凌いで涙した、あの情熱はどこへいったのかw


しかし、「後南朝」からするといよいよ追い詰められます。
新田は死に絶え、北畠も矛を収め、何より担ぐべき「天皇」が不在。
それでも、「南朝の意地」が起させたとでもいうのか「禁闕の変」でした。



10、「禁闕の変」―奪われた草薙剣と八尺瓊勾玉―

しかしこの時期、混乱していたのは旧南朝ばかりでもありません。
1441年(嘉吉元)には、強権的な政治で幕府の権力強化をはかった、
6代将軍・足利義教殺害事件が起こります。
そして、かわりに立てられた7代将軍・足利義勝が、
この年僅か10歳で急死し、幕府にも混乱が続いていた時期です。


そして9月24日夜、京都の西側の神泉苑に集まった、
「凶徒は2、300人」。
大乗寺の日記には、


「内裏炎。悪党の所為なり。神璽等紛失。南方金蔵主、日野一品入道父子、
その他済々、山門ならび京都において、殺害されおわんぬ。
その夜、主上は密かに左大臣亭に行幸。賢所これに同じ。宝剣紛失」



金蔵主という者は万寿寺という京都の寺の僧侶で、
後亀山天皇の孫とされていますが、詳細は不明です。

この時点の「後南朝」にはすでに推戴する皇族も満足にいない有様でしたが、
御所に乱入すると八尺瓊勾玉、そして草薙剣を強奪することに成功しました。
八咫鏡だけは天皇と共に、左大臣の邸に移して無事であった模様。


さて、この決起に「悪党」とありますが、先陣を切って戦い、
自ら2つの神器を奪った「楠木次郎」なる人物がいます。


「三種の神器を奪い奉り向ふ敵をかけ破り落行けるを遁すましと、
京勢八方より走り来り討留んとす、楠木次郎武勇を振ひかけ破り」
(『十津河之記』)


・・・様子からして、かなり強いです!
この次郎が楠木一族の内、誰に当たるの・・・
『神剣の守護者』では楠木正成の玄孫・楠木正威としてみました。
もちろん、畿内各地に生き残った楠木一族が、複数参加していた可能性も大です。


その楠木次郎・・正威は神器を携えて逃げますが、
草薙剣は途中で紛失してしまい、残った八尺瓊勾玉を持って比叡山に上るものの、
延暦寺に協力を拒まれると、幕府軍と戦って戦死します。


その後、八尺瓊勾玉は南朝残党軍の手で大和奥地の川上村・・・
ここには自天王と名乗る後亀山天皇の後胤の自称天皇がおり、
神器はここへ運ばれますが、
15年後に幕府軍の赤松氏に村に入られ、自天王は殺害され、
その翌年には八尺瓊勾玉も奪いかえされてしまう・・と。


さて、それでは草薙剣はどうなったのかというと、
事件の翌日に清水寺で幕府軍により回収されたとされています。


しかし、草薙剣は本当に幕府によって取り返されていたのか?
もしも、楠木正威が討死する前に、それを誰かに託していたら・・・
そして、その剣が密かに護り継がれていたとしたなら・・・?



そして「禁闕の変」から120年、
「神剣」を伊勢の地にて密かに護る楠木正成末裔一族・・・
その当主である楠木正具(まさとも)を主人公としたのが『神剣の守護者』です。
そして、歴代楠木当主で誰よりもタチの悪いこの男が、
「楠木の使命」を終わらせるために、動きはじめる・・・


以上、久々の「神剣コラム」で「禁闕の変」を一気に書いて見ました。
あまりに久々過ぎて、過去の論調と矛盾が出ているかも(汗
そのあたり、良く読んで後ほど訂正致しますので。